見出し画像

「焦煙」24/27

                   二十四、

 久保は東北本線下り青森行き夜行列車の車内にいた。終戦後暫くは買い出しに出る人々が警察の取締を逃れてこうした夜行列車を利用し、その状況を取材する為何度か乗車し、往復したこともあった。
 当時はどの列車も見るからに買い出し客であると判る人々で車内は犇きあい、特に上り列車は担ぎ込まれた荷物で足の踏み場もなかった。
 だが世情が多少でも落ち着きを見せ始め、物資も徐々に流通し始めた現在、車内には空席が目立つ。それぞれの座席には出稼ぎ帰りの人夫達だろうか二人掛けの椅子を占拠して精も魂も尽き果てた如くに体を虫のように丸め牛のような鼾を轟かせている。
 前日久保は部長に数日の休暇を願い出た。部長は快諾してくれたが、思い出したように云った。
「君が横浜に取材に行った翌る日、だったかな。神奈川警察本部から君の身分照会があった。塚本とか云う刑事で、ものの云い方の横柄な奴だった。終戦後民主警察とか云ってるが結局あんな奴が今ものさばって昔も今も実態は何も変わっちゃいないんだ…君、何か気に障るようなことでも云ったのかい?」
 久保は怪訝に思った。塚本刑事は久保の訪問に確かに不機嫌丸出しで応対したが質問自体は単純であり通常の取材事項でしかなかった。塚本刑事を訪ねた時点では支局員松本が「変」だと感じる以上のものを久保は何も感じていなかった。塚本刑事の機嫌を特別に損ねるようなことを尋いた訳でもない。身分照会をして来たとはどう云う意味なんだろうか…まさか久保のことを偽記者だと疑った訳でもなかろうに…
 入社し社会部に所属して以来殆ど休日のなかった久保、座り心地の悪い硬い木製の座席乍ら何処からとも流れて来る温風に足元が温もり、軌道継ぎ目を通過する度の単調で規則的な音と振動が睡魔を誘い、いつしか久保は窓枠にもたれて眠ってしまっていた。
 久保は夢を見た。真新しい軍服に身を包み、列車のタラップに足を掛け、振り返り見た兄の何処か寂しげな笑顔、そして把手を握る手の、奇妙に折れ曲がって動かない中指…帰省した折りに見せてくれた同僚と一緒に写した一枚の写真に映る機関士服の、しかし石炭に塗れて真っ黒な顔に真っ白な歯…  
 その兄にもうすぐ会える、そんな予感に子供の頃のように無邪気にはしゃぐ久保。だが不意に気付く、その兄は既に死んだのだと。
 嫌な夢醒めだった。列車内に漂う石炭の煤煙臭。この匂いに誘われ夢の中に兄の姿を映したのか。久保は窓の外を見遣る。雪も残っていそうな筈だが真っ暗闇で何も見えなかった。久保は再びまどろむ。

 上野駅。久保が福島行きの切符を買って改札に向かったその直後同じ窓口で出稼ぎふうの、しかし鋭い目つきの男が久保の背中を目で追いつつ係員に久保が買った切符の行き先を尋ね、そして立ち去ったことを久保が知る筈もなかった。

 福島駅。東京は桜の花が咲き始める陽気が続いていた。だが列車の出口に並んだ時から冷たい風が久保の足元に流れた。久保は用意の外套を着込む。駅前広場に国鉄労働者らの、久保には懐かしい制服の一団が幟や旗を振り、ガリ版刷りのビラを配り、声を荒げている。
「当局のデッチ上げだ」
「証拠は全て警察の捏造だ」
「強制自白は無効だ」
「被告の無罪を勝ち取ろう」
「当局は新刑訴法の精神を遵守せよ」
松川事件被告等の無罪を通行する人々に訴えている。だが人々はその一団を、その訴えを避けて通る。
 事件公判審理は新聞で詳しく報じられていた。弁護側は、証拠・自白に対する矛盾、捜査の違法性を激しく糾弾し、対して警察・検察側は更に辻褄の合わぬ回答と空途呆けた対応でその指摘をかわす、そんな状況が依然続いていた。
 ビラを配る男に近寄り軽く会釈して久保は懐から一枚の写真を取り出して見せた。男の目につと警戒の色が出る。官憲と思ったのか。
「こっちに写っているのは私の兄ですが、この方、山口さんに会いたいのですが、山口さんの勤務状況ご存知ないですか」
国鉄機関士と二人の助手が写る写真に男は安堵したのか身内に会うような笑顔をみせた。暫く写真を凝視していたが、
「山口さんと久保さんだ」
隣の男にも見せて確認する。
「久保さんは出征して南方で戦死したと聞いているだが、山口さんは、今、車掌区で」
数人が集まって来て写真を交互に回し見る。その内の一人が
「あんだ、久保さんの弟、さんか?そう云えば何処となく面影ある…」
久保の顔を懐かしげに、だが気の毒そうにも覗く。
「夕方ここへ来てくれたらそれまでに山口さんの乗務予定、調べておくが」
久保は夕刻の再訪を約して一団から離れた。
 駅すぐ近くの建物に久保の勤務する新聞社福島支局が在る。支局には東京社会部から派遣され松川事件発生直後からその後の公判を取材し続けている遠藤先輩が居る。その遠藤を訪ね、佐藤某の死に関する「異」を、そして不確か乍ら疑心を抱くに至った佐藤の生前の状況を話して「疑」を解き明かす助力を得るつもりでいた。
 久保はしかし躊躇した。遠藤の多忙を想像出来た。また部長に単なる休暇とだけ届けておきながら不意に支局を訪ね、そんな話を披露してもし自身の抱く「疑」が松川事件に繋がるものだった場合、いや全くの無関係であった場合にでも、遠藤にだけそんな疑問を提示することは組織の一員として、新聞記者の一人として当然許容されるものでないと久保は思い直した。第一に久保の「疑」は現時点では何ら確証のない、推測の域を出るものではなかった。

 道端に捨て集めて凍りついた雪が泥で汚れ、溶ける雪水で道はぬかるんでいる。その道を進駐軍のジープを先頭に数台の軍用トラックが道の凹凸に車体をきしませて走って来る。泥水が跳ね散り、久保の外套も新調の靴も泥に塗れた。トラック荷台に並ぶ青白い顔の、ガムを口を開けて噛む進駐軍兵士の誰一人久保の様子を見向きもせずに過ぎ去った。東京や横浜の市街地ではたまにその姿を見るが出張に出た地方では滅多と見かけない。特に朝鮮戦争勃発以来東京でも彼等の数は少なくなっている。この地に進駐軍の基地でもあるのだろうか。
 ハンカチで外套、ズボンの裾に飛び散った泥を拭う。靴はこの泥道では仕方がない。久保は駅前に戻りハイヤーに乗る。

