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「焦煙」26/27

        二十六、

 久保は福島地裁の前に駐めさせたハイヤーの後部座席で身を潜めていた。正面玄関付近に大勢の報道陣、そして国労の旗や東芝労組の旗を振る、頭に赤い鉢巻きをした労組員らがシュプレヒコールで気勢を上げ、警備の警官らと揉み合っていた。遠藤先輩は傍聴席にいるのかその集団の中にいなかったがもう一人の先輩社会部員の姿はその中にあった。
 警官隊と労組員らが激しく押し合い喧騒する中、迷彩模様のジープが先導して米軍軍用トラックが玄関前に乗り付けた。MP兵らが荷台から素早く降り、警官、労組員を問答無用に押し退けて通路をあけ、ジープから降りた小柄な制服将校を通した。日本人?いや二世か、顔は日に焼けたように朱く、日本人の一団を蔑視し、威圧する視線、そのことが男が日本人ではないことを証明する。
ハイヤーの運転手が云った。
「あのアメリカの将校さん、この前お客さんのこと尋いた男ですよ。やっぱり進駐軍の将校さんだったんだな。俺には地区署の者だって云った癖に。ジープが横を通ってちらっとこっちを見た時はどきっとしたね、嘘を付いたのは向こうなのにね」
久保は運転手に佐藤の妻から受け取った木下祐一の住所を見せ、そこに送ってくれと頼んだ。

「この人は佐藤とも仲のえがった和田さんで、営林署に勤めておられる人だなし。おら、久保さんとこの前ぇ話をしたあど、佐藤のあの晩げのこと誰か見ちゃいねえか、知っちゃいねえかと色々知り合いに尋いて回ってたんだ。そしたらこの和田の芳っちゃんが、おかしげなこと云うでねえか。こちらさんは、この前云ってた新聞記者さんで、佐藤のこと、一所懸命調べてくれてなさる久保さんだ。後はお前ぇからじかに話したってけれ」
どこか小役人ふうな顔の、目をしばしばと神経質にまばたきする、しかし筋肉質な男。
「自分は営林署に勤務する和田芳夫であります。この祐ちゃんと佐藤とは子供の頃からの友達であります」
「芳っちゃん、軍隊じゃねえだよ。もちっと気楽に話せ」
和田芳夫は苦笑した。そしてお茶で喉を潤すと次のようなことを久保に伝えた。
…和田芳夫は去年八月一六日の夜、同居する母が急な腹痛に苦しみ、どうやら盲腸炎の症状に似ていると判断し、知り合いにオート三輪トラックを借りて渋川村から、腹痛で苦しむ母親を気遣ってでこぼこの線路沿いの近道を避け、警官が非常警戒する中、事情を云って松川町を抜ける国道を通り、福島市内に在る病院に向かった。その国道を走る途中で後ろから来た進駐軍のジープ一台と幌を張ったトラックに追い越された。福島市内には進駐軍関係の車が多い。演習か何かの帰りだろうと思ってやり過ごしたが、前を走るトラックのナンバーに横浜と書いてあるのが見えた。合同演習の為に福島に向かって走っているのだろうぐらいにその時は思った。
 母親は手術が必要だとのことで母親を入院させ入院用に色々と入り用のものを揃える為和田芳夫は渋川村に引き返した。途中踏切手前で渋川村への近道を走るつもりで国道を左折しようとしたらその線路沿いの農道をジープとトラックが対向してくる。道をあけてジープとトラックを通らせた。トラックのナンバーが、番号は覚えてなかったが横浜の文字が読めた。福島に向かう時追い越したトラック。何でこんなところでと思った。そのジープとトラックは国道を走るのかと思っていたらそのまま国道を横ぎり線路沿いの農道に入って行く。和田芳夫はこの時、松川町周辺一帯の非常警戒の応援に来て土蔵破りの犯人を捜しているのだと思った。
 母親の寝間着や洗面道具など急遽揃えて再び農道を通って福島に向かった。国道に入り福島に向かう時、金谷川駅の北、平石トンネルの頂上辺りで車のライトが明々と空に垂れ下がった雲を照らしている。あんなところで誰が何をしている?この山も営林署が管理するので、不思議に思い、取り合えず病院の母親に小物類を渡し、その夜は家に帰った。
 何日かして、その日は母親のことで休暇を貰い、妻を乗せ福島に向かう途中、寄り道に妻が文句を云う中、平石トンネルの上に上がった。頂上に白井の爺さんとこの、もう死んで大分経つ、炭焼き窯と小屋がある。その窯の前にタイヤの跡や靴の跡が無数にあり、アメリカのたばこの吸い殻、吐き捨てたガム、小屋に誰かが食った残り物やどう云う訳か長い鎖の付いた手錠まである。タイヤや靴跡はどう見ても尋常の物ではなく、軍用ジープやトラック、それに軍靴、それに和田の足跡より二回りも三回りもでかい。あの晩、何度も見た進駐軍のジープ、トラック、アメリカ兵のものだ。こんな山の上から見張りでもしていたのかと思った。確かに良く見渡せる。しかし小屋の中の食い物は缶詰めや飯粒や和菓子の残り、箸と日本酒の残り、どう見てもそこに日本人が居たとしか思えない。何日かして同僚を乗せて見回りに来たら跡形もなかった。タイヤ痕、靴跡、食い残し、飲み残しの茶と酒、柱に巻き付けた鎖も、何もない。鍬か何かで土を均したみたいに、小屋の中は帚で掃いたように、きれいさっぱり痕跡が消えていた。同僚に狸に化かされたんじゃないのかと馬鹿にされた…
「ほだな、トンネルの上で車のライトを見たのは一七日の朝の、もう三時ぐれえだっただよ」
久保はこの目撃談、体験談をどう解釈すれば良いか福島市内に戻るハイヤーの中で熟考した。
 去年八月一六日の深夜、松川町内で遭遇した横浜ナンバーの米軍トラックと先導する進駐軍ジープ。転覆現場方面から現れ、平石トンネル上の山頂に遺された米軍兵士の靴跡や吐き捨てたガム等の痕跡。加えて日本人が居たと思えそうな飯粒、日本酒の残り、缶詰め、箸など。驚くことに長い鎖の付いた手錠迄発見されていた。ところがその一切の痕跡が完全に消されてしまっていたこと。
 和田芳夫は狐や狸に化かされたのではない。和田芳夫の妻も目撃しているのだ。
 しかし何をどう接なげて考えれば良いか思考は混乱する。ただはっきり云えるのは一六日夜から一七日朝に掛けて余りに多くの事象、事件が発生し過ぎている。四一九号上り旅客列車だけが何も知らずそんな闇夜の中、定刻通りあのカーブに差し掛かったのだ。

