殉教と生き方。米沢市の北山原殉教地を訪ねて。

山形の米沢市に来ている。
雪国だ。照り返しが眩しい。

米沢の大名(藩主)は上杉家。上杉謙信を輩出せた気位が強い武家である。そのため、徳川家からのキリスト教禁止令もこの地にはなかなか届かず、江戸初期には多くのキリスタンが米沢の街に集まっていたらしい。

しかしその上杉家も結局、最後には幕府の圧力に屈してしまう。藩の棄教命令に抗して、キリスト教の教えを棄教しなかった藩内のキリスタン50数名を藩は一箇所にまとめて処刑してしまう。1629年のことだ。

その処刑場を今は北山原殉教地と呼ぶ。
自分は今さっき、その場所に手を合わせてきた。

聖書の言葉にあるとおり「人はパンのみにて生くるものに非ず」だ。

生きていくにはその人なりの誇りとか、信念が必要だ。その誇りや信念を潰されるくらいなら死を選ぶ人もいる。それはキリスタンに限らずだ。

当たり前の話だ。誇りに結びつく、大切な経験、学び、働き、思い出、自分の属性、ルーツ…つまりは「生き方」って自分だけの話ではない。自分の周りにいた「誰か」にも結びついたものだ。

だから、誰かが「その人の誇り」を傷つけることは、その人が大切にする存在を傷つけることを意味するのだと思う。

この辺りは理屈や損得勘定では測れない。もっと深いものだ。

自分に置き換えてもわかることだ。
いや、わかりたいね。結局「わからない」と言うのはそれはなんだか、のっぺらぼうのような不気味と哀れさを感じてしまう。よくない。

正直、なかなか人のことなんてわからない。私はあなたじゃないし、あなたは私ではない。それでも、ある程度はわかりたいと互いに思うものだと思う。理屈抜きに。
そもそも「思いたいと思えるくらいの人」と日々を過ごした方が絶対によい。

まして、誰かの誇りを著しく傷つけるというのはとんでもない。誇りを捨てさせられるくらいならば、自ら処刑されることを選ぶ人もいるのだ。

もっとも時には争わなきゃいけないこともある。争い方ってのも作法というか、相手の尊厳を傷つけ過ぎないという不問律があるんだと思う。もっともこれも非常に難しいのだけれども…。

生きていくって大変だ。これから山形市の温泉へいく。

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つくし

つくにちこう(つくしの日常と小さな考察)

コメント1件

拝読しました。こころにくるテーマでした。
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