 夜行列車から降り改札を出た久保、駅前で国労職員らに写真を見せ何か確認する久保、福島支局の建物の前で立ち止まり躇うふうな久保、走り過ぎた進駐軍トラックに泥をはねられ、そしてハイヤーに乗り込む迄の久保の行動の一部始終を監視し続けていた男がいた。
 男は久保の乗ったハイヤー会社名、その車番を罫線の入った黄色の用紙に書き込んだ。神奈川警察一係塚本刑事から久保記者の福島行きを知らされたCIC福島のタナカであった。

「新聞記者さんですか。黒岩の満願寺から列車転覆現場へ、ですね。初めてですか、こちらへは。そうですか。今走っているのが陸羽街道、これをこのまま走れば松川町に向かいます。黒岩から一旦この国道に戻って途中松川町手前の踏切から農道に入って線路沿いに走れば列車の転覆事故現場に着きます。
 渋川村へ、ですか?渋川村へはこの国道を松川町迄走って途中の辻で左に曲がってそのまま走れば渋川村へ向かいます。ですが、地元の人はわざわざそんな遠回りしませんですけどね。さっき云いました農道、畦道のちょっとましな程度の道ですが、この線路沿いの道を走れば近道出来るんです。途中にその列車転覆現場が見えて来ます。でこぼこですから、我慢して下さいよ。
 どうなるんですかね、裁判は。私らには判りません、どっちがどっちだか。警察の云うとることを信じればアカの奴等が犯人だし、アカの奴らが云うのが本当なら警察が嘘を云うとることになる。
 嫌な予感がしとったんです。その前からあちこちで列車の暴走や脱線事故が続いとったでしょう。この福島の国労、東芝労組には全国でもばりばりのアカの連中が集まっとる云う噂じゃったから、奴等が何かどでかいことやりゃしねえかって地元の者は云うとったですから」
運転手はそれが当り前のように侮蔑を込めてアカと云う。久保は兄が侮辱されているような痛みを感じる。だが子供の頃から心身に受けたその痛みに耐えてきた久保、何故これ程迄にアカが世間から忌み嫌われ、疎まれるのかその所以が未だに判らない。アカと云えば危険思想、アカは破壊主義、アカは国家転覆を計る国賊。だが、と久保は思う。戦地で、内地で多くの人々の命、財産を奪い、果てに国家を消滅させたのはいったい誰か…
 身内を失い、家を焼かれた人々が悲しみを忘れ復興に再びその生気を取り戻そうと必死に生きる国民の希望を無視して、一己の政治的実権欲しさに元は民主主義者だと進駐軍に媚を売り、戦犯となった軍友、戦友の死刑執行に何の抵抗も示さず、進駐軍の意うがままの国家建設をめざす吉田とその一味、己が損得計算でのみ同盟と離反を繰り返すその政敵ら…この連中こそが国を滅ぼす売国奴、国賊ではないのか…

 黒岩の満願寺にハイヤーは着く。何処にでもありそうな詫びしいばかりの小さな寺。境内はやや広い。
 この境内のどこかで少年A・Kが夜店でキャンデーを売っていた友人に列車転覆を予言した。少年は警察で厳しい取り調べに晒され、遂に陥落した。  
 その供述に基づき実行犯として五名、他に共同謀議の罪で合計二〇名の、共産党員を含む、国労、東芝労組員が逮捕された。これだけの大人数が、こんなちっぽけな境内での友達同士の軽い会話が因で身柄を拘束されたことが信じられない。境内の片隅に残る雪の塊、その溶ける水で土はぬかるみ、枯れ葉が土にへばりついている。
 少年が予言した夜、この同じ境内で友人の露店で佐藤も綿菓子売りを手伝っていたのだ。佐藤が居た綿菓子の店とA・K少年が手伝っていたキャンデーの店がこの程度の広さの境内でそう離れていた筈はない。もしかして互いに、佐藤の妻の話では佐藤は例年友人の店を手伝っていたというからには、お互い顔見知りだった可能性は高いし、屋台を組んだり売り物の準備をしたりで手伝い合ったり声を掛けたりした可能性もある。ならば、当夜境内が幾ら賑わって喧騒していたとしても、少年A・Kの予言も耳にした可能性も考えられる。
 このことが、予言を聞いてしまったことが、その翌朝からの佐藤の様子の急変、怯えの原因になったとも考えられる。佐藤が列車脱線の話を妻に教えられた途端急に熱を帯びたように身体をがたがた震わせたのは予言が現実になったことに驚いたためか…そしてその数日後渋川村から姿を消したのは予言の事実を口外するなと誰かに脅迫されたためなのか…
 公判でA・K少年の自白、即ち列車転覆の予言を巡って弁護側、検察側が激しく応酬し合うさまが報道されている。いずれが真実か…
 久保は待たせていたハイヤーに乗り込み事故現場へと向かう。運転手が話しかける。
「変な話もありましてね。これは地元の者だけの噂ですが、さあ、他の記者さんに誰か喋ったかも知れませんが、事故現場からちょっと離れたところに小さな薮が有りまして、そこに列車の脱線事故が起きるまで乞食が住み着いていたらしいんですが、あの事故の日からその姿が見えない。だから地元の人間はこの乞食が誰かが線路を外しているところを見て恐ろしくなって何処かへ逃げたか、それとも…」
と云って話を途切った。
「それとも、何んですか」
「いや、何処かに連れ去られて殺されたんじゃないかって噂なんです。いや、しかし、実際にそんな乞食がその辺りに居たって云うのも本当かどうか分かりませんですけどね」
運転手は面白がるふうに云った。