 夕刻になりぐっと冷えて来た。久保はハイヤー運転手が紹介してくれた宿に泊まることにした。久保は考えに集中し過ぎていた。運転手の好意がいかに危険であるか顧みる余裕がなかった。その危惧を抱かないでもなかった。 
 しかし今日の松川事件公判の取材に駆けつけた記者達など結構泊まり客が多く、賑わっていたことで安心もした。
 久保はそんな記者連中が酒に酔って喧騒する中、早々に布団に潜り考えに耽った。
 八月一六日夜から一七日早朝四一二号旅客列車が脱線した三時九分頃の間、この現場周辺に居た人物、通り掛かった人物、遺された諸事物、痕跡等、とても容易にまとめることなど出来る訳はなかった。久保はしかし何度も何度もこれらの事象を登場人物、時間帯などをノートに書き、その上に別の事柄を乗せて更に考えたこと、思いつきを書き足す、それを繰り返した。
 部屋の障子が朝日に仄かに朱く染まり始めた。もう夜明け。久保の徹夜の思考、疑問解明への推理は一人の人物の当事件への関与に終局的に行き着いた。「すごう」と云う、元憲兵らしき刑事。
一、被告A・K少年の列車転覆「予言」現場、同時間帯に当刑事の姿が目撃されている。
しかし少年は友人二人との直接対質によって予言の事実を供述しているが、当刑事の証言は公判では現時点までなされていない。
二、当刑事は事故発生前、逃亡戦犯の逮捕と身柄引き渡しを単独で実行している。これは当刑事が進駐軍と直接の関係を有していることを示唆していないか。
三、戦犯身柄引き渡しが事故発生のまさしく直前平石トンネル上山頂で行われた可能性が高い。引き渡しの相手は横浜の進駐軍。福島市内には進駐軍主要事務所が数多く存在し、兵士の数も多いにも係わらず、何故横浜駐留の進駐軍が派遣されたのか?
四、これら横浜の進駐軍兵士は単に戦犯の受け取りだけが目的だっったのか。当夜の、事故発生直前に周辺を徘徊する彼等の奇怪な行動はいったい何を意味するのか?
以上の内、二から四で推測出来ること、それはこれら全てが「すごう」の手配によるものと考えられないか。
 加えて、
一六日夜から一七日早朝迄の、前夜の呉服店土蔵破り未遂事件発生を口実にした、事故発生現場周辺に集中的に敷かれた警察の非常警戒網の手配と、下り一五九号貨物列車の一ケ月前からの運休繰り返しと当夜の運休、これは偶然か。

