3章まとめ。「一人一票制」の弊害。私はなぜりべるたん内で「自主性」をもてなかったのか。

ここでは2017年から現在までのりべるたんの状態に対して書くとともに、私、和田についての自己分析をしていきたいと思います。

①自己分析

考察を深めたいと思います。どんなことにも「学び」はあり、「意味」もあるはずなのです。
まず、私の過去を書きます。私は神奈川県の新興住宅地に生まれ育ちました。医療専門職の父とほぼ、専業主婦の母のもとで生まれ育ちました。

私は高校を中退しています。あの高校は偏差値50の中堅公立校でした。中堅高校を中退する率は極めて低く、その数少ない例外が私でした。

もともと私は発達障害をもっていて、落ち着きがなかったり、集中力が極端にあったり、なかったり、記憶力に指向性があったりという人間です。
中学までは私は多弁な方でした。ほかの教科はからきしダメだったけど、県内の模試では社会科だけは常にかなり上位に位置していました。
そういうこともあって、私は壊れたラジオのように人と接し、友人も幼稚園時代からの付き合いだったのでそれを許容してくれたように覚えています。

しかし高校では誰とも口をきけなくなりました。今思えば場面緘黙症という症状に近い状態でした。
高校時代に友人がおらず、誰とも話せない私は当然いじめの対象でした。あまり思い出したくないけど、ロッカーをクラスメイトにへこませられたのを覚えています。
そうして私は高校2年の終わりに高校を中退しました。
両親はきちんとした人でした(優しく、むしろ甘い親だったと思います。)。

しかし特に父は性格の浮き沈みが激しく、私をかなり心配したかと思えば…部屋の中で夜中にうなり声をあげたり、何かを叩いてしまう一面があります。
父はその理由を自分は母子家庭に生まれたから…と捉えていましたが、その実はわかりません。ちなみに祖母は女で一つで子どもを育て、駅前のお店を40年以上も経営していたしっかりしたヒトでした。

そうした経緯もあり、満足に親にも相談できず、私は自分の中に引きこもりました。
そのころ自分は村上春樹やサリンジャー、ヘッセ、カミュ、太宰治、尾崎翠、秋山瑞人などの小説を愛好する以外には「南条あやの保護室」というサイトを頻繁に見るくらいしか、楽しみがありませんでした。

南条あやのサイトでネットを通じてヒトに会えることを知り、漫画「ガロ」や雑誌「ハルタ」に掲載されているような漫画を読んで「メンヘラも芸術だ」と知るような暗い青春でした。あの時期は愚かにもネトウヨ系まとめサイトをもある程度、信じていました。

そんな私も両親の手助けもあり、大学に入りました。私は地元の神奈川県の関東学院大学に進学します。

私はそこで精いっぱい、今度は友人を作ろうと努力しました。おかげで少数ですが、ちゃんと友人が出来ました。提出物を出せない私を鼓舞してくれる面倒見のいい彼女さんまでいた時期があります。
後、この関係は破綻するのですが、あの人は卒業後に小学校の先生になったらしいです。ありがたく、懐かしい思い出です。

さてさて、そんな私も大学卒業を控えて、就職の時期を迎えます。あれは2013年の秋ごろでした。
しかし私は就職の仕方もわからず、将来に絶望しました。
必要書類は書けなかったし、自分一人で背広を着るのも難しいようなポンコツだったのです。
そのころはちょうどネットを通じて人に会うことがマイブームでした。アプリを使って年上の女性とあったり、オタク系の知り合いを増やしたりしました。

その中の誰かが、社会運動をしている人でした。私はまず、ひきこもり系の居場所団体にかかわります(今もそこの準スタッフをしています)。しかし、そこだけでは満足できなかったのです。

そのころ私は社会に、政治にいら立つようになりました。自分が就職に大苦戦したのも理由の一つでしょう。流石に学生時代にいくつかの本を読んでいたので、ネトウヨ傾向は脱していました。

ちょうどそのころ、街頭でヘイトスピーチをしている団体があり、私はそれにまず怒りを覚えました。そこで、反ヘイトスピーチ系の団体と関わるようになります。

しかし、同時に当時の私は橘孝三郎や朝日平吾など、昭和維新に関わった人が取り上げられた本をかじっており「本当の日本人は差別をしないし、強欲な資本主義にも反対するものだ」という認識がありました。私は右派系の反ヘイトスピーチ団体「我道会」の構成員になります。 私はそういう界隈にいて、街頭でビラをまいたり、拡声器を使うようになりました。

