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「焦煙」27/27

                         二十七、

 事件からほぼ一年後の昭和二五年八月二六日、検察側論告求刑は、一〇名に死刑、三名に無期、その他三名に一五年、三名に一三年、そして一名に一○年の禁固刑を求刑して、公判は結審した。
 そして同二五年一二月六日、福島地裁は次の通りの判決を言い渡した。
五名に死刑、その他は無期もしくは有期禁固刑。不可能を可能にし、都合の良い仮定を事実とし、不利な証言は無視するといった奇妙かつ不可解な理屈に満ちた判決であり、弁護側の主張を一切斥ける判決理由であった。

        
        二十八、
 判決の翌日、相田はタナカの使いの者だと云う男からCIC福島に出頭するよう命じられた。
 扉を開けて入室して来た二世将校は、無表情のまま、手を差し出し握手を求めた。だが相田は応えなかった。
「作戦が成功したと思わないのか」
日本人のものではない日本語に相田はやはり馴染めない。
「私は評価を下す立場にない。それに私はあなたやCICから命令を受けたのでもない。握手を交わす理由はない」
「我々は側面からあなたの作戦を支援し、必要に応じて関係方面に手を打ってきた。我々はあなたの協力者であり、仲間だ。判決の結果を祝して握手を求めたのだが」
「裁判官の後ろに陣取り、アメリカの後ろ盾を誇示するあなたを私は決して協力者とか仲間だとは思っていない」
「…」
「私を出頭させた理由を伺いたい。握手を交わして祝福し合う為ではないと思うが」
「相田さん、我々は結果には大いに満足している。この結果を導いたあなたの努力と作戦を大いに評価している。しかし、あなたも承知の通り、我々は公判審理、その過程に於て幾度となく窮地に立たされた。新刑事訴訟法の制定は我々は時期尚早だったと後悔している。この新訴訟法によりあなたの計画、裁判進行に随分苦労を掛けたと思っている。しかし、何か異常事態、即ちあなたに不利な展開となった場合、またその恐れが予想された場合、事件現場目撃者の一件で示した通り、立ちはだかる敵は必ず我々の手で始末するつもりでいた
 だが、共産党員の逮捕、そして公判開始直前頃から、我々はあなたの表情に、行動に或る種の変化が表れたことに気付いた。我々は不安を抱いていた。数名の幹部はあなたを即刻始末するよう強硬に主張する者もあった。しかし、我々は、これから公判が開始され、当然、弁護側から激しい抵抗が予想されるなか、やはり作戦の立案者であるあなたの存在無しには、我々の予想し得ない事態がいつ勃発し、警察関係者の誰かの予想外の失態に対処することが出来ない。現実に公判廷で、その質疑の最中に、警察官の無能さ、狼狽ぶりが嘲笑失笑されたこともしばしばだった。しかしその時にはあなたの的確な状況判断とその明晰な頭脳によって問題が解決されたし、今後もそうだろうし、あなたにしか出来ないと思っていたので、そんな意見は聞き入れなかった。
 ですが、我々は、まさかあなた自身が非協力的な態度に出るとは予想しなかった。どう云う心の変化があったのか、それは何故なのか、我々には知る由もない。あなたの検察に対する非協力的な態度については逐一報告を受けており、我々はあなたへの監視を続けていた。だが、あなたには不審者との接触も一切なく、誰かに連絡をすることもなく、我々の疑心暗鬼を刺戟するようなことは何もしなかった。
 我々は、今回のこと、一応の目標を達成出来たと評価している。被告弁護人は上訴した。まだまだ公判は続く。我々はまだあなたを必要とする。今後もこれまで同様の協力が得られるかどうかあなたの意志を確認したい」
「協力できないとすれば」
「何故出来ないのか?」
「私は今も軍人である。帝国陸軍憲兵として私は生きている。私の敵は内地に於ては軍人精神を蝕む共産思想であり、戦地に於ては帝国軍人に銃口を向ける赤匪だった。私は巣鴨で或る任務を帯びた。それは祖国日本の転覆を企てるソ連赤兵の主義主張に毒された売国奴を殱滅せよとの命令だった。憲兵として私は共産主義の理念、その思想を研究した。しかしその理想を実現すべき地は、不毛の地・ソ連であり、赤貧の支那であり、我が祖国日本の地ではない。敗戦により、精神空白地帯と化した日本の地に、共産主義は領土分割、権益分割の理想を実現する為、思想侵略を試み、日本国民の赤化を試み、日本転覆を企てている。その手先となり赤い血の滴る餌に涎を垂らす売国奴共を叩き潰せよとの命令は私の精神とも合致し、私はその命令を諾とした。