  こうして諸事象を列挙してみると八月一六日を期してこれらのことが一気に集中して発生し、まるで偶然が偶然を呼ぶ、そんな現象を見せている。山口は云った、好都合な偶然も重なれば必然であり、意志であると。
 これら偶然を誰が演出し得るか?そして何の為に?事故発生後捜査陣を指揮する「すごう」がGHQから密命を帯びていたと考えるのは思考の飛躍か…その密命とは、朝鮮戦争に備え、鉄道運行妨害の惧れある共産党員、労組員の国鉄からの駆逐の為の謀略。
 そして司法、警察一切を牛耳るGHQの、新刑事訴訟法の精神を踏みにじってまでの無謀な公判審理誘導…事実の捏造、真実の歪曲…
 更に、唯一の実行現場目撃者佐藤 某の不審死とその死体処置に対する当局の不自然な発表。佐藤 某の不審な死の解明を調査する久保自身への当局の尾行と監視…しかし…全ては未だ憶測でしかない。
 久保は平石トンネル上の山頂に登ってみることにした。和田芳夫と彼の妻が目撃し、その数日後跡形も無く消えてしまった炭焼き小屋周辺の痕跡。そこに未だ何か遺されていそうな予感がするのである。だが、その前に、是非…
 
 通りに面した二階の部屋、いつまでも灯る電灯の光を、その真下で一人の男が忌々しげに睨み上げていた。塚本だった。女中に久保の部屋を確かめておいた。あちこちの部屋で酔って無邪気に馬鹿騒ぎするのは東京の新聞記者連中だったが、騒ぎがおさまっても久保の部屋はいつ迄も明々と電灯がついている。
 塚本は朝早くから駅前に居た。駅改札を出て来た久保を見つけた。久保は周囲を用心するふうに見渡して、ハイヤーに乗り込んだ。まさか東京に戻っていたとは思わなかった。何か手掛かりを得たのか。しかしそんなことはどうでも良い。何を知ろうと構わない。将来は見えている。
 夕刻になってハイヤーは帰って来た。久保の姿はない。塚本は停止したハイヤーの後部座席に無言で乗り込んだ。驚いて振り向く運転手の首を後ろから羽交い絞めた。今日一日久保の巡回先を正直に云え、さもないとこのままあの世に送ってやると脅迫した。運転手は塚本の異様な形相、そして蛇のような生臭い体臭に恐れをなし、全てを話した。
 久保の宿泊する旅館の名を聞いた後、このこと一切口外するなと口止めした。運転手は喘ぎ乍ら何度もうなずいた。
 久保が立ち回り先でどんな情報を得たのか分からなかった。久保は運転手に何も話していなかったのだ。だがそれもどうでも良い。命令は下りている。