ただ、街頭でヘイトスピーチをする集団を見ても、私の自意識はゆがみつつもそれでも「自分が日本人であること、本当の日本人は差別をしないんだ」という考えを捨てきれませんでした。
しかし、それでもその考えに疑わしさを少しずつ持ち始めていきました。

要するに自分は就職もできないし、自分のアイデンティである「本当の日本人も差別をしない」という概念にも疑念を抱いていました。
つまり、社会的立場も精神も不安定だという、極めて苦しい状態でした。

ちなみに今の私は、日本社会は差別に塗れており、太平洋戦争は侵略戦争で、靖国史観は欺瞞であると言う確信を得ています。

私は社会福祉と地域史に関心を持っています。祖母の家の傍には「柏木田遊郭」という軍人を客として栄えた遊郭がありました。特にこの遊郭を取材した山口瞳「血族」や沖縄出身の陸軍大佐親泊朝省の遺書(南京虐殺を告発)や傷痍軍人に関する本からは、深い影響を受けました。

その読書経験や、今の日本の社会福祉の現状を見たとき(私は福祉労働者です。)、絶対に「国を愛する」「日本社会は素晴らしい」などと、口が裂けても言えない状況認識を持っています。
今の自分は、右派から「日本国そのものに違和感を持つ立場」となり、今はアナキストを自認している状態といったところでしょうか。最近は、石川三四郎を読むようになりました。

兎に角、そういう経緯がありました。2013年頃の私も学ぼうとしました。右翼、左翼、フェミニスト、アナキスト…その他の人々とたくさん会おうと心に決めて様々な人のところを訪ねて回りました。
学びは意味があったと思う。いまだに交流のある方もいます。

ただ、私は在特会系の人間とも接触して「なぜそんなことをするのか?」と彼らに面会を申し込んで、わざわざ聞いて廻ったことがあります。
そういう私の態度と行動、そして私もそういうことを常に公にしてしまったため、私に嫌悪感をもつ様々な当事者の方も幾人かいました。

その方の一人には後日「私は差別に反対していたけど、在特会の人間との交流をひけらかす言動をしてしまい、あなたの気持ちを踏みにじった」と私は謝罪して和解しています。
もっとも謝れば許されるという趣旨の話ではなく、私の無知と鈍感さと粗野が人を踏みにじった経緯は一生涯消えることはないでしょう。

自分は不安定な人間だったのです。だから、そういう真似をしたのでしょう。恥です。
ただ、そういう不安定な状態にいた私に同じ我道会の構成員のNGさんやよんほさんが「りべるたん」の話をしてくれたように覚えています。我道会の会長の山口さんも初期のりべるたんメンバーでした。

そうして私はりべるたんを訪れます。2014年夏のことでした。そのころのりべるたんは運営者で早稲田の学生A君が逮捕されて、ごたついている時期だったと思います。

②「一人一票制」の弊害。私はなぜりべるたん内で「自主性」をもてなかったのか。

ここからは、りべるたんの組織としての「意思決定方法」を軸に私なりの反省と決意を書いていきたいと思います。

りべるたんの前史から書いていきます。2011年の震災後、関東の若手の左翼界隈には「ゆとり全共闘(ゆと全)」という社会運動体があったそうです。「就活反対デモ」を主催していたと聞いています。

私は関わっていないのだけど、りべるたんの初期メンバーはここに所属していた人が多いと聞きます。
この団体は今までの左翼組織の在り方と異なることをしました。そう、強い権限を持つ人間をあえて組織内に置かなかったそうです。

いわゆる古い体質の左翼組織の多くは「前衛党」を標榜しています。 前衛党とは、優秀なエリートの左翼活動家が「プロレタリアートや大衆運動、革命などを指導する」ための党です。

つまり、古い体質の左翼組織というのはエリート主義的な側面を持っていて、実際に日本最古にして、最大の左翼政党の「日本共産党」にもしっかりと最高意思決定機関である「中央委員会」という指導機関があります。もっとも共産党は天皇制を容認しており、そういう形態の共産主義者というのは、非常に奇妙なものですけども…。この辺りは「民主集中制」という言葉を調べてください。

さて「ゆと全」はこの指導、被指導関係を否定して、個人の自由意思を最大限尊重した新しい左翼の在り方「ノンセクト・ラジカル」を標榜したゆるやかな集まりだったそうです。ゆえに明確な強い権限を持つ代表者や指導部を置かなかったそうです。

