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知的な会話がしたい

「宇宙の摂理」という大きな概念を体系化しセミナーを構築した。
そこでは、「科学的」なことの対となるような概念をお話するのだが、
私自身は偏らないためにも、「科学的な」ことにも触れるようにあえてしている。
ただし、何に触れるかは選ぶ。というより、どの科学者が言っていることか?を選ぶ。
科学者であっても、超一流になってくると「科学だけが絶対だ」という視点ではなく、「科学をこえた何かわからないものが働いている」という観点ももっている。
そういう先生方々の発言からは、「宇宙の摂理」を感じる。
そんなお一人として、生物学者の池田清彦先生の著作やお話には触れるようにしている。

その池田先生がご自身のYoutubeでこんなような話しをしていた
「これから2-30年もすれば、AIとBI(Basic Income)の時代がやってくる。BIとなったら、何に人は時間を費やすのか?何をするのか?が大事だ。むなしくならないため、知性や教養を見につけておいてください」といったような話をしていた。
もうこれには、大賛成だ!

学校の勉強では、知性や教養は身につかない。
これは自身で興味をもって見につけていくしかない。
しかし、これがあるとないとでは、人生の充実感が違うのだ。
例えば、芸術鑑賞をしてみたい!と思った時に、知性や教養がないと、その背景がわからず、「見方がわからない」といったことが起きる。
芸術は、ある時代背景の下に生まれているので、その時代のことがわかると、どうしてそういった芸術スタイルが生まれたのか?がわかるのだ。
それは、知性での芸術鑑賞だが、感性の芸術鑑賞だけでなく、知性の部分も満たされないと人は満足したい。
それに感性にも、知性や教養は必要だ。
それらがベースにあって感性が磨かれるのだ。また、芸術鑑賞以外の例えば、自分が知らない分野についてであっても、教養があれば、ある程度応用でその分野について興味をもって話題についていかれたりする。

このように、知性と教養は自分自身がどこに興味をもっても、後押ししてくれるものなのだが・・・
そもそも、この話しが「???」となると、すでに、手遅れかも。

私論だが、知性や教養は付け焼刃の1,2年でつくものではない。
何十年と積み上げるものだと思う。
私の知的好奇心の始まりは中学生位だったと思う。
学校の図書館はよみあさり、区立図書館に足しげく通って、あらゆる分野の書棚を読みつくした。
まだ「この分野が好き」という好みが発生しない前に、オールジャンルの古今東西の知に触れたことは私のその後の知性の元、教養を作ってくれたと思う。
その後は、読書だけでなく、体験をしていくことも行っていった。
数多くの美術館、美術展、博物館、劇場、、、、、に触れてきた

その積み上げたものが、私を助けてくれている!と気づきだしてくれたのは、20年以上経過したあたりかもしれない。
人間としてのあらゆる経験が血肉となっているが、それを支えていたのはそれらの知と教養だと思うのだ。

そんな私が、最近、めっぽう餓えているのが「知的な会話」だ。
知的なインプットは一人でも出来るが、知的な会話は一人ではできない。
ディスカッションではなく、あくまでも会話をしたいのだ。
知や教養がベースにないとできないような会話のキャッチボール。
それが足りていない!!!
このような会話は、誰とでも出来るわけではない。
しかし、これが成立したときの、くすぐるような感覚はなんともいえない心地よさがあるものだ。
知の泉で泳ぎたい!!
あ~、知的な会話相手希望~!