 結局久保の部屋の電灯は消されることはなかった。思いがけず久保の姿がまだ朝靄の漂う旅館玄関前に現れた。久保は周囲を見回している。塚本は陰に隠れた。久保は安心したふうに、歩き始めた。塚本は気付かれぬよう細心の注意をしながらあとを尾行る。
 久保は駅前を素通りし、福島地区警察署の玄関前で足を止め、何やら躇うかのようにそこに立っている。やがて意を決したか、署の玄関へと入った。 
 塚本は玄関前の物陰に姿を隠し、出入りする警官、職員に奇異に思われぬようたばこをくわえ、人待ち顔を繕い、中を覗いた。
 久保は受付の警官に何やら尋ねている。警官の当惑する顔が見える。佐藤 某のことで何か聞いているのか、それとも調査中に佐藤某の失踪、変死について何か手掛かりを入手し、それを警察に訴えて出たのか、何も判らないことが塚本を苛立たせた。
 奥の方から年配の制服警官が出て来て、警官に代わって応対した。署長のようだ。署長は何度も首を横に振っている。久保は鞄から名刺を取り出し、署長に手渡した。署長はその名刺を受け取らない。久保は名刺を置いたまま署長に背を向け、玄関の戸を押して出て来た。塚本は慌てて背を向けた。久保をやり過ごして暫く間を置き塚本は久保のあとを追った。

 地区署の二階、相田の部屋を誰かがノックした。遠慮気味なノックは署長の橋本か。
「はいれ」
橋本が入って来た。相田は橋本の用件を訝しんだ。列車転覆事件発生、そして事件公判開始の頃から大勢の報道記者、カメラマンが連日地区署に押しかけ、捜査責任者である相田への面会を求めて玄関前で騒動する。
 相田は署長、その他警官職員に、捜査中、公判中であることを理由に一切の面会を拒絶するよう厳命してあり、それが功奏して記者連中との接触は遮断されている。勿論署長でさえも、事件について触れることはなかった。その署長が相田の部屋に入って来た。
「須郷さん。悪いな。今ね、若い新聞記者が訪ねて来て…」
相田は不機嫌を露わにした。侮蔑の色さえ剥き出しにしている。その表情に恐怖して橋本は相田にそれ以上近付かないでいる。
「いや、公判中の事件のことじゃなくて、「あいだ」って人に面会したいと」
相田の顔が怒色に変わった。
「そんな名前の者はうちに居ないって受付の者が幾ら云っても諦めないんで、仕方ないんでこのわしが代わって応対したんだがね、わしに代わるなり、その新聞記者、今は名前を「すごう」って変えているかも知れないと…」
相田は署長の顔を睨んでいる。
「「すごう」なら居るが事件捜査や公判で忙しく、とても記者さん達に面会する時間はないと云うと、名刺を出して、これを渡してくれと頼んで、突っ返したんだけど、記者はそのまま置いて出て行ってしまったもんで…これを…」
署長は恐る々る一枚の名刺を相田の机の上に置いて部屋を出て行った。相田は窓際に立ち署の敷地を出たばかりの、外套を着こんだ若い男の後ろ姿を目で追った。男は振り返らず大通りを駅に向かって歩いて行く。ふと、眼下の警察署内敷地から、丸刈り頭の男が出て行く姿が目に留まった。相田の遠い記憶を刺激する丸刈り男の、背を丸めて歩く後ろ姿。
 相田は椅子に座り、机の上の名刺を手に取った。某新聞社名入りで、記者の名前が真中に、その名前の下に手書きで、
「久保利明」
「山口 浩」
と書き添えてある。瞬時に一切の記憶が蘇った。相田は動揺した。