「ゆと全」にいた複数のメンバーが立ちあげた「共同運営実験スペース・りべるたん」も似た構図がありました。ここにはここからは私が知っている話です。

「りべるたん」にも代表がいたのですが、歴代の代表はいずれも強い権力を有しませんでした。
明文化された表向きの「代表業の役割」は会議を招集する、組織の目標を立てる…程度でした。もちろん、りべるたんの代表は表向きの役割だけでなく、裏では様々な人間関係の機微に心を砕いて、人間関係の調整をする役割がありました。

りべるたんの意思決定は、基本的には会議での「一人一票制」の多数決で決まるのです。ゆえに代表には特別強い権力が付与されてはいません。代表はあくまで名目上のリーダーでしかなく、最終責任者、決定者ではないのです。

特に元代表の菅谷さん(私の前任者でもあります)は、「私は2017年までのりべるたん運営において、その主体を担ってきました。次から次へとやってくるヤバい奴を、場に適合させていきました。もちろん適合できない場合は、ときに制御し、ときに冷遇し、ときに追放しました。りべるたんがりべるたんであるバランスを保っていたと自負しています。」と自信の代表経験について振り返っています。

これはまったくその通りで、実際、バランス感覚に優れた菅谷さんが、代表権限を使って、ではなくて裏方で人間関係の調整を行うなどをして、なんとか「りべるたん」を維持していたのだろうな、と私自身も思っています。

しかし私は同じ代表(正確には共同代表)でもそれが果たせなかった。
その理由と反省をこれから書いていきたいです。

例えば菅谷さんをはじめとしたりべるたんの創設メンバーたちは人たちは「議論」が出来ていたと思います。「議論をする」ってのは当事者意識があって初めてできる行為です。

菅谷さんを始めとした彼ら彼女らの多くは学生運動家としての訓練と内省を積んでいました。
あの人たちは、活動の動機となる「自らが持つ当事者意識」が何処から来ているのかをきちんと見定めたのでしょう。例えば学生として、あるいは労働者として、或いはジェンダー、多様なアイデンティティ…そうした様々な社会的属性をちゃんと理解し、ちゃんと共感していくことで、自分たちはこう生きてきたのだ…と譲れない「矜持」を獲得していったんだろうなあと推測します。

そして、自らの「矜持」や「旗印」を護るためには、時には戦わざるを得ないわけです。それが個人の「自主性」をより強化する結果になる…みたいな所もあったんだろうなと思います。

まぁほかの人のことはいいか。
まず私は自分のことを書かねばならないのでしょう。

私には「議論」はできませんでした。なぜ、できなかったか。それは自らに自信がなく、それまでの人生で決断を迫られることがなかったのです。
それに私は不安定で自主性が低い人間でした。

りべるたんに関わったのが2014年から、運営者になったのは2015年に入ってからでした。

私は確かに運営者ではありましたが、なんというか…菅谷さんはじめとした初期の人に任せきりだったと思います。今思えば私は「運営者」として、りべるたんを広く考えていませんでしたし、自発的にも行動していませんでした。 あの頃、自分が自発的に動けたのはりべるたん内でのイベントの開催と路上鍋の実施くらいです。

しかし、りべるたんのシステムとしては「一人一票制」でした。
名目では、ほかの初期メンバーと同じ力を私も持っていたのです。これが勘違いのもとになりました。下手に一票を持つ分、私こそがりべるたんを運営している気になっていたのだと思います。

「一人一票制」は名目こそは美しいです。しかし、りべるたんは、わりと誰でも運営者になれるところがありました。一応、運営者になりたいという方が来た場合は、りべるたんの会議にかけて、そこで承認が得れれば運営者の仲間に入るという仕組みでした。もっとも明らかに見た目や言動がやばい人(そういう人もりべるたんには来ます)は兎も角として、初見はそこまでヤバくない人をちゃんと見抜いて、弾くことは難しかったです。また、来るもの拒まずという文化があり、新規運営者になりたいという人の希望が拒否されるというのは少なかったです。あのSNさんだって運営者になれたくらいです。

ゆえに私のような馬鹿でも容易に決定権を握ることが出来ます。 これが、物を深く考えない一部の運営者の「おごり」を生む原因となります。
当時のバカも私でした。そして、私が代表になってからは別のバカに悩まされることになります。
第一、この制度は運営者には簡単になれるけど、除名するのは極めて困難だという仕組みになってしまっています。
つまり、会議をして多数決をして、問題のある運営者個人をりべるたんの中から「追い出す」というのは実情、かなり難しいのです。
問題のある運営者を一人追い出すだけでも、非常に骨の折れる行為になってしまうのです。
一人に対等な一票を与えて、決定権を平等に有するりべるたんの機能は結果的に見ると大欠陥といえるでしょう。

