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鬱病患者の北陸旅行 Chapt.1 北陸へ

鬱病になってしまった。

7月に入る前から、なんとなく会社に行きたくなくて朝が起きれず、毎日行きたくないなぁなんて考えながら仕事をしていたら、とうとう仕事中に強い吐き気と全身の脱力感で仕事がままならなくなってしまい、それが1週間も続いたため心療内科に受診した。
心療内科の医師は、私の話を聞くが早く即座に双極性の鬱病と診断し、彼の書いた診断書でもって、都合1ヶ月の休職と相成ってしまった。

休職期間の中での旅行先に北陸を選んだのは、単に日本海で獲れる鮮魚が食べたいからという、極めて下世話な理由によるところが大きい。しかしながら、家での療養に疲れ切ってしまったというのもまた、遠出を決心した理由の一つであった。
鬱病の診断を下した医師は、私に1〜2週間はほぼ寝たきりで何もしないように言って聞かせた。だが、何もしないと言っても本当に何もしない訳にもいかず、片手に握りしめたスマホでもって、毎日SNSとYouTubeに明け暮れる毎日だった。とても情けないことに、病床に臥しているとはいえ三大欲求だけは一向尽きずにいたので、タイムラインを眺めるのに飽きれば徐に誰も居ないアパートの虚室でマラをしごき、腹が鳴ればウーバーイーツではしたなくファストフードを貪る日々が続いた。
しばらくするうち、私は一層虚無感と絶望感が強まっているのを感じた。
SNSやYouTubeというのは情報の宝庫である。必要な情報はもちろん、自分が必要のない情報すらも自然目に入ってくるものである。
そして、自己の肯定感がマリアナ海溝よりも低くなっている今、情報過多のそれらメディアを見ることによって逆に鬱は悪化の一方を辿った。Twitterで流れてくる鬱病患者の凄惨な末期を自分の状況と比べ、YouTubeに流れてくるADHDを自称するYouTuberの惨めな醜態画に自身と重ね合わせ、結句は自分の仄暗い袋小路な未来を見出すことでより一層惨めになっていったのである。
何故もってスマホの画面を眺めるだけでこんなにも嫌な気持ちにならなければならないのだろう。何故私は、医師の言いつけ通りの生活をしているのに気に病んでしまうのだろう。どこにもぶつけようのない怒りと、そこはかとない厭世感が湧いてきた。
いっそのことスマホからSNSとYouTubeを削除してしまおう。そして、この扉を固く閉ざした虚室から出て、遠くへ行こう。この思いを重きにした私は北陸へのチケットを購入するに至った。

7月某日月曜日。
朝ラッシュの波に押されて初っ端から疲れを感じながら、会社へ向かう通勤客に押し流されるようにして名古屋駅を降りた私は、降りたその足で特急に乗り換えた。ポケットに忍ばせたスマホは、TwitterやYouTubeなどを削除しLINEすらも通知が来ないように設定している。
今回乗車する特急ひだ号は、北陸は富山へと向かう特急列車である。この特急ひだ号は、名古屋から岐阜、美濃太田、下呂、高山を経由し、本州を縦断する形で日本海側の富山へ約4時間かけて走破する特急である。