 久保は駅に向かう。駅前でいつものハイヤーを捜す。しかしそのハイヤー運転手が二度とここで客待ちしないことを久保が知るはずもない。諦めて駅構内に入り小銭を出して切符を買い求めた。塚本も切符を買って改札を通る。
 久保は金谷川駅で降りた。線路に沿って歩き、トンネル上の山道に入る。塚本にはこれ以上の好都合はない。獲物が死に場所を選んでくれている。塚本の左頬の傷が醜く歪む。
 頂上。炭焼き窯があり小屋がある。久保は窯の前の平地に屈み込み草を分けて何かを捜す。やがて小屋の中に入った。開いたままの入口戸から中を窺えばそこでも床板の上、土間にしゃがんでは何かを拾ったり摘んだりを繰り返す。何か小さな物を見つけ指先に挟んで外に出、陽光に照らして確かめる。ポケットから布を取り出しそれを包む。そして小屋の周囲を歩く。時折周囲を見渡す。頂上からやや下った辺りに薮がこんもりと繁っている。何かに気付いたふうに久保はそっちに向かった。腰を屈めて竹の根元、雑草を掻き分ける。指先に光る物を摘んで立ち上がった。何かの金属片らしい。それも布に包む。
「何か見つけたかね」
背後から不意に声を掛けられ久保は居竦んだ。薄い黒レンズの奥で片目が異様に大きく見開き久保を見据える。左頬の醜くむくれあがった傷跡が歪む。 
 久保は身を翻し山を駆け降りる。だが一瞬遅くその襟首を掴まれ、倒され、そして首に塚本の腕が蛇のように巻き付き、そして締まる。久保の意識が薄れる。
「あの世への土産に聞くかね。昔、もう十年も前になるかね、中指が曲がって動かない兵隊が連れて来られたことがあった。アカだ。アカは屠殺すると決まっていたからね。散々痛め尽くして俺が息の根を止めてやったよ。最後に(としお)とか云ったがね…」
塚本はぐったりした久保の衣服をまさぐり、布切れや財布、社員証等を抜き取り、死体を引きずり斜面に陥没して出来た穴に落とし込み、枯れ草、土を上から被せた。
 財布には多額の現金が残っていた。金を抜き取り懐に入れる。布切れには、飯粒や噛み捨てられ固くなったガム、アメリカ煙草の吸い殻等が包まれていた。そして驚いたのは鍵。手錠用の鍵であった。久保が何んな情報を得てこの炭焼き小屋に来たのか、そしてこの小屋で誰が、どうやら警察関係の人間らしいが、こんな山の上で何をしていたのか、塚本は訝しむ。この山に登る途中の道、久保が時折立ち止まり、しゃがんでは土に形の付いたタイヤ痕を念入りに調べていたことが思い出される。塚本も気付いていた。それは米軍用トラックのタイヤ痕。
 塚本は小屋に戻った。久保の鞄が残っていた。鍵が掛かっている。塚本は鞄をナイフで切り裂いた。下着等の着替え、洗面用具の他に、取材記録らしい大学ノート1冊。手垢で汚れた、佐藤 某の名前入りの日誌帳。この日誌帳に挟んだ、教育会館の位置を記した黄色地の紙片。
 塚本は鞄をCIC福島事務所に持ち帰った。結果を報告すべきタナカは不在だった。塚本はタナカの部屋で鞄から大学ノートを取り出した。日々の取材記録がびっしり書き込まれている。頁をめくる。
 佐藤 某の水死体が発見されたことで横浜に塚本を訪ねたこと、警察発表への疑問、佐藤の弟や妻との面会、福島へ出張し再び佐藤の妻、佐藤の友人との面会等その時刻、得た情報の内容等を記録し感想、疑問、推測等を書き入れてある。読み進む内、久保の調査により、佐藤 某の去年八月一六日夜から一七日朝に掛けての行動が明らかにされ、そこから佐藤が生前怯えていた様子、果てに死に至った原因を松川事件との絡みにあるとその推理、推考が展開されていることに塚本は驚く。
 そしてノートの最終項には、「すごう」と云う名の刑事の、進駐軍との関係、「松川事件」への首謀者としての絡み、疑惑の数々が列挙され、更に佐藤 某の不審死への当局の関与を結論付けている。
 塚本は「松川事件」については全く関知しない。だが佐藤 某の死についてはその一切が塚本自身の手で実行された。その関与を久保は様々な疑問符を列挙して当局即ち塚本の犯行を追求している。名前は書いていないが、進駐軍日系将校への疑惑も記録されている。日系将校がタナカを指していることに間違いはない。
 久保は佐藤 某の死への疑問を始点に「松川事件」の陰謀を、その実態を、その絡繰りを遂に結論付けしていたのである。これが正論かどうか塚本に判断出来る筈もない。だがいずれにしろ、塚本は、相手が新聞記者であることから慎重な態度を見せるCICのタナカを説得し、久保の口を封じたことが大正解であったと思わざるを得なかった。
「松川事件」への進駐軍の陰謀、警察の関与、これら一切が、例え証拠不十分であろうとも、その疑惑が表沙汰にされることは決して米軍の、日本政府の利益にはならないことぐらいは塚本にも理解出来る。
 久保のノートの最後の一行、「すごう/あいだの関係」に塚本は首を傾げた。「すごう」と云うのは、誰かにそんな名前の刑事が福島地区署にいると聞いたが、その男のことを指すのか。この「すごう/あいだの関係」とは何を意味するのか。これを最後にたった一行で結んでいるところからみて余程の重大事項に違いない。
「あいだ」と聞けば塚本には忘れられない名前である。「狗殺し」と香港憲兵隊で仇名された相田軍層。以来その背中を憎悪に満ちた片目で睨み据え、隙を狙って軍刀の柄に手を掛けた当の相手相田軍層。だが相田軍層は塚本より先に内地に送還され、既に絞首刑にされたか、例え生き延びても長期の懲役刑を食らって横浜か東京の戦犯収容所に居る筈である。塚本のように命惜しさに敵に魂を売り、進駐軍の狗と成り下がるような男ではない。
 塚本はふと思考を停めた。塚本に与えられた任務は完うしたのである。後はタナカの帰りを待ち、これら遺品を渡し結果を報告すればそれで全て終了し、残すはどれだけの褒美を貰えるかそれを楽しみに待つだけである。難しい詮索はタナカに委せておけばよい。