私が問題行動を繰り返すSNさんをりべるたんから叩き出せなかった理由もそこにあります。
菅谷さんはSNさんを冷遇することが出来たが、私はSNさんをりべるたん内で冷遇する能力すらなく、むしろ運営者の権利を最大限使おうとするSNさんを止められませんでした。

当時の私は議論が苦手でした。SNさんの方が議論の中では押しが強く、弁も達者だったのです。私は彼に議論で勝つことがなかなか、できませんでした。例のSNさんは酒乱で数多くのトラブルを起こした人間です。されど、彼は少なくともある時期は、学識豊かな左翼の学生運動家ではあったと思います。

彼はわたしからしてみたら不快な人間でしたが、それでも彼には多少の当事者意識の残滓はあったんでしょう。SNさん達と大塚で夜中に路上鍋を一緒にしていた際、彼は我々を警察に通報したらしい警備員が所属する警備会社の事務所の前で、トラメガもないのに大声で抗議を行っていました。「路上の公共性を問い直す」「ちゃんと抗議する」と言う意味合いで彼は、正当で誠実な態度を取っていたと思います。「その時」だけは、彼からも運動家の片鱗を感じました。

結局、その彼すら私は止めることができませんでした。彼も不安定で極めて愚かしい人間ですが、私も彼とは違う意味で極めて不安定で愚かな人間でした。私は彼に話し合いの場で、簡単に負けて、彼に怒鳴られ、そして萎縮していきました。

結果、りべるたんはついにはSNさんのやりたい放題がまかり通る場になってしまいました。ここでも私は負けています。

かつての運営者であった増井さんや矢内さんたちが、言い争っているのを昔どこかで見たことがあります。彼らの言い争いはただの喧嘩ではなく「議論」でした。
互いに譲れない当事者意識を強固に抱えつつ、それをぶつけ合い昇華し、止揚する行為は組織や運動を高次の次元に向かわせ、新しい発想を生むのでしょう。

しかし私が彼らの議論を聞いた当初はああいう人たちの「強固な当事者意識」を深く理解出来ませんでした。自分はわかろうともしなかったのだと思います。

一人一人の構成員の自己がしっかり確立して、信頼関係が強固にある集団なら「一人一票制」は有効的だったのでしょう。
しかし私のようなぽっと出の馬鹿が紛れてくる団体にはむしろ、その仕組みは害悪でした。結局、馬鹿の思い上がりを生んだだけです。

繰り返しますが、代表になりたての2017年当初の自分は、まだ「主体性」がかなり不足していました。
りべるたん後進世代である私や同時期にりべるたん内で協力しあったKW君にも当時はなかった。
もっとも、KW君は先述したとおり、後に福祉系の労働運動家と変容を遂げていきます。彼も彼で経験を積み、変っていったのでしょう。

あの頃の自分らも「一人一票」をもっていたので、「その状況下において、正しいことを選ぶ」と言う視点は有ったんだろうけど、自己が定まってなかったので「譲れないものは絶対に譲れない」という視点はなかったです。

そのあたりの「ふわふわ」した部分が、「当事者意識の欠如、自主性のなさ」ってことになるんだと思います。やっぱり、りべるたんを「作った人達」と「我々のような途中から乗っかった人」は違いますね。

一人に平等な一票を与え、代表の権限を著しく制限するのは、悪平等で無責任なやり方でした。

今の私は、高い権限を有する責任者(代表)やそれを補佐する立場の指導的な人間が「その集団」を意識的に引っ張っていく方が一番良いと考えています。

同時に古い体質の左翼組織のような過剰なエリート主義による硬直した組織運営になることも阻止すべきです。時には責任者が暴走する危険性もあります。その可能性を鑑み、その予防策を講じるために指導、被指導の関係性に服従するだけではないバランスの良い反骨心を持つ人間の育成も組織としては大事なのでしょう。

「一人一票制」を用いた組織運営を私は二度とやりません。また私の聞く限り、菅谷さんや白石さん(ノンセクトのアクティビスト)は自営業路線を突っ走っていますし、矢内さんは実業家への道を、ほかの方も海外に移り住んだり、学業に専念したり、労働組合の活動を熱心に行ったりと様々ですが…かつてのりべるたん界隈の人間は誰も、今はりべるたんのような「一人一票制」でのフリースペース運営はしていません。これも「実験の結果」ということなのでしょう。