 ハイヤーは陸羽街道を南下し、そして線路踏切の手前で左折して農道へとはいった。途端に後部座席の久保の体が宙に跳ねる。でこぼこを避けて運転手はハンドルを右に左に切り返す。運転手にしゃべる余裕はない。雪でぬかるむ悪路を十分程走ってハイヤーは停止した。
「あそこ、です。線路が大きくカーブしたあの辺りに、機関車と客車が折り重なっていたんです。たんぼの稲も青々としとったんですが、脱線して滑って来た機関車に土と一緒に根こそぎえぐられていました」
久保はハイヤーから降り、縫うように線路用土堤が続く田園風景を眺めた。そして今ハイヤーが停車する位置と土堤との距離が余りに間近であることに驚いた。
 あの事件の直前黒岩の満願寺からの帰路、国道からハイヤーが進入して来たと同じ渋川村への近道であるこの農道を走って来たとしたら、佐藤はこの眼前の土堤の上で男達が線路を外している現場に遭遇する…当夜は小雨が降った後の曇り空だったと云う。だが幾ら真っ暗闇でも佐藤の車には照明もあるし、土堤の上の男達も何か照明を点けていたに違いない。
 佐藤は線路工作現場を目撃した…そして照明に浮かぶ男達の姿を見た…だが、佐藤はその後も数日は、例え何かに怯えた様子だったとは云え、ここからはそう遠くないらしい渋川村の自宅で過ごしている。しかも佐藤の様子の急変が始まったのが、翌朝遅くに起きてきて妻から列車転覆事故を聞いた直後だった、と云うことは、佐藤は自分が前夜、線路脇で目撃した光景は決して悪意のものではない、線路の点検か修理工事ぐらいにその時は思っていたのかも知れない。
 だがそれが大変なことだったと朝になって知った。数日なお佐藤が自宅で過ごしていたと云うことは、実行犯人達は佐藤が工作現場を見ていたことに気付かなかったとも考えられる。しかし農道と線路の距離は目と鼻の先、夜中、でこぼこの道を車体をきしませて、照明も夜空の雲を照らし出していただろうし、トラックのエンジンの音に実行犯人達が気付かぬ筈はない。
 いずれにしろ佐藤は身の危険を感じた。だが誰かに口外出来るような事ではない。口にすれば聞いた相手迄も危険に晒される。佐藤は行方をくらました、そうする以外なかったのだ…
 果たして佐藤がここで見た犯人達はいったいどんな連中だったのか…佐藤 某の横浜での死が他殺だったとしたら、犯人達は執拗に佐藤の行方を追ったと云うことを証明し、かつそれは必ず大がかりな組織であると想像出来る。  
 大がかりな組織…実行犯はやはり国労、東芝労組、そして共産党の人間だったのか。
 しかし、あくまでこれは久保の推測である。可能性があると云うだけで実証するものは何もない。
「線路を外したアカの奴等はこの道を通って往復したらしいですよ。警察の実況検分の時わたしも新聞記者さん乗せてここに来てまして、警官や刑事さんや、判事さん、手錠を掛けられた犯人らが何遍も往ったり来たりして、それを付近の百姓らが大勢取り巻いて見守っていました」
いつの間にか久保のそばに来ていた運転手がそう云った。
 実行犯達が現場に向かうか工作を終えての途中に、佐藤と出合った可能性もある。
 少年の列車転覆の予言があったと云う満願寺境内に佐藤も同じ時刻そこに居てその予言を聞いた可能性も含め、佐藤がその何れにどう係わったのか判らない。だが佐藤の様子の急変、怯えの原因、出奔の理由が「松川事件」に原因し、しかも事件の本質、実行犯が誰であるかを知ってしまったが所以であると久保は確信する。何も証拠は無い。だが他にどう考えればよい…
 ふと久保の脳裏に佐藤の短文が思い浮かぶ。「自殺」だの、「バラバラにされて」だの、「首繋ぎ真綿で絞められる」だの、佐藤はいったい何をどう表現したかったのだ。目撃したことの重大さに怯え、耐え切れず、いや誰かに脅迫され、追い詰められ、自殺を考えたのか…
 いや、ちょっと待て、佐藤がこれら意味不明の短文を書き遺した雑記帳は佐藤の妻が自宅で見つけたもの。と云うことは、佐藤は渋川村に居た間、横浜の弟のところへ向かう以前に、既に誰かから脅迫を受けていたことは確実となる。
 久保は自身が飛んでもないことに係わり始めていることを実感する。佐藤 と「松川事件」の犯人との遭遇をいよいよ強く確信するにつれ、久保は身震いする程の興奮を感じた。
 佐藤の死が自殺か他殺かそれは現時点では判断のしようもない。しかし死の原因が「松川事件」の本質に絡むものであることは明白である。
「私の甥っ子が福島地区署に勤務しているんですが、その甥っ子が云うには、地区署にえらい刑事さんが居るらしいですよ。私も実況検分の時ちらっと見たのですが、東京の警察庁出身の刑事さんで、事件の前から国鉄や東芝工場の共産党員の様子を探らせていたらしいんですが、事件が発生するなり、陣頭に立って、次々と共産党員を捕まえて、何もかも白状させた凄腕の刑事さんです。この刑事さんの前では地区署の署長なんか出る幕無かったらしくてね。列車が転覆する二、三日か前の夜、元憲兵の逃亡戦犯が逃げ込んで来て、茨城か何処かの刑事が応援を頼んできたことがあったらしいんですが、その時もこの署長、この刑事に始末を頼んだら、たった一晩で戦犯を逮捕して、進駐軍にさっさと引き渡したらしいんです。英語も読めるとか云う話です。「すごう」とか云ってました」
運転手は英雄の如く一人の刑事を称える。
 不意に遠く汽笛がこだました。
「上りだな」
運転手は北の方向を見遣る。田園の、処所に小山があったり、小さな林があったり、その遠く向こうに黒煙を吹き上げる黒鉄(くろがね)の機関車が見えて来た。久保と運転手は黙って機関車を迎え、そして見送った。走り去る先頭機関車、機関士と助手の姿が見えた。久保は兄の幻影を見た。石炭の粉に塗れて真っ黒な顔に真っ白な歯、折れ曲がった指で手を振る寂しそうな目…
 十数両の連結車両が通過するのを待って、久保は運転手に尋ねた。
「乞食が住み着いていたと云うのはあの薮の中ですか」
「いや、判らないです。第一その話が本当かどうか…」
久保は畦を伝って小山の裾にある小さな竹薮に入った。ゴミのようなものがひと塊になっているところがあった。誰かが捨てたごみなのか、誰か人が居た跡か。それに去年の八月からは半年以上も過ぎている。乞食が居たと云うのはこのごみの塊を見た誰かがそんな話を作ったのかも知れない。また事実乞食が居たとしても事件発生で多くの人々がこの地に集まり、乞食がそれを嫌ってか恐れをなして逃げ出したとも考えられる。
「判んねえだなす」
運転手が訛って喋った。久保の驚く表情に気付いて運転手は苦笑した。
「いや、私は長い間東京に居ましてね。空襲がひどくなって生まれ故郷の会津に帰って来たんですが、東京の家も焼かれてしまいまして、それでそのままこっちで…」