 …その残忍性を剥き出した塚本の憲兵生活、敗戦で誰よりも多くの罪を告発され、支那兵に香港市内に引きずり出され、軍人、民間人に寄ってたかって私刑に晒されることに怯えて過ごし、その罪の重大さによって身柄を米軍に引き渡され、絞首台の待つ内地収容所へ送還されてのちは朝を迎える度、死刑執行を宣告する刑務官の靴音に体が震え、夜は縄を首に巻かれ不意に足元の板が外れて宙にぶら下がる恐ろしい夢に悩まされ続けた塚本。
 或る朝、塚本の房の前に刑務官一人、大男の黒人MP兵二人が立った。刑務官は塚本の名前を呼んだ。塚本は檻房の隅に体を貼りつけた。檻房の扉が開けられた。塚本は二人の黒人兵に引きずり出された。塚本は泣き叫んで許しを乞うた。MP兵は塚本の両手に後ろ手に手錠を掛けた。MP兵は無表情だった。塚本はいつもとは違う取調べ室に連れて行かれ、椅子に座らされた。体がマラリア熱に犯されたようにがたがたと震える。初めて見る赤ら顔の二世将校。将校は塚本の顔を見据えていた。そして蔑むように云った。
「お前のような非道の限りを尽くした極悪憲兵でも命が惜しいか…死ぬのが恐いか…」
塚本は何度も何度も憐れみを乞うように首を頷いた。
「何でもする。どんなことでもする。殺さないでくれ」
「おまえの前で何人もの人が今お前がしていると同じように命乞いをした筈だ。だがお前は、罪の無い一般市民、農民まで、命乞いする人々の体を鞭で打ち、棒で頭を殴り、血みどろになった体を足で蹴り、息も絶え絶えの人々の首を無残に絞めて殺した…お前の罪は二度、三度の絞首刑でもまだ不足だ」
将校は塚本の後ろに控えたMP兵に顎を振って合図した。塚本は暴れた。だがまるで赤子の手をひねるようにMP兵二人にがんじがらめにされ、部屋から引きずり出された。塚本の体から全身の力が脱けた。
 死刑執行室に入った。そこは糞尿と死の匂いが満ちていた。この匂いこそ美食を味わう前の、塚本の本能を呼び覚ますにはこの上ない香りであった。
 背後で執行室の鉄扉がきしみ、閉まった。塚本の両足は脱力し床板を擦っていく。一段高い床板に立たされる。首に縄が掛けられた。体がよろめく。首が縄に宙吊りとなる。
 だが、塚本は死刑執行室から生還した。将校の前に再び座らされた時、塚本の意識は朦朧としていた。
「もし命令実行に違反、失敗した時はお前にはもう一度同じ恐怖を味わってもらうことになる。但しこの次はお前の両足は宙に浮く…」