 だが、私は或る時ふと気付いた。敵はスターリンでも毛沢東でもない。日本の本当の敵は、祖国日本を占領し、意のままに操るアメリカであると思い至った。新聞で多くの事件を知った。その裏にアメリカの意図がはっきり見えた。「民主々義」の看板の裏にアメリカの野心が丸見えする。日本が朝鮮で、満州、支那、南方の地で、果たそうとして為し得なかった理想の全てを今日本の地でアメリカが実現しようとしていることに私は気付いた。そのアメリカの手先となったこの私こそ、私が侮蔑する共産主義者以下の売国奴そのものではないかと気付いた。
 繰り返す。私は今も帝国陸軍憲兵だ。私は祖国防衛の為の軍人である。例え一人であろうとも日本人の命を奪うことは、日本占領統治の為の謀略の片棒を担ぐことは私の軍人としての本分ではない。
 加えて云う。判決を聞く迄が私の任務だと心得ていた。それは充分完う出来たと自負している。裁判は既に私の手を離れている。何も私を必要としない。私が居ようが居まいが全て貴国アメリカ政府の意向を受けた検察、そして裁判官があなたがたの思惑通り公判を誘導し、二審に於てもほぼ同じ判決になる。日本人の誰にもこれを覆すことはできない」
「死を宣告しなければならないが」
「結構だ。わざわざあなたの手を煩わすこともない。懐の拳銃さえ渡して頂ければこの場でこの眉間に銃弾を撃ち込む」
相田は手を差し出した。日系将校は相田の顔を見据えていた。
「協力して頂けないとなると、この後、何うするつもりか」
「拳銃を貸して頂けないのなら、私は勝手にここを出て家族のもとに帰る」
相田とタナカは暫くにらみ合っていた。
「ギャルソン准将から、この件が完了次第、あなたを自由にさせてよいと指示を受けている。彼は今朝鮮に居る。彼はあなたに全幅の信頼を寄せていた。判った。あなたの任務を解く。あなたが希望するのであれば何処の警察でも更に上級の地位と報償を得ることも出来る。もし希望が無ければあなたには更に活躍の場を、台湾に提供することも可能です。我々に協力した日本人の多くが台湾で我々の保護の下、安全に、そして快適に過ごしている」
「東京に戻り、家族と一緒に暮らせればそれで良い」
「判った。だが、あなたは永久に我々の監視下にあることを認識し覚悟して頂かねばならない。そして、敢えて念を押すまでもないと思うが、一切の口外は厳禁だ。ここを一歩出れば全て忘れるように。元憲兵、元戦犯の烙印を押されたあなたが今のこの日本の現状では職の一つも見つけるのは難しい。役所関係の職をあなたに提供する。いずれにしろあなたには我々の諜報員が尾行し監視し続ける。あなたが何処で何をしようと同じことだ。せめて我々の感謝の気持ちを受けて頂きたい。このこともあなたが横浜で会われた方の指示です。これで須郷という名は、警官としての経歴と共に、一切の記録から永久に消滅する。
ただ、これは持ち帰ってあなたの手で処分して下さい」
タナカはポケットから小さな金属片を摘み出し、机の上に置いた。手錠用の鍵であった。事件発生後平石トンネル上の炭焼き小屋を検分した時に発見出来なかった鍵…何故タナカが持っている?奴等が渡したのか?そんな気の利く連中ではない筈だ…
 タナカが体を動かしたその後ろの壁に、相田は赤い花弁のような染みがあることに気付いた。それが何の染みか相田には判った。
「塚本と云う、香港憲兵隊で私の部下だった男について、何か知らないか」
「私の任務に協力する日本人の中にそんな名の男はいない。その男がどうかしたのか」
あの若い新聞記者のあとから地区署を出て行った丸刈りの男、あの後ろ姿は塚本に良く似ていた。見間違いか。だがもし人違いでなければ、塚本が何故あの朝地区署の中に居た?塚本に俺を監視させていたのか。しかし例え塚本を子飼いとして使っていたとしてもそれをタナカが認める筈はなかった。
「新聞記者の中に、一人気になる記者が居た。某新聞社の、久保利夫と云う記者だが、この新聞記者について何か情報を持っていないか」
あの丸刈りの、塚本によく似た男は、あの新聞記者を追うように出て行った…?