 ハイヤーに戻り渋川村の佐藤の家を目指した。車中で久保は列車脱線現場を見て強まった「疑」への確信をもう一度吟味してみた。時間的、場所的、そして地理的に佐藤が八月一七日早朝に発生した「松川事件」に何らかの、しかも犯人と直接的な係わり、 見たか聞いたか、そんな関わりがあった可能性は非常に高いと云える。満願寺で少年の予言を聞いたのか、線路工作現場に遭遇したのかそれとも犯人達と顔を鉢合わせたのかそれは判らない。しかしこのいずれかが佐藤の様子を急変させ、この地から姿を消した原因であることもほぼ確実だ。
  ここ迄「松川事件」と佐藤の死との関連性を結び付けて考えて来て、久保はこの疑問を果たして今後どう処置すれば良いか思案した。「疑」を具体化する為には実証しなければならない。だが久保一人ではとても出来る話ではない。部長に全てを打ち明けてその後の処理を委ねるしか方法はない。もしこれらのことが証明された時「松川事件」公判はいったいどんな展開をみせるのか。云った、云わない、やった、やってないの被告と警察の論争はこの新事実の提示によって全く別な様相に展開するだろうことは間違いない。


 佐藤の家の前庭にハイヤーは乗り入れた。放し飼いの数羽の鶏がハイヤーの侵入に驚き、けたたましく鳴き跳ねて逃げ惑う。障子紙を張った木戸が開いて佐藤の妻が出てきた。久保はハイヤーの運転手に交渉した料金に多少上乗せして運賃を支払った。ハイヤーは来た農道を帰って行く。帰りは近くの駅まで歩き、そこから列車で福島駅に戻る予定である。

 久保を降ろしたハイヤーは福島駅前に戻った。雑巾を濡らして車体の泥を洗い流していた運転手は背中をこんと叩かれて振り向いた。背広姿の、渋川村迄送ったさっきの客のように都会ふうに垢抜けした、だが日焼けしたように顔の赤い男が立っている。客と思い愛想を浮かべた。
「地区署の者だ。聞きたいことがある」
地区署の者?だが警察に咎めを受ける心当りはない。
「何ですか?」
「若い、東京からの客を乗せて行ったが、何処まで乗せて行った」
喋る抑揚に違和を感じた。それに何処か威圧的であった。
「さっきの新聞記者さんのことですかな。それなら、黒岩の満願寺へ行って、そこから列車が脱線した所に案内して、そのあと渋川村迄送って行きました、それが、何か…」
どうしても戦前、戦中の強圧な警官の印象を拭い切れない運転手は卑屈にそう答えた。
「渋川村では、何処の家へ行った…」
「佐藤何んとか云う…」
男はそれだけを聞くと背を向けて駅舎に向かった。運転手は呆っ気ない中断に口をぽかんとあけて男の後ろ姿を見送った。福島の市街地にはやたらと進駐軍兵士が多い。それが何故か運転手が知る訳もない。白人、黒人の兵士、将校らに混じって日系の兵士や職員も見かける。時折見かけるそんな兵士か職員かと男の変な発音の日本語、それに赤い顔から運転手はそう思った。だが男は「地区署の者」と名乗っていた。それに
「渋川村で何処の家へ行った?」
と男は尋いた。場所とか地区名ではなく何処の家へ行ったかと…?運転手は首を傾げた。暫く駅舎の方を見ていたが思い出したように雑巾を濡らし再び車の泥を洗い流し始めた。

 男はCIC福島事務所に駐留するタナカであった。「松川事件」公判は現在のところ相田の脚本通りに一応は順調に推移する。だが将来を決して楽観視出来ない。弁護側の反論も強力であり、かつ肝心の相田自身の態度に微妙な変化、兆候が見え隠れする。
 現場目撃者である佐藤と云う農夫を口封じの為殺害しその処置も万全であった。だが完全であったと信じていたタナカはその処置方に何かミスがあったのではと危惧を抱くようになっていた。拷問の結果佐藤が誰にもその秘密を打ち明けていないことは確信できる。だが何か書き遺していないか、そのことが懸念される。近い内に適当な理由を付けて佐藤の家を家宅捜索をするつもりでいた。その前に思いがけず変な蝿が佐藤の周辺に舞い始めたのである。久保と云う新聞記者。何が出て来ようとも全て強引に処理出来る。それだけの権限がある。だがそのことで公判の進行を妨害されることはタナカの望むところではない。
 もしあの農夫が見たことの全てを何かに書き遺していたら…と云う危惧もある。万が一にそんなものが出てきても何んとしても揉み消しもしよう。その処理のため余分な神経も遣わなければならず、そのことも煩わしい。
 最近の相田の、どこか冷めた対応に懸念する部分がある。その理由が何か不明だが、今のところそこに悪意はなさそうだ。当面相田には公判指導に全力を傾注させなければならない。自身が表に出ることは不可であり、直属部下を使うのも躇らわれる。タナカは事務所に戻ると神奈川警察本部長を呼び出し、塚本のCIC福島への即時移籍を命じた。