特急ひだ号
JR東海ホームページより引用
オレンジ部分が特急ひだの走行経路

ホーム上の売店でおにぎりとアイスコーヒーを買い込んで席に着くと、丁度列車が動き始めた。
列車は東海道線を西に岐阜まで走っていく。夏らしく青く晴れた空を車窓に眺めつつ、先程購(もと)めたおにぎりを機械的に頬張る。完食すると、次いでもう1週間以上も朝夕飲み続けている薬を口に含み、水を流し込む。
1週間前から処方された薬の毎度の謎の苦味に溜息をつきつつ、持参した文庫本を取り出し、ページを繰りはじめた。今回、急にSNSを断じた私とて、暇な時間は手持ち無沙汰になることは目に見えていたので、移動中や暇な時間は本を読むことにしたのだった。
暫くすると、列車は岐阜駅で進行方向を変え、高山本線に入った。列車は美濃太田までは木曽川沿いに沿い、美濃太田から下呂の先までは飛騨川に沿って進むかたちとなる。
岐阜を出て暫くすると、木曽川が見えてくるとともに車内放送で案内が流れ始める。木曽川のその流れがヨーロッパのライン川に似ていることから日本ラインとの異名を持つなどと言っているのを聞き流しつつ、ぼんやりと川を眺める。
休暇旅行で木曽川を見るのは、前回の長野旅行と併せて2回目である。長野へ向かう車窓で雄大な青い山に囲まれてゆっくりと流れる川は、それは美しく見え、私の心に深く刻まれたのを覚えている。
だが、今回の木曽川は、私には違って見えた。私の目には、そんな綺麗なものを見ても何も感じなかった。ただ単に、三角形の山と線状の川がそこに色付きで存在しているとしか思わず、その雄大な景色がもたらす感動がすっと私の心を通り抜けていくような気分だった。
「国敗れて山河あり」ならぬ「心破れて山河あり」の気持ちである。山も川も、いつも美しい姿を人に見せてくれるが、それを見た人は必ずしもそれを美しいと感じるわけではない。人が美しいものを見たり、素晴らしいものを見たりして感じる感動は、心の安寧と平和によってもたらされる感情に他ならず、いかに美しくても、心が富んでいなければそんな感動も感じられないのだった。
列車は「日本ライン」こと木曽川に沿って美濃路を抜けていき、岐阜から20分ほどで美濃太田に到着した。ここからは木曽川に別れを告げ、飛騨川に沿って下呂、高山と観光地を通って北進する。川に沿って進むため、線形も大蛇のようにうねって進む。
先にも述べたようにこの列車は富山まで4時間もかけて走破するが、ここ美濃太田までは40分ほどしか走っていないため、ここから先山を越えて富山に抜けるのに3時間以上もかかることになる。
そんな大変長く険しい山岳地帯を走るのだから、今走っているこの線路も敷設するのにさぞかし難工事だったのだろうと予想できた。あとで調べてみたところによると、この特急が通過する下麻生ー白川口の15.2kmはたいへんな難所であり、4年もの歳月をかけて完成させたそうである。当時の工事記録によると「地勢は険しく、各所に発電用水路や貯水池放水路が予定線と交錯し工事は難関を極めた」(高山線建設要覧(建設省岐阜建設事務所昭和9年発行)より) とあり、なるほど車窓を見てみると眼下に広がる飛騨川の横の僅かな平地を切り開いて作ったような線形である。ひだ号も、特急といえど美濃太田まで見せていた高速運転はなりを潜め、崖を慎重に走るように60km/h程度でゆっくりと走っていた。
並走する川が木曽川から飛騨川に変わったからといって、車窓をみて感じるものが変わるわけではない。私は相変わらず、青い夏空の元無味乾燥とした山川が流れていくのを見ていた。
そんな難所を抜け、美濃太田から1時間弱程走ったところで、列車は下呂に到着した。
下呂は日本三名泉の一つに数えられる有名な温泉郷である。車窓からは、温泉郷らしく旅館やホテルの建物が見えてきた。この暑い中熱々の温泉に入るなど、想像しただけで正気の沙汰ではない気持ちになり、名湯とはいえ季節が変わるのを待ってからの訪問の意思を固くした。
下呂では数人が下車した。もっとも、平日真っ只中に観光地に向かう客など皆無に近いので、列車は名古屋からずっと空気を運ぶ席が多かった。
下呂を出た列車は、また飛騨川を横幅跳びするように右に左に渡りながら進んで行く。
しばらくすると、突然長いトンネルに入った。GoogleMapを見ると、列車は久々野と飛騨一ノ宮の間にある宮トンネルというトンネルに入っていた。
この宮トンネルは、高山本線の中の難所であり、先に通った下麻生ー白川口間以上の難工事で完成したトンネルだそうである。全長2080mのトンネルの完成には3年を費やし、工事動員に20万人近くを使役したという。
このトンネルで特筆すべきなのは、太平洋と日本海の分水嶺を横断するという点である。分水嶺というもの自体このトンネルを通して初めて知ったのだが、水の流れの境界の事を言うらしい。