「私は知らない。何か気になるのか」
「私の本名を知っていた」
「危険だね。私の方で処理する」

  ジェームス・タナカはサンフランシスコに向かう米軍輸送船に横浜から乗り込んだ。船内は負傷兵で溢れていた。朝鮮半島での、共産軍との激闘を想像させた。
  霞に消え、水平線に沈み行く横浜市街地をタナカはデッキで眺め乍ら一人の女の面影を追っていた。
  アヤコは姿を消した。探さないでくださいと置き手紙をして消えた。わたしはもうすぐ死にます、友がそうだったように、見るも無残にやせ細って死にます。あなたを本当は心の底から愛していました。でもあなたの愛を、この焼け爛れた体が受け入れようとしませんでした…さようなら、私の…
  マッカーサーの野望は朝鮮半島で完全に潰えてしまった。彼に賭けた勢力は消滅した。
 元帥の凱旋に帯同する日を夢見たタナカの希望も、祖父と両親の収容所からの解放、没収された家、農地の返還は実現されることはなかった。
 タナカの近くで水平線に消えた横浜の方角を眺めていた、傷病兵二人が話を始めた。
「結局、この戦争ってさ、日本だけが得したんじゃないの。トンビニアブラアゲ、とかギョフノリとか云うじゃない」
「そうだよ、ヌレテニアワ、だよ全く」
云われればタナカにも全く同感だった。アメリカも、ソ連も、支那も、そして当事国南北朝鮮のいずれもこの戦争の勝利者になれない、タナカもそう予想する。ただ、先の敗戦により失意と、絶望の底にあった日本だけが、朝鮮戦争特需によって息を吹き返し、そして復興へと力強く歩み始めたのである。横浜の街、首都東京、今やあの焦土の跡かたもなく、そこに粗末ながら新しい工場が立ち並び、一日中、機械の回転する音が溢れていた。
  あの、NOも、YESもなかった日本の役人共も、この再びの隆盛は我が忍耐、忍従の政治がようやく効を成したと手柄話にうつつを抜かし、そしてGHQが置き忘れていった権益、権限、そこから滴り落ちる甘い汁に、上も下も蟻のように集っていた。

  相田は妻や両親そして初めて対面する長男の待つ実家へと、晴れて自由の身で終戦の日から六年後にようやく復員した。東京市内某区役所で相田は職を得た。
 平凡な、目立たぬ公務員としての仕事に慣れ、戦後の目まぐるしく変わる生活習慣にも慣れ始めた頃、相田は妻に、この二、三年、戦友の誰か訪ねて来たことがないかと、何気無いふうに尋ねた。
「いえ、どなたも…」

 相田は妻の買物に付き添って銀座に出掛けた。普段殆ど外出することがなかった相田だが、今日はどうしてもと無理やり妻に連れ出されてきていた。妻が百貨店で買物している間、付近を、人目を避けるように俯きながら時間潰しに歩いていた。
  映画館の前。大きな看板が掲げられていた。題名を見るなり相田は心臓に鋭い刃物を突き刺されたような痛みを感じた。
『憲兵』
そして看板には
「日本帝国の旗を拷問の血で汚したケンペイ。 これが軍閥政権の秘密警察、憲兵の素顔だ、 暴虐憲兵を素っ裸にする」
と、大書してある。
 相田はふと、あの大男Mの老愁のにじむ大きな背中が思い出され、遠く西の空を見遣った。
 相田の視界の端に、映画館から出てくる初老の男を見た。その男の容貌が相田の記憶を刺激したのだ。
(小坂中尉…?)
相田は反射的に顔を逸らした。だが、小柄な男の目が一瞬早く相田の顔を捉えた。
「相田、相田じゃないか…?」
そしてあたりを警戒するふうにきょろきょろと視線を走らせ、相田に近付いた。間違いなく小坂中尉、しかし、何故こんなところに…?