 佐藤の妻には手紙で今日の訪問を知らせてあった。囲炉裏の縁に一人の農夫が座っていた。久保は土間から先に頭を下げて会釈する。男は慌てて頭をちょこっと下げた。
「汚ねえですが、ま、あがらしてくなんせ」
佐藤の妻に勧められて久保は囲炉裏のふちに座る。薄く灰に被われた炭火の淡い炎が冷えた久保の指先を温める。
「うちの人のわらしの時からの友達で、木下さん、木下祐一さん、です。去年黒岩の満願寺の宵宮でうちの人が店の手伝いをしとった、です」
佐藤の妻はそう紹介した。仏壇があった。久保は焼香した。遺影。初めて見る佐藤の顔。いかつい顎、薄い頭髪、横浜で会った弟に何処か似る。
 暑いとか寒いとか、東京は今どんな様子かなどとお互いの声が耳慣れる迄そんな話をしたあと、久保の問いに木下は答えた。
「警察では佐藤が自殺したみてえなこと云っとるようだども絶対そだごどねえだ。佐藤とはわらしの頃からずっと一緒だで、このおらが一番佐藤のごど知ってるだ。自殺なんぞする訳ねえだ。それに横浜の警察は佐藤が酒に酔って海に落ちたかも知れんと云うたらしいだが、佐藤は若え頃からただの一滴も酒飲めねえだ」
「一六日の夜、何時頃佐藤さんと別れたんですか」
「一一時か一二時頃小雨が降って来たし、前の晩げに土蔵破りがあって、警察が非常警戒しとったもんで参詣の人も元々少ねかったで、一時頃までに片付けて、佐藤には先に帰って貰っただ」
「佐藤さんの様子に何か気付かれたようなことは」
「いつも通りだった。おらと翌る日のごど約束して帰っただ」
「翌る日のこと、とは」
「明くる日に、また片付け、手伝いに来てくれと頼んでたんだ」
佐藤は翌日のことを考えていたのだ。久保は暫し考えに耽った。
「満願寺の境内と云えば、佐藤さん、木下さんが一緒に居た同じ時間帯に松川事件の被告の一人が友達に列車転覆を予言したとされているところですが、この被告や被告の友達とかと木下さんは面識ありますか」
「毎年のことだで、宵宮のある日のひんのめ(昼前)から屋台を組むだが、お互え足んねえ道具を貸りたり手伝ったりして、たいがい皆な顔見知りだ。そのA・Kとか友達の何んとかも知っとるし、売れた売れねかったなんぞと声掛け合うたりしてただ。不良仲間とか新聞で云うてるだがそだごどねえだ。皆ないい子だ。あのA・Kがアカじゃったとは知らねかっただが、ほだどもあんたらおっかねえこどする子には見えねかった」
久保は当夜の露店の配置図を書いてくれと頼んだ。木下は思いだし乍らしかしすぐに書き上げた。
「大体毎年皆な同じ場所に決まっとるし」
木下の店とA・Kの友人の店は間に二軒を挟んでいる。
「話は聞こえましたか」
「客の少ねえ時なら聞ごえたかも知んねえが、新聞で云うとるようなこと云ったかどうかは判らねえだ」
久保は再び沈思する
「久保さん、おら、あんだが来るめえに君子さんと話しとったんだども、おら、もすかして佐藤のやつ、アカの奴等と途中で鉢合わせでもしたんでねえかと…」
木下は声を潜めて云った。
「そでねえか。佐藤が家に着いたのが二時頃だったと君子さんは云う。おらと別れたのが一時頃、丁度その時間、アカの奴等が現場に居たかへ往復しとった時間でねえだか」
「木下さんが帰る時、満願寺の境内にA・Kらは未だいましたか」
「あ、いや、よぐ覚えてねえ。未だ誰か居たようだ。だどもそれがA・Kだったかどうか思い出せねえ。あ、そか、A・Kも実行犯だとして警察に捕まったんだな。こんたら大事なことを。おら、あん時一杯引っ掛けてたんだ。だども、よぐ考えてみると、もす佐藤がアカの奴等と鉢合わせたり、見たごど誰にもしゃべるなと脅されたりしてたどしたら、おかしな具合になるだ。 
 佐藤が横浜の勝っちゃんとこの家から姿消したのは一月一二日だ、な、君子さん、だどもアカの奴等が捕まったのは去年の九月の終わりから確か十月の二十日ぐれえ迄の間じゃった、佐藤はアカの奴等から逃げ隠れすることは無がったんでねえだか…」
一人で考えれば一つのことに拘泥してそこから離れられなくなるし、また有らぬ方向に考えが一人歩きする危険がある。だが木下の、声を潜めて云った思い付きは久保の「疑」への見当がまんざら的外れでないことを証明してくれた。しかし久保の思考にやはり大きな陥穽が有ったことも認識させられた。
 そうだ、佐藤は、去年の九月、十月の時点ではいざ知らず、今年の一月になって何も「アカ」から逃げる必要はなかったのだ。だが、佐藤は身を隠した。そしてそれ迄も相変わらず何かに怯えていたのだ。久保は佐藤の怯え、失踪、そして死に至る原因を大きな組織からの脅迫だと想定し、かつその組織は国労か東芝労組、これらを指導する共産党だと思い込んでいたのである。この思い込みも、新聞記事の内容、主張にいつの間にか染まっていたことに気付いたのである。
 確かに、佐藤が見たことをもたつく法廷で証言すればどちらかには致命的となる。
「今考げえてみると、去年の虚空蔵菩薩の宵宮の時のごど、久保さんにA・Kのごど聞かれている内に思い出したんだども、あの晩げ、見慣れねえ、おっかねえ顔した男が境内をうろついてたんだ。いんや、この土地の者んじゃねえだ。多分一○時か一一時頃だったと思うが、A・Kが、ほうだ、あの子が店に顔を出したのは確かそんな時間だった、そん時に、後から人相の、目つきの悪い男があとを尾けるようなそでねえような、そんなふうに境内に来て、おら達の屋台にも顔出して、綿菓子買うような買わねえような…ああ、おら、今やっと思い出しただ、あん時の男は、ほだ、去年、列車転覆現場の実況検分の時に居た男だ、あん時どっかで見た顔だと…あ、今思い出しただ。やっぱしあの刑事に間違えねえ」
実況検分の時の、目つきの鋭い刑事…ハイヤー運転手が英雄の如く褒め称えていた刑事と同じ人物のことのようだ。元国鉄労組員であり、そして松川事件の実行犯となるA・Kをこの刑事は事件当夜尾行していたのか。
 では、この刑事はA・Kの列車転覆の予言を直接聞いたのか?この後仲間と集合し線路工作に向かうA・K少年の尾行をこの刑事は何時まで続けたのか?もし執拗に尾行し続けたとすればA・K少年らが犯行に至る迄の全てをこの刑事が目撃したことになる…もしそうだとすると…何故この刑事は法廷でそう証言しないのか。
 久保は喉に渇きを覚える。
「久保さん、やっぱりうちの人はあの事件に係わりあったんですか、それで誰かにせでがれて…」
佐藤の妻が不安げに問う。
「何んとも云えません。もっと情報を集めないと…。佐藤さんが横浜に行く迄誰か佐藤さんを訪ねてこられたようなことは?」
「いんにゃ、誰も来ねかっただ。横浜の勝っちゃんどごへも誰もうちの人訪ねて来ねかったと云ってただ」
「こちらの警察にも訪ねて色々聞いてみたいのですが、木下さん、その宵宮の時に見た刑事の名前はご存知ないですか」
「確か、変わった名前の、ほだ、すごう、とか云う刑事だ」

 久保は汽車で福島駅に戻る。途中松川駅を過ぎ、ゆるやかなカーブ地点に差しかかって車輪がレールに軋む。久保は窓の外を見遣る。処所に雪が残るありふれた田園風景、その何処にも事故の痕跡はない。だが二〇名の被告は獄房に拘束され無実を叫ぶ。
 久保はこれ迄に聞き知った事柄、それについて検討した結果を整理した。佐藤の出奔、四〇日間の失跡、そして不自然な死。佐藤が遺した短文、そこに表現する怯え…佐藤が何か個人的な悩みに耐え切れず自殺を決意する、このことは今となってははっきりと否定出来る。佐藤の怯えは誰かに脅迫されていたことが原因であることは明らかである。だがその対象は正体不明。しかし「疑」は次第と深まる。「疑」は松川事件の本質に愈々係わる…

