京都ですらなってしまう。悪貨を当たり前のものにする「着地型観光」のコワさと「伝統」の無策。

京都の錦小路を久々に歩いてびっくりしたのは、多くの鮮魚店が買い食いスタイルに変わっていることだ。
それを東アジアからの旅行者がどんどん買って食べる。そして、地方(東京とか)の行楽観光客も買って食べる。
これがすぐ売れるから、どんどん進める。
観光による活性化とはこういうことなのだ。

着物もそうだ。
東アジアからの旅行者のためのレンタル着物が大いに流行り、京の街に溢れると、今や若い本邦の行楽観光客も着て歩くようにサービスが広がった。
これは本当の着物ではないと眉を顰めたいところだが、もはや商売として流行って新たな着地型観光の具なのだ。
これもまた観光による活性化だ。

しかし、このことが、和装そのものの活性化につながるかといったらそうでも無いことが心苦しい。

遡って、洋装の歴史はいかに簡単に自由に装うことができるか。

そのことが、民主化を促進させ、かつ商品化を促進させることができました。日本にしろ中国にしろ、洋装化によって、合理的な現代文明の受容と促進が実現できたのも事実です。

一方、和装をするにあたり、今なお装うためのリテラシーが必要となります。そのリテラシーを欠いた、ぺらぺらな服を着物として、観光客に供する着地型観光が美味しくなってしまった。

そりゃ、一見すると、リテラシーの極みで盛った和装は素適に見えるし、自分も身につけたいと、初見思う人は多いでしょう。

それが、本邦の若い世代までとなると、伝統の流れそのものに危惧が生まれるのです。

そうはいっても、既にそういうことはあるのですが。

「よさこい」や「阿波踊り」での光る法被(@10,000円程度)、「成人式」でのスペシャル衣装などは、和装にみえる、このテカテカ着物と同じ、リテラシーレスな衣装。すなわち、ジーンズやシャツと同じもの。

これだけ各地の服飾店で特注でTシャツや作業着つくる感覚で成り立ちうる規模ではあります(千万円規模ですが)。

ですが、ハレの服ということで、洋装のカウンター的な革命と異なります。

さらに、リテラシーのない作画が、漫画アニメ世界の中で、和装をよりデフォルメさせていきます。

このような状況を許してしまう背景には、わが国の伝統を、高価に保ち、営みを形成させるレガシーの存在があります。

和装は、このリテラシー、着付けというものを身につける、対価と時間をかけなければ、「ちゃんと」着ることができない仕組みになっています。

着ることが既に習い事ビジネスとなり、その習い手から斡旋され、高価な着物が価値があると学習し、着物沼にはまるという構造が今なおあるのです。

そんなこと、現代人は忙しいし、お金と教養をさく暇は大多数にはありません。

となると、必要なときだけレンタルして、着付けのプロにお金を払って着させてもらうという、形骸化によって商品流通も出ないビジネスへと、どんどん縮小しているのです。

そのうち、和装をすることそのものが煩わしくなって、それすらなくなっていくでしょう。
それに、そもそも和装にルーツを求めない、多様な背景の人々が住む国に今やなっています。もはや「万世一系に連なる日本人」ではないのです。

米国の「プロム」に、コルセット締め上げたりして、装うような人などいないのと同じように。

しかし、和装というアイコンが、日本人だけでなく外国の人々にまで着たいと思わせる力を持っている事実に対し、このペラペラ着物以外アンサーが無いことが問題なのです。

なぜ、和装をより着やすいものにする方向に向け、そのための商品をつくり、ジャガードによる製造を活かして、大衆高級ブランドなみに降りて行くことがちゃんとできないのでしょうか?

例えば、経産省と百貨店が「クールジャパン」で組むなら、「ジャパンショップ」を展開することすらギャンブルなのですから、一気に新しい和装を市場化する取り組みに投じてもいいのです。

実際、 芝崎るみさんのように、着物を着たいという気持ちを持った人々に、そのような着物をつくる、担い手も生まれています。

わかる人だけ来ればいい、わからないとわが国では一流ではないと、家元ビジネスに陥って、それが煩わしい世界の人々に悪貨が受けて都に溢れる様、をどうゲームチェンジできるか。

もう、世界が憧れる美しい日本とか、誇れる伝統とか、自惚れている間に、その口を発する己のリテラシーのなさ、もしくは客観性の無さにより、その可憐な花を摘まれようとしているのは、嘆かわしいかぎりであるのです。


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