「いや、どっちの名前で呼べばいい、相田でいいのか…?」
探るような目つきで相田の顔を覗く。
「ここで、立ち話、いいかい…?」
妻がやがて買物を終えて戻ってくる。ここに相田が居ないと妻は方々を捜しまわる。相田はうなずいた。
「いや、この映画、ひどいもんだ。俺達憲兵を鬼か畜生みたいに扱ってやがる。余り腹がたって来たんで途中で出て来たんだが、出て来たところで貴様に会うとは。全く奇遇としか云いようがない。俺と貴様は何かと縁が有るようだ。お互いこの縁を大事にしたいもんだべ、な、相田…」
喋り方にも、顔の表情にも元特高警察教官であり、元憲兵隊中尉だった威厳も凛々しさも消え失せていた。ただの市井の小役人かお上りさん…
「仕事にありつけなくてね、昔の友達頼ってこうして遠路やって来たんだが、せっかく紹介して貰っても、俺が元憲兵だ、元戦犯だと判ったら誰も雇ってくれねえ。まして、こんな映画、東京のど真ん中で上映されたりしたんじゃこの先何年も雇ってくれるところなんか有る訳ねえべ。
 あ、俺はもう二、三日他の友達訪ねてみるつもりだが、貴様は、どうだ?もし時間都合つくなら、今晩もう一度ここへ来てくれねえべ…?大事な話も有るし…」
妻の、人捜しふうな姿がビルの角に見えた。相田はうなずいた。
「あ、あれ、貴様の奥さんか…?」
大量の人の流れの中で即座に相田の妻を見分けるあたりは流石に元憲兵である。その元憲兵が、大事な話が有る、と云う。それに、どっちの名前で呼べばいい、と云った。小坂は人混みに紛れて消えた。
「今、どなたかとお話されてました…?」
妻は雑踏の中に小坂の姿を目で追いつつそう尋ねた。
「あ、いや…」
「でも、驚きました、あなたがこんな映画の看板の前で立ってるなんて。でも、ひどい言い方するものね。今の、あの松川事件の警察の方が余っ程ひどいことしてたんじゃないのよね」
新聞、言論界に、今度はどんな風が吹き始めたか、この根無し、浮き草連中は事件発生から二年を経て仙台高裁での第二審判決を『真実は壁を透して』と銘打って判決内容批判と被告等の無実、そして警察の強引な取り調べを糾弾する記事を連日掲載している。そして一部言論誌は捜査段階での、当局者による被告等への非人間的な拷問による自白強要、旧態的な誘導尋問、弁護側の反証にころころ変わる供述調書の内容変更、改竄を挙げ、更には現場再検証の際の検察、警察側の狼狽振りを嘲笑う。
 被告等は更に最高裁審理に向け今や二三〇余名の弁護人の支援を受けて闘っている。
 新聞は「松川事件」のみならず、一連した国鉄重大事件のその裏に、アメリカ進駐軍の事件への直接かつ間接的関与、そして事件捜査は進駐軍により或る一定方向に向けて誘導された疑いがあるとまで非難し始めていた。
 吉田茂の云うがままにあの当時労組員の無謀、共産主義思想の危険性を政府の代弁者如きに喧伝した新聞、言論雑誌は、既にその姿も消えたGHQを悪の根源とばかりに罵倒するのだ。

 小坂と相田は、勤め帰りの会社員らで賑わう、隣同士の話さえまともに聞こえない喧騒な飲み屋で、煮魚を箸でつついていた。
「俺は、貴様が保証した通り、一ヵ月も経たぬ内に無罪釈放された。三年ばかり経った頃貴様に会って礼を言いたくて福島まで、と云っても女房の里帰りに便乗しただけだが、福島の警察を訪ねたんだ。だが、誰に、何処で尋ねても相田なんて名前の警官も刑事もいねえ。
 女房の実家で酒を飲んでいた時だった。女房の父親が、三年前の松川町の列車転覆事件の時、警官をてきぱき指揮していた刑事が居て、その刑事を皆な「すごう」とか呼んで、なかなかの遣り手だったとそんな話が出た。どうもその刑事の人相が貴様に似ている。聞いていると、今度はその「すごう」って刑事の悪口を云い始めた。あの刑事が今思えばGHQが送り込んだアカ狩りの狗だったにちがいねえって、それが証拠に国鉄や東芝の共産党員を刑務所に放り込んだ途端何処かへ消えたし、それに地区署の署長があの「すごう」とか云う刑事は英語もぺらぺらだったと…