 福島駅改札口で駅員と立ち話をしていた男が久保の姿を認め、手を大きく振る。今朝、駅前で久保が兄の写真を見せた労組員だった。
「山口さんは今晩七時一三分福島駅着の上りで乗務交替となっていだ。今あの改札員に山口さんが降りて来たらあんだがごごで待ってるから伝えてやってくれと頼んだ」
久保は改札員に会釈し、労組員に礼を云って駅前に出た。社の支局に寄るべきか未だ決めかねていた。渋川村迄利用したハイヤーが目に留まる。客待ちしていた運転手が久保を見つけて降りてきた。何か辺りを気にする様子である。
「お客さんを降ろしてここに戻って来ましたら、地区署の者だと云ってお客さんを何処まで乗せていったか尋かれました。何んだか変な男だったが、あれ、絶対地区署の警官じゃないですよ」
ここは初めての地、久保に何も心当りはない。
「どんな様子の人でしたか」
「赤い顔した、変な発音する男だったが、あれは多分、進駐軍関係の人間、じゃないですか」
進駐軍?横浜とか横須賀の基地に取材経験はある。だが進駐軍に自分の行き先を調べられるような心当りはまるでない。怪訝に思う。久保は鞄から一枚の黄色地の用紙を取り出し運転手に見せながら尋ねた。
「この地図の福島教育会館はどの辺りにあるんですか」
佐藤の作業着に入っていたと云う教育会館への地図。そこを訪ねれば何か手係りがあるかも知れないと思った。
「教育会館?教育会館なら歩いて、ほらあそこの角、この地図のここ、これを左に曲がって行けばすぐ目の前だ」
「教育会館は何か進駐軍と関係有るんですか」
「あれ?知らないんですか。教育会館は進駐軍に接収されてあそこは今アメリカの軍政部とか、秘密諜報部とかが入ってアメリカの将校さんがごろごろしてるだよ」
駅から出て来た客が運転手を呼ぶ。運転手は頭を下げて会釈し車に戻って行った。久保は暫くそこに立っていたが意を決して運転手が教えた方向に歩き始めた。
(教育会館の地図。佐藤の妻が縁もゆかりもないと云っていた教育会館。そこは進駐軍が接収しアメリカの軍政部や諜報部が入居していると云う。そんな教育会館への地図、しかも米軍が使う黄色の用紙に書いた地図を何んな理由で佐藤は持っていたのか)

 教育会館。出入りする大半が米軍の迷彩服を着た兵士か将校。ひっきりなしに軍用ジープが停まり、また走り去る。建物の窓は全てカーテンで遮蔽されている。ここにアメリカ軍政部と秘密諜報部が在ると云う。久保は意外に思う。東京や、横浜、横須賀など大都会、もしくは重要基地の所在地なら合点も行く。福島は首都から遥か遠く、軍事的、政治的、そして日本を占領統治するには場違いな感じがする。何故こんな地に…
 米軍施設となった教育会館に佐藤はどんな用があったのか。手元の黄色の用紙が久保の発想を転換させた。
 違う。佐藤の側に用があったのではなく、佐藤は地図を書いて渡した誰かにここへ来るよう命じられたのだ…そしてその用件は佐藤が去年八月一七日深夜黒岩からの帰路東北本線金谷川駅と松川駅間のカーブ地点で何を見たのかを問う為に…それしか考えられない。
 佐藤は自身が見たことを何処かに、地区の派出所か管轄の警察署に届け出ていたのかも知れない。その聞き取りの為、進駐軍に呼び出されたのだ。新聞の刊行、出版物への検閲、いや行政、司法あらゆる権限が占領進駐軍の管理下にある。当然、警察、検察の捜査権も進駐軍の指揮下にある。佐藤の目撃談が進駐軍上層部に上奏されたのだ。佐藤は出頭を命じられた。
 果たして佐藤はここを訪ねたのだろうか。訪ねた結果自身の見たことがいかに重大であり、かついかに重大な結果を及ぼすか思い知ったのだ。事の重大さに恐れ慄き、そして怯え、耐え切れなくなって行方をくらまし、遂に失跡…だが、と久保は思った。もし推測する通り佐藤がことの重要性を認識したとして、何故自身が逃げる必要がある、何故行方をくらます必要がある。全て他人の悪事である。他人の悪事の責任を佐藤が背負い込み、苦悩し、その果てに投身自殺する必然性は何処にもない。

 見上げる教育会館の黒ずんだ壁が近寄り難く久保を威圧する。久保は駅に戻る。歩き乍ら久保は考える。
 松川事件公判は、自白供述の通り或る踏切を通過すれば見張り番の者がその姿を見る筈だとか、犯行時間帯には被告は酔って寝ていた筈だとか、そんな証言が弁護側から提示され、検察側はそんな筈はないと反論する。要するに犯行現場を見たと証言する者は誰もいない。
 もし佐藤が宵宮からの帰途その目で見たことを警察に届け出たのであれば、これ以上に検察側にとって有利な目撃証言はない。しかも弁護側から証拠の捏造、拷問、誘導、強制による自白であり、全て無効であると批判され、糾弾されている現状である。
 検察側、即ちそれを指揮する進駐軍はそれでなくとも、いかようにも審理を歪曲出来る絶大な権力を有する。そこへの佐藤の証言はまさに鬼に金棒である。
 だが佐藤は行方をくらました。しかし、法廷で当人による証言を得られなくても検察はこの証言を十分に活用することが出来る筈。現実に公判ではそんな強引なやり方も批判されている。
 久保は再び思考の穴に陥ちた。何故佐藤は逃げた?誰にも何も告げず何故逃げた?
 