最近になって、ようやく今の自分も「強固な当事者意識」を持つことが出来たと思います。

私は過去で自分がしてきたことを茶化されたら全力でキレます。それは自分は自分なりに頑張ってきた。私は懸命に考え、これでも生きてきたという自負があるからです。

私は断言します。私自身、これまでりべるたんも賃労働である福祉労働も自分なりに一生懸命やったのです。
苦しみ、うまくいかないことばかりだったとしても、それでもやってきた「今の私」にはある種の「色」が付きました。
覚悟が決まりました。自分の生きる道はある程度、定まっていき、同時に今までの経験はや思いはもう、一生ついて回るんだと思います。

そういう意味では、私個人としては、良くも悪くも2017年度で一番の「りべるたんの当事者」としての経験は積めたのかな思っています。

その意味では「学び」はありました。私の人格の変容にもいい意味で、この経験が役立ったのでしょう。 
2017年に苦汁をなめながらも代表業を経験した今の私は結果的にはある程度の「主体性」を獲得出来たと言えると思います。

もっとも、精神は明らかに歪みました。これを歪んだと評するべきなのか、個性的になったというべきなのかはわかりません。

私は社会運動界隈に入ったときは「ぐずぐず」と名乗っていました。5,6年前の私は非常に自虐的な人間でしたし、「いろいろな人がいるなあ」という口癖があったと周りから冷やかされてことがあります。もう、二度とそういう自虐はしません。私は絶対にこれ以上、人になめられたくないし、「いろんな人」にも心底うんざりしています。

私は福祉を学ぶ身なので社会の多様性を尊重しますが、多様性を否定する多様性、寛容を否定する寛容には徹底した反対を表明し、必要あれば抗議の行動をとります。

そういえば、今年度(2018年度)はNKさん(街頭で積極的に声を上げているアナキスト)とかYSさん(在野の思想家にして、福祉労働者)と会う機会が増えました。あの人たちと今、たき火や路上解放アピールを繰り返し行っています。あの人たちもまた、長く運動をしているゆと全からのりべるたん界隈の人達でした。

あの人たちも長いことを社会運動に目を向けているだけあって、自らが関係する職業や属する社会に対する考察が深いなあと思うし、それ以上にあの人たちには自らに対する「矜持」があるんだろうなと思うのです。

特にYSさんは介護労働のなかで、利用者からクビにされた際には「これは、自分の権利の侵害だ、自分の職業性の否定だ」と烈火のごとく怒っていました。
そしてその事象を分析する長文の論文を作成していました。 昔の自分だったら「上手くやれなかった自分が悪かったんだ」の一言で終えてたな…と思います。 自分の問題を社会の問題とつなげて、しかもそれを文章にして社会に訴えるのは流石、いみじくも「活動家」だなーと思いました。

正直に言えば、そういう「職業の中の当事者意識の確立」は転職ブームが到来している今の時代には流行らない気もします。その思いが社会の中で広く支持を得れるのかといったら怪しいところはある。されど、私はYSさんの怒りには美しいモノがあったと心から信じています。

今思えば、ちゃんと自分を確立して、自分で決めていかないと人間は腐るし、その都度、声の大きな他人が正義に振り回されて消耗しちまうんですよね。

ちゃんと自己分析して、ちゃんと自分の譲れないものを持たない人間は他者と「議論すること」さえままなりません。
そんな人間がいくら集まっても、その場の声の大きな人間に振り回されるがオチです。 その結果が2017年度のりべるたんの末路でした。

そして、その声の大きな人間はたいてい、どこか闇を抱えています。 そういう人間に扇動されると…誰かをリンチしてしまったり、追い出したりしてしまうのです。

しかも自分が主導したわけでもないから、多くの人は罪悪感すら感じません。また繰り返します。 そして自分がターゲットになるまでわからないのでしょう。それこそ昔の自分みたいに。

これまで私がつづった文章が私が、私が今出来る最大限の「報告」となります。反面教師としてどなたかが参考にしていただければ、幸甚です。

私は今後も生きていきます。今の自分はせっかく獲得しつつある「主体性」をちゃんと維持したい。そしてなにより「私は私を生きたい」。もう後悔したくない。 ちゃんと声を上げるべきことには、声を上げたい。
そうして、何があっても生き残って、これから自分の道を懸命に見つけていきます。

まぁ長く書きました。読んでいただきありがとうございました。

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つくし

りべるたん顛末記

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