 俺は、貴様も俺と同じで、戦犯で追われて名前を変えて生きているんだと、ただこんな俺と違って貴様は優秀だ、どんな状況でもGHQだろうが、国家警察だろうが手玉にとる、それぐらいのこと貴様なら出来るんだと逆に憲兵の誇りだと感心しとったんだべ。ま、結局そんなことで貴様に会えず、礼も言えなかった」
相田は小坂の何気無いふうに云う話の内容を一語一語吟味しながら聞いていた。何を云いたいのかその真意を探っていた。昼に別れた時小坂は「大事な話が有る」と云った。そして「すごう」と云う相田の偽名も口にし、どっちの名前で呼べばいいとも云った…
「今思えば俺もあの時あんなに辛い目をして何年も逃げ回ることも無かったんだべ。GHQも、去年だか、一昨年だか、日本から撤退して、その途端、何十年もの懲役食らった戦犯も、奴等が居なくなった途端釈放された。何んの為にあんな苦労して逃げまくっていたのか…いや、そういう意味じゃねえ、あそこで貴様に会えなかったらいずれとっ捕まって翌る日にはこの首吊されてるところだった。ひでえことしたからな、シンガポールでは…」
小坂の云う通り戦犯の罪の軽微な者の大半はクリスマス恩赦等で続々と釈放されている。しかし、あの当時誰にもそんな状況を予想すら出来なかった。
相田は小坂中尉の最後の言葉が気になった。
「ひでえことしたからな、シンガポールでは…」
捕虜虐待容疑は事実だったのか…
「ただね、やっぱり元憲兵には世間の風当りは強い。そこへもってきてあんな映画だろ?なかなか仕事につけなくて、女房にはやいのやいのと云われてこうして追い出されてしまう始末で…あれだけの大金渡してやったのに…」
小坂はつい口を滑らせた、いや故意に話題を転じたか、気まずい作り笑いを浮かべ、
「貴様から預かった金を渡すつもりで、仕事探して上京するたび、貴様の実家を何度も訪ねたがいつも留守でな、ついつい渡しそびれてしまった…それに云い難いんだが、俺の馬鹿息子が仕事失敗しやがってやくざ者に追われて何んとかしてくれとこの俺に泣きついてきた。貴様の実家に渡そうと一銭も手を付けずに置いてあった金、息子が必ず返すからと泣いて頼まれ、とうとう貸してしまった。だが息子の仕事の方は相変わらずのようだ。もう少し待ってやってくれんか」
預けた金の行方をそう説明した。話の中の何処にも小坂自身に落ち度はなく、相田が会ったこともない息子にその責任を転嫁した。その表情だけでも全て嘘であることは歴然としている。
「で、貴様、今何をしている?今もGHQの仕事をしているのか?何か仕事、何んでもいい、何んでもする、何か貴様の顔で仕事回して貰えねえべか。あの時、貴様が助けてくれたお陰で銃殺されずに済んだ。もう一度貴様の力で助けてくれねえべ…?」
隣の席から「松川事件」と云う声が聞こえた。新聞記事を話題にしている様子だった。小坂の酒の酔いに緩んだ頬に微かに笑みが浮かぶ。
「あの黒人の大男らが暗闇の中、目をぎらぎらさせて、MPの軍服であの小屋に飛び込んで来た時には本当に腰が抜ける程魂消たべ。貴様が云っていた通りだと判っちゃいたんだべが、思わず殴り殺されると目を閉じたら、さっさと手錠を外し、鎖を外してくれた。その後この俺を抱え上げてジープの後ろに投げ込んだ。あの時ちらっと見えたんだべが、奴等皆んな、子供が田んぼ遊びでもして帰ったみたいに泥だらけになっていた…それに俺の乗せられた荷台にはハンマーやバール、それにスパナ、どれも泥だらけで幾つも転がっていた…
 それに、こんなこと誰にも云っちゃいねえが、ハンマーやバールと一緒にシートで包んだ長くて、でっけえものが荷台の奥に載せてあった。その時は暗くて良く判らなかったが横浜の拘置所に着いてトラックから降ろされる時、ちらっと見えたんだべ、ありゃ、人間の足だ…」
松川の住民が事故直後から姿を見なくなった、あの事故現場付近に住み着いていた乞食のことを一時期噂し合っていたことが思い出された。