 久保は駅の改札横にある待合室に入り、空いた場所に腰を下ろした。待合室の壁に丸い大きな時計。六時前。ふと久保の脳裏に或る「異」が走った。
(佐藤の目撃証言は検察側にとっては非常に有利となる。いや、そんな程度のものではない。即座に結審し、被告らを絞首台にすぐさま引きずって行けるだけの価値がある。逃げた佐藤の行方を追って警察も検察もそして進駐軍も躍起になっていた筈だ。だが横浜の塚本刑事は、水死体の身許が、妻と弟が訪ねて来て、当然手配の掛かっていた佐藤であると判ったにも係わらず、その死に対してさして重要視していない様子だった。どう云うことなんだ…?
 松川事件検察側にとって佐藤の目撃証言は絶対に必要である。その身柄を保護して当然の筈である。だが佐藤の妻、佐藤の弟も、 実家に、また横浜にその関係筋から誰も訪ねてくる者はなかったと云う…)
何を考えても謎であり、その謎は考えれば考える程より複雑な迷路へと誘う。久保は疲労を感じ、待合室を出、駅前の、支局が入居する建物を見た。街は夕暮れている。支局の窓は煌々と灯りが点いている…

 駅の改札口の真上、風に揺れる板貼の時刻表を久保は見上げた。兄の親友山口が乗務する列車の到着時間を確かめる為であった。特急列車には番号も表示されている。上段から下へと教えられた列車番号を捜していた久保の目に、上りの列車案内板の中に「四一二号」の数字が映った。転覆し大惨事となったと同じ列車番号であった。久保は無意識の内に大きな思い違いをしていたことに気付いた。
 脱線転覆した時点で「四一二号」旅客列車はこの世から消滅したように思い込んでいたのである。よくよく考えればそんなことは有り得ないのだ。何やら幽霊列車でも見るような不思議な気持ちになった。
 福島到着、出発時間に目をやった。そしてその前後の上り列車、そして下り用の時刻表も同時に見て「四一二号」とこれらの列車との運行時間間隔が意外に短いことに気付いた。最大で一時間程、短いので約一五分程しかない。ふと久保は疑問に思った。
「四一二号」は暴走の結果脱線転覆したのではない。レールが外されていた為、脱線し鉄輪が枕木の上を走りそして傾き転覆したのである。レールを外す為には幾ら大人数であろうともそこそこに時間を要した筈である。作業工具の運搬や、車で来た場合でもその積み下ろしにも時間を要した筈だ。現場の後片付けもしなければならない。果たして最大一時間の余裕でそんな作業が全て完了出来たのか。
 事故発生地点を久保は東京からくる時、そして佐藤の家を訪ねての帰り、近くの駅から乗車したことも含め何度か列車で往復して通過している。福島駅からさして時間はかからない。だがこの時刻表の「四一二号」、それに前後する上り下りの列車があの脱線地点で実際にどのような時間差で通過するのか判らない。それにしても一時間の差の中であれだけの作業が出来たのだろうか。
 駅構内を真っ黒な、巨きな影が鉄路を重く軌ませながらゆっくりと動き始めた。窓がない。貨物列車のようだ。久保は上り下りの時刻表の丁度真中に設置された丸い時計で現時刻を確認した。そして時刻表にこの時間に通過する列車を捜したが該当する列車はなかった。
 改札の駅員にそのことを尋ねた。
「あれは下りの、貨物専用で、貨物専用列車は、一般客には関係ないので、この時刻表には出てないですよ」
「何処へ行けば全列車の通過時間教教えて貰えますか」
「運行表と云うのが別にあって、車掌区や機関区の運行管理室に貼ってあるよ。何か調べもの?写したもの、あとで持って来といてあげる。あ、そうだ、山口さんに渡しとくよ」

