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水引の歴史②


前回の続きです。

前回の記事で水引の歴史を紐解いていた私ですが、なんとなく和紙普及の歴史と面白いほどに重なることに気が付きました。

まず、2つの歴史で大まかな出来事を時代順に並べると、このようになります。

おや?これは、つまりこういうことだ!と気がついたのです。

では、それぞれの時代をみていってみましょう!

最古の紙は中国

発見されている最古の紙は中国甘粛省天水市で発掘された麻の紙で、紀元前176年から141年ごろのものとされています。(竹尾ホームページwww.takeo.co.jp/finder/paperhistory/)
そのころの日本といえば弥生時代で、ちょうど農業を中心とする経済生活が始まり、少国家群生時代へと突入していました。まだ文字もなかった時代ですね。


日本への伝来in飛鳥時代

ときは過ぎ、日本に紙が伝来したのは5〜6世紀ごろとされています。
きっかけは、誰もが知る聖徳太子(厩戸王(うまやとおう))が摂政となったことです。(いっきに学び直す日本史)

まったく関係ないですが、いまは教科書では厩戸王とされているらしいです。聖徳太子は死後につけられた名前だから適切ではないとか。
歴史って、本当に時代とともに変わっていき面白いですね!
https://www.nikkei.com/article/DGXLZO12920600U7A210C1CR8000/


592年に蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺し、”いち早く天皇を中心とした統一的な国家組織”をつくろうとしました。
まずは外国の先進文化である儒教や仏教を取り入れて、ルールや官吏たちの意識を立て直そうとしたのです。(冠位十二階や憲法十七条などが、そのために作られた新しいルールでした。)
そして当時最先端の国であった随に人を送り、新しい知識を吸収して国力を強めようとしました。
誰もが知るパート2の小野妹子は、このとき(607年)派遣された遣隋使の一人です。このときに唐から持ち帰った荷物に水引がかけてあり、日本に伝わったとされています。

このように渡来文化を積極的に取り入れていた厩戸王のもとには、随だけではなく百済や高句麗からの知識人たちもたくさん訪れました。
そしてついに!610年に渡来した高句麗の僧曇徴(どんちょう)が、彩色と紙墨を伝えたのです。

日本に伝わるまで、長かったですね〜!

奈良時代に本格始動?

奈良時代の文化は天平文化と呼ばれています。
日本最古の文献とされている『古事記』や『日本書紀』、『風土記』もこのころに編纂されました。
奈良時代のはじめに律令国家が完成し、国家意識が高まったそうです。
しかしそれは、”律令国家の模範とされた唐文化への強いあこがれのひとつのあらわれ”でした。
最先端の文化に対して強く追いつきたい!という思いから、なんでも取り入れていきそれがステータスとされたのです。
アメリカで流行っているものがすぐに日本にやってきて大流行する、みたいなことでしょうか。

水引も、

きっとなんか荷物にくっついてるぞ?ふーん。

これは水引というやつで、あっちでは絶対に贈り物につけるらしい。これ、マストだな。

という感じで奈良時代にはスタンダードになっていったと想像できます。

オリジナリティ平安時代

平安時代前期までは、まだ唐の影響がとても強く唐風文化でした。
が、後期になるとがらっと変わります。
9世紀待つに唐が衰え、遣唐使が中止されたのです。
これにより国風文化が一気に発展していきました。
日本の風景や風俗を描く大和絵や、かなが発明されたました。
カナデが記事を書いている土佐日記も、このころ執筆されました。

唐という絶対的憧れを無くしアイデンティティを見失いかけたが、自分のオリジナリティを発見したのです。
マクドナルドが好きだったが、チキンナゲット問題のときに久しぶりにモスバーガーを食べたらすっごく美味しかった、みたいなことでしょうか。

この時代に水引の色や結び方が独自に発展していったというのも、納得できます。

有職故実(ゆうそくこじつ)の始まりは鎌倉時代

鎌倉時代には、武士による政治支配が始まりました。
当時の武士は武芸の修練などには熱心でも、共用が低く文化レベルはあまり良いとは言えませんでした。
”そのため、学問研究は、伝統のある貴族の間でもっぱらおこなわれていたが、貴族は新しいものを切り開いていこうという積極的な気構えにはかけていたから、貴族の学問は、家ごとに専門を世襲する家学となって固定し、没落しつつあった貴族の懐古趣味に支えられて、古典研究や有職故実がさかんとなった。”
みんなで盛り上げていこう!というよりは、じゃあなたこれ担当ね、という感じで担当制にしてきちっとしていこうとした、ということですね。

有職故実は儀式典礼を研究する学問で、これがのちの流派形成につながっていきます。


きっちりし始めた室町時代

室町時代の文化は、京都の上級武士(州軍や守護大名たち)による武家文化でした。
彼らは権威や教養などを示すために貴族文化を身に着けたと言われていました。

このころに折形の流派である伊勢流と小笠原流などが誕生したのです。
室町幕府三代将軍足利義満が武家の独自の霊峰として折形を制定し、伊勢家には主に殿中の礼法、小笠原家には弓馬の礼法を司るよう命じたといいます。
この折形は贈り物をどのような場合にどういう形式(包み方、色、添えるものなど)で贈るか?ということを定めている礼法で、贈る際には水引は欠かせないものでした。
今までなんとなく伝えられていた水引を含めた贈り物についての礼儀作法を、小笠原家と伊勢家がちゃんと管理してよ、とお願いされたわけです。
家の家事はなんとなく気になった人が気になったことをやっていたけれど、あまりにもなあなあなのできちんと分担を決めた、みたいなことでしょうか。

技術やルールが複雑化していったので、管理をちゃんとして統一性や学問性を強めたのではないでしょうか。
同じ頃に、紙は産地特有のものが出てきており、水引と同様に技術力や独自性が高まっていたことがわかります。

ちなみに礼法は、それぞれの家で代々伝えられていったそうです。

やっぱり江戸時代

江戸時代になると、商品経済が一気に発展します。
伊勢家の伊勢貞丈によって折形のルールがまとめられたのも、江戸時代です。
彼がまとめた本には、帯をおくるときはこの種類の紙でこういった折り方で、かつ水引はこのように結ぶ、というようなことが項目ごとに綴られています。
かなり厳密なルールが、様々なものに対して決まっていたことがわかります。

そして紙も、生産性が向上し庶民の手にも届くようになっていました。
少し前の時代までは限られた人しか知らなかった礼法のしきたりも、裕福な商人からやがて一般市民にも浸透していったのです。
こうしてようやく、水引と紙はわたしたちの手の中に入ってきました。


と、ざっと伝わったときから江戸時代までの水引と紙の歴史をみてきました。
紙に比べてあまり馴染みがないかもしれない水引ですが、こうやってみると同じ時代を過ごしてきたのだな〜とわかりますよね。
その時代の流れなどで文化や技術がかなり影響されることも、今回のいろいろと調べてみてわかりました。
水引をきっかけに、歴史にもどんどん興味がわいてきますね!


■参考文献
安藤達郎『いっきに学び直す日本史』東洋経済, 2016年
児玉幸多『にほん師年表・地図』吉川弘文館, 1995年
茂木誠『世界史とつなげて学べ超日本史』KADOKAWA, 2018年

株式会社竹尾(2019年6月16日)
http://www.takeo.co.jp/finder/paperhistory/


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