「レール外しているところに行き合わせて、アカの奴らに殺されてしまったか、何処か飛んでもねえところに連れて行かれたに違いねえべ」
あの当時、まさかと、相田は周辺を調べてみたこともある。実際相田の三年を費やした事前踏査でもそんな浮浪者の姿を見ていなかった。住民の、単なる、面白がっての噂話だと結論していた。
「すぐに出発しないので心配してたらよ、すぐ近くでドーンとでっけえ鉄のかたまりがぶっつかるみてえな地響きがした。その音を聞いた途端、奴等はジープに乗り込んで来た…新聞やラジオで云ってたが、弁護士さんらがあの事件直後捜査本部長だった男を捜しているとか聞くが…いや、そう云う意味じゃねえべ。ただ、もう一度この俺を助けてくれねえべか?何度も云うようじゃが、元憲兵のこの俺に仕事をくれる奴なんか誰もいねえ…俺と貴様との切っても切れねえ縁じゃねえか…」
相田は激しく後悔した。小坂を助けたことではなく、この小柄な、見た目にはどこか田舎の学校の教師然とした温和な表情の裏にあったこの男の本性を見抜けなかったことが悔やまれた。憲兵教習所時代、その講義を聞きながら、そして飲みにいった酒場で、ただの酔っ払いのごとく酔い潰れ、しきりと青年将校の話をしては泣いていた小坂中尉の顔に、話振りに相田は小坂の一面しか見ていなかったのだ。
 相田自身良く理解していた筈だった。団体生活、特に軍隊、中でもあの特殊な憲兵生活に於ては、たった一面だけでも十分生きてゆける環境であり、逆に多様な性格を表に出してはとても生きてはゆけないことを相田自身が良く判っていた筈だった。

 数日後。東北本線線路伝いに大勢の人々が、その中には多くの制服警官の姿も混じり、ぞろぞろと処所立ち止まり写真を撮ったり何やら確かめては協議をしつつ歩いている。その一団を取り囲むように、報道関係者や土地の農民達が好奇に満ちた顔でついていく。その農民の一人が平石トンネル上の山の頂きに一筋の黒い煙が立ち昇っているのを見つけて首を傾げた。
「あすこに白井さんとこの炭焼き小屋が有ったが、白井のじいさんが死んでから誰も炭焼いてはおらん筈じゃがの」
「誰か子供が拾った栗を窯で焼いているんじゃろうよ」

    二十九、追記
 昭和二六年一二月二二日、仙台高裁第二審判決
四名に死刑、三名に無罪、その他被告に有期禁固刑
被告全員上訴
昭和三四年八月 最高裁は原判決破棄
九月 仙台高裁へ差し戻し判決を下す。
昭和三八年 仙台高裁は被告全員に無罪判決。

 仙台高裁差し戻し審に於て、金谷川の大槻呉服店の土蔵破りをしようとし未遂に終わった男二人が、多数の警官非常警戒に再度の窃盗を諦めて帰る途中、八月一七日午前二時三十分頃、その三○数分後に列車転覆現場となる付近から足早に立ち去り、付近に駐めてあったトラックに乗り込んだ九名程の大柄な男たち(黒っぽい服装、異様な雰囲気)を目撃したと証言。


       「第四部・秋晴れの日」
東京近郊のニュータウン内小学校グラウンド。よく晴れている。徒競争の出走順番を待って列に座って並ぶ男の子が不安気な眼差しを観客席の白髪の老人に向ける。老人は大丈夫だと云いたげに首を頷き乍ら少年に手を振る。隣に居る老女は二人の視線を交わす様子が微笑ましく
「頑張ってえ」
と少女のような黄色い声援を送った。その若々しさが老人には意外だったのか老女を呆れたように見直す。老女はその視線に照れてはにかむ。
 万国旗が風にはためく。グラウンドにテンポの早い行進曲が鳴り、リレーの実況が耳に響く。
「ただいま青組がリード、追って白組、黄色組と続いています。最後は緑組。緑組、頑張れ、緑組、頑張れ」
孫の洋の鉢巻きは緑色。同じ色の鉢巻きを締めた選手に声援を送る。どうやら不安が消えたのか、後四、五順目になった出走に気が乗ってきたようだ。
 初孫洋の運動会。去年は老人が体調を崩し、その前の年は妻が入院していた。近郊とは云え病弱な老人二人にはその道中はきつい。混雑する電車、階段の上り下り、乗換えの不便さ。送られてくる写真でしか運動会を見ていない。