「利夫、利夫、これ、起きねか、利夫」
久保は兄の呼ぶ声に目を覚ました。帰省の度、兄は土地の訛り言葉で話しかけ、久保のきょとんとする幼い顔を見て白い歯をみせた。
「利夫君、待たせたね」
居眠りから完全に目覚めず、まだぼんやりとする久保の前に車掌の制服を着た山口が立っていた。似ていないが、山口の顔に兄の幻影を見る。
「着替えて来るからここで待ってなさい」
待合室の明かりが眩しい。中央のストーブ、石炭が黄金色に燃えている。石炭の匂いで山口の呼びかけを兄の声と錯覚したのか。外は既に暗い。
 暫く待って外套を着込んだ山口が待合室に来た。山口は久保の鞄と自身の荷物を駅務室に預け、久保を近くの料理屋に連れて行った。外はぐっと寒い。
 熱い酒を久保のガラスコップに注いでくれる。山口の銚子を持つ右手小指の異常に久保は気付いた。真っ直ぐ伸びたままなのだ。。
「良く来てくれた。何年振りだ?東京で一晩泊めて貰って、あの時以来になる。段々似て来たよ兄さんに。まさかあの、くりくり頭で頬っぺた真っ赤にした利夫君とこうして酒を飲むなんて…俺も歳取る訳だ」
「山口さん、長い間、本当にありがとうございました」
久保は深々と頭を下げた。出征して間も無く兄は戦死した。それから日を置かず祖父母、両親が相次いで死んだ。久保は前途を失った。悲嘆にくれ途方に暮れていた久保は出征する前の夜、兄が云い遺した言葉を思い出した。
「俺が死んだ後、困ったことがあれば山口を訪ねて相談しろ」
兄は山口と一緒に写した写真と山口の住所を書いて渡した。久保には他に頼るべき何の宛もなかった。兄に教えられた山口の住所に窮状を訴える手紙を書いた。久保はしかしたった一度切り兄の出征する何日か前に一晩泊まった時に会っただけの、いかに兄の親友であろうとも、他人に援助の手を差しのべることの出来るそんな甘い世情ではなかった。久保は期待していなかった。
 だが返信が届いた。当座必要だろうと現金も同封されていた。そして手紙には兄に代わって必ず大学まで卒業させてみせると書いてくれてあった。毎月山口から仕送りが届いた。戦争はいよいよ激しくなり空襲も連日続いた。 
 山口からの仕送りと励ましの手紙は届いた。久保は金を受け取ったその日に必ず礼状を書いた。だが直接会って礼を云う機会が今までなかった。
 新聞社に就職してのち暫く手紙の往復が途絶えていたが、去年九月、山口から手紙が届いた。調べて欲しいことがあるので是非一度福島を訪ねて欲しいと書いてあった。福島駅に到着して乗務員室を訪ねてくれれば誰かが必ず連絡くれるからとも書いてあった。
「新聞記者をやってるってね?あいつ、喜んでるだろうな…いつも利夫君のこと、自慢ばかりしていた。弟は頭がいい、大学迄は何んとかして遣ってやりたいんだといつも云っていた。今日こっちへ来たのは、松川事件、利夫君も取材に?」
「いいえ、記者としてはまだまだ半人前で、まだ見習い程度です」
そう云ったあと、久保は今回の福島訪問を、佐藤と云う渋川村出身の男の、横浜での死に納得の行かない部分があり、それを調べるために来たと簡略に説明した。
「山口さんは今も共産党員ですか」
「いや、俺はもう党員じゃない。若い連中に任せた。本当を云うと何だか信じられなくてね、何もかも。右翼の連中が云うことを鵜呑みにする訳じゃないが、最近、シベリア抑留から復員してきた昔の仲間何人かに会ってね、その話を聞いているうちに、日共の幹部が云っていることがどうしても身体に馴染まなくなってきた。ソヴィエトの秘密警察は戦前の日本の特高や憲兵よりもっとひどいことやってるし、日本兵捕虜の扱いも相当残酷なことをしていると聞いた。日共の幹部は否定するけどね。だがそれが事実だ。スターリンも毛沢東も金日成も、独裁者だ。
 俺が、利夫君の兄さんに代わって云ってあげたいのは、信じるなってこと。人の云うこと、人の書いたもの、人が力説すること、何も信じるな。主義も主張も思想も宗教も、組織も、国家も信用するな、全て信じるな、この一言。だから俺は共産主義的に云うと「転向」した。
  別に今更共産党の肩をもつ気もないけど、今度の松川事件、警察のやり方は本当にひどいね。今は党員ではないが、労組員であることに変わりはない。被告の何人かは顔も知っている。話をしたこともある。被告の実行犯の一人に高橋君が居る。高橋君は警察が云うような時間内にはとても集合地点から線路工作現場迄往復したり、線路を外したり出来る筈がない。高橋君は足に障害がある。自白調書を偽造捏造した刑事はそのことを知らなかったんだ。それでも検察はそのことを追求されると
「不可能とは云えない」
と中途半端な言い逃れをしたり、集合時間の供述を変えさせたりして余計自白の信憑性を疑われている。だけど検察は絶対認めないだろうな。認めれば他の被告全員無罪になる。それがあんな貼り合わせの架空捏造証拠で作り上げた脚本の大きな欠点だ。初めっから共産党潰しが目的なんだ。だから党員なら誰を指名しても良かった…」
山口は感情に起伏なく淡々と云う。
「話変わるが、利夫君に是非頼まれて欲しいことがある」
久保は去年届いた手紙に山口がそう書いてあったことを思い出した。
「俺は機関士になるのが子供の頃からの夢だった。俺の親父も機関士だった。助士としていつか機関士になる日のことばかり考えていた。だが俺はその夢を諦めなければならなくなった。この指が原因だ。もう曲げられない。兄さんの中指も曲がったまま伸ばすことが出来ない。助士の仕事は釜炊きだ。夏も冬も釜の蓋を開けてスコップで掬った石炭を放り込む。きつい仕事だ。だが俺はこの仕事が好きだった。利夫君の兄さんも俺と同じ機関士になるのが夢だった。だが二人とも諦めた。この指ではスコップを握ることが出来なくなった。兄さんは赤紙が来て出征した。俺は車掌に転属になった。兄さんの中指、おれの小指が動かなくなったのは憲兵の拷問のせいだ。あいつらは人間の感情のかけらもない。人が泣き叫び、喚き、血反吐を吐き、のたうち回るのを見るのが好きな狂人だ。ただの狂人ではない。奴等には権力がある。その権力を笠に着て人を傷付け、人を殺す、何をしても罪に問われない。奴等にとってアカは格好の餌食だった。奴等の快感を満足させる為に俺達仲間が次々と牢獄に放り込まれた。妻や子供の前だろうが、公衆の面前だろうが、俺達は顔の形が変わるぐらいに殴られ、気を失ったまま気が付けば牢獄の中に居た。そこでも延々と拷問にさらされる。ま、今は思い出したくもない。
 利夫君に頼みたいのは、俺や兄さんに連日拷問を加え、俺のこの小指を反り曲げ、兄さんの指の間接を折り、夢を潰した憲兵のことだ。俺と兄さんには軍内思想汚染の嫌疑が掛けられていた。誰がそんなことを云ったのか知らない。いや勝手に奴等がそんな罪を被せたのかも知れない。俺と兄さんの、血汗に塗れ、潰れた蛙のようになった半死の体は特高警察から東京憲兵隊に移送された。そこでも一人の憲兵に身に覚えのないことを果てしなく尋問された。業を煮やしたその憲兵は特高警察で受けた以上の拷問を加えた。何日か後俺も兄さんも釈放された。俺達の取り調べを担当した憲兵が外地勤務になったのが理由だった。今でもあの憲兵の顔を夢に見て唸され、目が覚めると体中汗でびっしょり濡れている。
 俺はその男を見つけた。あの憲兵に間違いない。絶対間違いない。忘れるもんか。その憲兵は福島地区署の刑事になっていた。俺は松川事件の実況検分の時この刑事の顔を見るなりすぐにあの憲兵だと判った。しかし名前が違う。俺が覚えているのは「あいだ」と云う名前だ。この刑事は警官から「すごう」と云う名前で呼ばれていた。だが間違いなくあの憲兵だ。
 利夫君に是非会いたかったのはこの「すごう」と云う刑事の過去の経歴を調べて欲しかったからだ。俺達には何も出来ないが新聞社の記者なら可能性があると思ったからだ。この「すごう」が「あいだ」と同じ人物かどうか利夫君の力で調べて欲しい…」
兄が帰省する度恐ろしい顔をした男数人が久保の家を物陰に隠れて見張っていた光景を思い出す。そしていつも久保に笑顔で、土地の訛言葉でふざけて久保の不思議そうな顔を見て喜んでいた兄が、昼も夜もそんな地獄の責め苦に体を痛ぶられていたと知って久保は強い衝撃を受けた。そして今日一日で、三度目に聞く「すごう」という名の刑事。山口はその刑事を元憲兵「あいだ」だと断定する。
「同一人物だと判れば山口さん、どうされるんですか」
「…」
既に冷えてまずくなったコップの酒を山口は一気に飲み干した。そしてその顔に久保は深い悲しみを見た。山口は何も答えなかった。

 二人は福島駅内の乗務員休憩室に泊まった。深夜に幾本もの汽車が到着し、そして発車した。眠れぬまま久保は下のベッドで苦しげな寝息を立てる山口の話を何度も繰り返し思い出す。山口は時に唸された。恐ろしい夢に苦悶しているのか。駅構内に停車した機関車が蒸気を吐き出す音、そして闇の世界へ旅立つ汽車の汽笛が物悲しく聞こえる。それが兄の吐息のように聞こえてならない。久保は決意した。
 久保が目覚めた時、山口の寝ていたベッドは毛布、シーツがきちんと畳まれ、枕が載せてあった。その枕の上に封筒があった。
「利夫君へ」と書いてある。
「遅く迄付き合わせて悪かった。
経歴調査のことよろしく頼む。
改札係員が君に渡してくれと運行表の写しを持ってきた。同封する。
元気で」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?