> 水は高いところから低いところへと流れる。したがって稜線のどちら側に降るかで流れ込む川が変わり、注ぐ海が変わってくる。山岳においてはこのような違いが大変明瞭な形で現れてくるが、一見平坦な地形のところでもこのような営みが行われている。

wikipedia 「分水界」より

要は、今まで太平洋側に注いでいた川に沿っていたのが、日本海側に注ぐ川に沿って走るようになると言う事である。
そんな訳で、トンネルに入る直前で太平洋側に注ぐ飛騨川とは別れていった。
先述の通り、宮トンネルの施工は地下水の出水事故が多発し、たいへんな時間と労力が掛かったそうであるが、最新鋭の車両で走る特急ひだはそんな苦労などものともしないように、ものの5分もしないうちにトンネルを抜けた。そして、出てくるのを待ち構えていたかのように、今度は日本海側に注ぐ宮川に沿って走っていく。と、まもなくして列車は高山本線の一大ターミナル駅高山に到着した。
高山は八ヶ岳と白山に囲まれた平野に位置する街で、江戸時代から幕府の直轄領として栄えてきた街である。と同時に世界遺産の白川郷への玄関口の役割も果たしており、列車で白川郷を目指すにはこの駅からバスか車に乗ることとなる。
高山で乗客が私以外ほぼ全員降りていったので貸切状態になったと喜んだのも束の間、彼らと入れ違いに高山から多くの乗客が乗ってきた。
隣席が埋まるほどではなかったが、列車で白川郷を目指したらしい外国人観光客が多く乗り込んできて、私の号車は日本人よりも外国人の方が多いのではないかと錯覚するほどであった。
列車は5分ほどの停車を経て静かに高山駅を出発していく。高山とその少し北にある飛騨は、白山と八ヶ岳に左右を囲まれた平野に位置しており、次の停車駅の飛騨古川あたりまでは、さきほどまでの険しい川路とは違って平野を進んでいき、しばらくは入道雲の浮かぶ青空に夏の日本の田舎の景色が流れていく。だが、もう既に2時間は車窓を眺めていて、無味な景色にすらも飽きてきた。私はイヤホンの音量を上げてうつらうつらと船を漕ぎ始めた。

ふと目を開けると、列車は富山市の越中八尾駅に到着しようとしていた。どうやら寝ている間に山を越え、富山県に入っていたらしい。列車はあと15分ほどで終点の富山に着こうとしていた。
名古屋からの4時間の旅もようやく終わろうとしていた。車窓からは立山連峰が遠く見えたが、観光パンフレットに載っているような万年雪の姿は見えず、山々は夏らしく入道雲の向こうに霞んでいた。
車内では、乗客たちが降りる準備をしようと慌ただしく準備を始める。私もそれに倣いスーツケースを網棚に下ろし、手に持っていた文庫本をしまった。普段の旅だと、同じ列車に何時間も乗っていると少し愛着が湧き、降りるのが少し名残惜しくなる。現に前回の長野旅行でも、行きの特急しなのを降りるのは少し寂しい気持ちになった。あの時も数時間ずっと同じ列車に乗っていたので、変な言い方をすると実家のような安心感でもってゆったりと腰掛けていたものである。
しかし、今回はとにかく早く降りたくて堪らなかった。もう無機質な車窓を見るのには完全に飽きていたし、座席が何故かいつも以上に息苦しく感じていたのだ。
私は終点に着く前から、車両の誰よりも早く席を立ち、いち早くホームに降りられるようにドアの前で到着を待った。富山駅が近づくにつれ、他の乗客達も徐々にドア前に集まってくる。
列車はまもなく速度を落とし、定刻通りに富山駅に到着した。ドアが開くが早く列車を飛び降りる。
数時間ぶりに車外に降り立った私は、軽く伸びをして他の乗客の歩く流れに従いながら改札を目指す。数十メートルほど歩いて何気なく列車の方を振り返ると、4時間の走破を終え回送列車となった車両が、改札へ向かう私を見送っていた。
たいへん虚無な4時間の旅路だったが、これが病の身ではなく健生な身であれば、虚無とは違った車窓を楽しめたのだろうか。そして、あの自然の豊穣さに触れた感動を車窓越しに楽しめることが出来る日は来るのだろうか。私はその答えを一向に見出せないまま、改札へと続く階段をゆっくりと降りた。

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