「もう見てやることも出来なくなるかも知れないし…」
老妻の、覚悟したような、互いを労るような物言いに、老夫婦は電車を乗り継いでやって来た。
 洋は待機する列の一番前に並んだ。その眼に負けん気が溢れていた。息子は、洋は足が速く、それが証拠に一年生の時から連続してリレーの代表選手に選ばれていると自慢していた。
(よし、洋、その心意気だ)
老人は心の中でそう激励した。
「お孫さん、ですか」
不意に隣りの人から声を掛けられた。この地に知人は居る筈もない。いや、長い役所勤めの間も、同僚との交友も出来る限り遠慮し、その他とは全く知己を持たないよう生きてきた。
 声を掛けてきたのは、老人よりは少しばかり若く、穏やかな笑みをたたえ、その視線は何故か、今しもスタート位置に立つ孫の洋の姿に向けられている。息子の知り合いなのかも知れない。老人は多少戸惑いを見せ乍らも笑顔で答えた。
「そうです。張り切っているようですが、転ばなきゃいいが…」
実際、何人かが接触したりつまづいたり、またカーブに差し掛かって足が滑って転倒し、観客席から悲鳴が上がったりしている。
「大丈夫ですよ。なかなか足腰の強そうなお孫さんですよ」
洋は十数メートル程も遅れて最後にバトンを受けた。第一コーナー手前で早くも前の走者の後方に迫り、第二コーナーを抜ける辺りで追い越した。大きな歓声が上がる。
「永い間、捜しましたよ…」
そんなふうに云ったように老人には聞こえた。
「え…?」
だが隣の老いた男はにこやかな笑顔で洋の姿を目で追っている
「私は、妻とも別れましてね、若い時分ですが、我慢している姿が余りに不憫で、ね…。ただ平々凡々と暮らしていつの日かこんなふうに、秋晴れののどかな日に子供や孫の運動会を見る、そんなことを普通に考えていたのですが…」
老人は不審の目を向ける。
 洋の緑の鉢巻きが向こうの直線で、もう一人抜き去り、またもう一人抜いた。更にその前を走るその内側に体を寄せ、競り合っている。
「私のこと、お忘れでしょうか、相田さん、いや、すごう、さんとお呼びした方が分かりやすい、ですかな」
「すごう」と呼ばれる瞬間を恐れて老人は退職後もひっそりと生きてきた。
「この指で思い出して頂けますかな」
老いた男は手のひらを閉じる、そして開く、それを二度繰り返した。小指が真っ直ぐに延びたまま他の指に連動しない。老人の脳裏に遠い昔の記憶がはっきりと蘇った。
「思い出して頂けた、ですか。良かった。もし思い出して頂けなかったら、私の一生はいったい何んだったのかと…心配していたんですよ」
老人は老いた男の顔を見直す。
「いや、私一人の一生だけでなく、親友の、彼も、出征してすぐに香港から戦死報告が届いたんですが、彼の一生も、いやもう一人、この親友の弟も、或る事件を取材に出たまま行方知れずになっていましてね…
 私は一切を否定し、拒否して生きるしかなかった。その生きることさえ拒否しようとも思ったのですが、親友とその弟の無念を思うと、いやそれを恨みに思うことでようやくこの歳迄生き延びてこられたんです…」
消え入るようなか細くしわ枯れた声。グラウンドの沸き上がる歓声に掻き消される。洋は最終コーナーで先頭走者の外側に迫っている。
「私も、いつかこの日が訪れると覚悟しておりました…申し訳ないことをしたと思っております。私はあの時一切を拒否すべきでした。あの時一切の未練を断ち切って絞首台に上がるべきでした」
先頭走者と洋は最後の直線に差し掛かり、激しく競り合っている。老人の妻は興奮し切っていた、が、ふと夫の様子に異変を感じた、誰かと話をしている?いや隣には誰もいない…独り言?
「己れ一人の命惜しさに多くの人の命を犠牲にした、お詫びのしようもない…」
バトンタッチ寸前、洋は足がもつれ前のめりに転倒した。場内がどよめいた。
「お爺ちゃん、洋が…あ、お爺ちゃん、あなた、どうしたの、ねえ、どうしたの…」

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