 横浜での刑事稼業も悪くなかった。
刑事の仕事は塚本の残虐嗜好を十分満足させてくれた。捜査、取り調べの名目で容疑者を痛ぶり血反吐を吐かせ、女なら血に塗れたその裸体に己の欲情を吐き出すことも出来た。自白さえ得られれば何をしても構わない。その上定まった金は得られる。先の佐藤 某の命、今回の久保の命など、命令を確実に実行しなければ己の命が危ない。しかも今回の始末は大手柄であり、大層な報奨が与えられて当然である。塚本はもう一度横浜に復職を願い出ることを決め、にんまりと頬を歪めた。その時永く忘れていた頬の傷が真新しい傷のように痛みが走った。
「軍層さんよ、今も地獄の底で命乞いして泣き喚いているのかね」

  CIC福島事務所。タナカは久保の取材記録帳に目を通し乍ら塚本が一部始終を報告し終えるのを待ち、最後に塚本が片頬の傷跡を卑屈に歪め、それが極く当然の如く、横浜神奈川県警への復職を願い出るのを聞いていた。
 タナカは、いつになく、即答を避けた。いつものように即断即決を期待した塚本だったが、とりあえずは待つことにした。タナカの近くに身を置いていては寿命を縮めるようなものである。早く横浜に戻りたい。だが少し待てば希望が叶いそうだと安堵に気が緩み、塚本は思ってもみなかったことがふと口をついて出た。
「この「すごう」とか云う福島地区署の刑事、まさか香港憲兵隊に居た相田軍層のことじゃないのかね」
塚本はタナカの表情が途端に豹変したのを見た。まさか、と塚本は思考が停止した。しかもタナカの赤い顔が一瞬にして蒼白と化したことが何を意味するか咄嗟に判断出来た。
 タナカにとって相田はこの謀略実行、事件公判の維持と指導には絶対欠かせない存在であり、その成功はこの占領地に於ける米軍の政策全ての成否が掛かる程に非常に重要な要素であった。その相田の正体をアメリカ軍政部内、CIC部内に於ても秘してきたのである。
 タナカは、本能的に身の危険を悟ったか取調べ室の壁に背中をつけ、恐怖に頬の傷を引き釣らせる塚本の額に銃を向けた。
  ま、まさか、あの軍曹が生きていた?あの軍曹が、あの大事件の仕掛け人?俺はとんでもないことを口走ってしまったんだ。あ、そうだ、こんなことなんかあり得ねえ。俺はたった今大手柄を褒められたばかりじゃねえか。あのままあの新聞記者を生かしておけば、この将校さんだけじゃなく、アメリカ軍、日本のお偉方の首がすっ飛んじまうぐらいの大事になるところだったんだ。それをこの俺が、この俺の手で。
  また、今までのように、この将校さんにさんざ虐められてきたように、寸でのところで、またまたご生還、さ。ひとが悪いよ、将校さんよ。考えてみりゃ、いつだって、俺の人生、災い転じて福となって来たじゃねえか。
  塚本の額に激しい衝撃。
撃ったよ、撃ちやがったよ、撃たれちまったじゃねえか。なんてこった…
  塚本の体は壁を擦って床に崩れ落ちた。丁度塚本の頭のあった位置の壁に真っ赤な血と肉片が何かの花びら模様を作って飛び散っていた。
 …サヨが、俺の顔みて笑ってやがる、サヨのあんな嬉しそうな顔、見たことねえ。サヨの後ろに誰かいる?誰だ?あ、おっかあ、でねえべ?

 タナカは相田に動揺を与えたくなかった。塚本が香港憲兵隊で相田の部下であったこと以外にどんな因縁、確執があったのか知る由もなかったが、良悪いずれにしろ相田には何も伝えるつもりはなかった。

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