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人は自分が思っているよりずっと色々なことを考えている(おえかきの話)

絵を3年ほど描き続けた。ようやく少しは絵を見る目が養われてきたのだろうか。

いいなあと思った絵を見て、色々聞いてみると、やっぱりいい絵を描かれる人は色々なことを考えてながら絵を描いているんだなあと思うことが多々ある。

昔は、絵をいいなあ、と思っても、「なんかわからないけれど好き」「なんかわからないけれど可愛い/格好いい」「なんかわからないけれど綺麗」みたいな感想しか出てこなかった。

それを素直に伝えると、たしかに「ありがとう」と喜んでくれる。

元々絵を見るのは、人より時間がかかる方だったのだが(1枚に最低じっくり5秒とか10秒かけないと、絵をしっかり認識できない)、最近、更に絵1枚あたりにかける時間が長くなった。

絵を見て色々なところが気になり出すのだ。もちろん良い場所の話だ。鑑賞者の目で見た後、描く側の目でじっくり見てしまう。ここの線がいいな。とか、バランスがいいな、収まりがいいな。とか、ここ色が綺麗だな。とか、拘ってそうだな。とか。

それを描いた人に直接伝えると、昔よりたくさんお話をしてくださることが増えた。「そうなんです、ここはこういう工夫をしていて」とか、「ここはこう言う苦労があって」とか。

私はそう言う話を聞くのがとっても好きだ。

それを話す描き手は、いつも楽しそうで、そしてどこか少し誇らしそうだからだ。

人が楽しそうに、好きなことの話をしているのを聞いていると、楽しくなってくる。その話が自分も大好きな絵の話だ、となると尚のことである。

そして同時に気がつくのは、私が見つけられた「描き手の工夫」、さしては、「絵の良さ」は氷山の一角であったということだ。

私の「絵を見ている角度」はほんの一面に過ぎないのだ。

絵を描いている人は、失礼ながら、みんな私が想像していた以上のことを、思いも寄らなかったことを考えて絵を描いているのだ。そう、改めて思い知らされた。

ある日、模写をしていて、何気なく引かれているように見える美しい線が、色が、形が、余白までが全て作者の計算尽くだと気がついた時、鳥肌が立った。


それはきっと、当たり前なのだろうが誰だってそうなのだ。

私だって少しは考えている。拙いなりに必死に考えて絵を描いている。

巷に溢れる人工物、物以外。どんなものだって、自分の思いも寄らない考えやこだわりを持って作っている人がいるのだろう。

そういった全ての創作物が、否定される謂れはないし、そんなことはしたくない。そう言うものをじっくりと見れば、良いところのひとつ、やりたかったことのひとつくらい見つけられるのではないかと思う。

ならば、観察に時間がかかるのも、そんなに悪いことではないのかもな、なんて思えてくる。

それは、私の作品も同様だ。私は時に、世間的に見ればくだらないものを作るかもしれない。それでも私はそれを本気で作っている。好きで作っている。

だから、誰に否定される謂れはないのだ。

自分自身にさえも否定される謂れはないのだ。


そう思えば少し気持ちが楽になってきた、ような気がする。



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