『キングコング 髑髏島の巨神』 -神の左手悪魔の右手-

怪獣映画にいちばん必要なことは、怪獣の大きさを映画としてどう表現するかということなんだと思う。それは言い換えれば、人間の小ささをどう表現するか、ということだ。それによって、映画は人間という存在を眺めるための視座を獲得する。その点で、この映画はまれに見る傑作に仕上がっている。怪獣を大きく(人間を小さく)見せるために、単にアングルや構図の見せ方だけじゃない工夫が、たっぷり詰まっている(例えば、飛ぶヘリコプターの比喩としてトンボの飛翔のカットを重ねて、後にコングに叩き潰されることになるヘリの脆弱さを表している)。

けれど、怪獣たちの巨大さを見せるだけでなく、この映画では、怪獣の身体の一部に目を向けさせるような演出が目立つ。

例えば、目だ。コングの目に米軍兵士サミュエル・L・ジャクソンの目を重ね合わせるシークエンスが何度か現れる。コングは森林にナパーム弾を撃ち込まれて怒りに燃え、そのコングに部下を殺されるジャクソンは怒りに燃え、という怒りの連鎖が2つの憤怒に燃えた目を作り出し、それが映像で結ばれることで、両者の間には理屈を超えた関係性が生まれてくる。白鯨とエイハブ船長のような運命的な結びつきが浮かび上がってくるのだ。ジャクソンという俳優が、ひどくコングに似た顔を持っているのも、偶然とは思えなくなってくる。

目を媒介としたシーンが表現するのは、憎しみだけではない。コングの島で人間の探索チームが巨大な水牛に出会う場面。水牛に発砲すべきかどうか。切迫した逡巡にパニックになりそうな隊員を制するのは、彼らが水牛の目を見るからだ。その見交わし合いから、両者の間にはある種の交流が生まれてくる。後にヒロインのブリー・ラーソンがその水牛を助けるエピソードがそれに繋がっていき、ひいては彼女とコングとの特別な関係に発展していく。目と視線が結びつける関係が作られていくのだ。

目とともに、この映画の重要な要素を担っているのが、手だ。コングが初めて姿を見せるシーン。第二次大戦中の米兵と日本兵とがこの島にパラシュートで降り立ったかと思うと、銃と日本刀(!)の対決が始まる。その成り行きに息を呑んでいると、いきなり映画に全く別の次元が乱入してくる。彼らの背にした崖を掴んで、コングの巨大な手が現れるのだ。戦争映画から一気にジャンルを跳び越えて怪獣映画に着地する素晴らしい瞬間。それに加えて、この場面は、コングが手から登場してくるという重要な事実も、私たちに印象づける。

敵対する人間たちや敵の怪獣たちと戦う場面の直前に、コングが拳を握りしめるカットが現れる。その拳が一旦握られれば、それはヘリを破壊し、敵の怪獣も叩き殺し、最後にはS・L・ジャクソンも叩き潰す(拳を握るコングの仕草を人が模倣する痛快なカットもあり)。

手と言えば、コングの存在の証明に異常な執念を燃やすジョン・グッドマンが、山の壁面についたコングの巨大な手の跡に、何気なく自分の手を重ねるショットがある。手の大きさの違いが遠近の違いによって消され、その2つの手がぴったりと重ね合わされる。グッドマンは、(その名前とは裏腹に)巨大な体躯に壊れた精神を宿すという米国映画に脈々と継承されるダークサイドなキャラクターを体現して来た俳優であって、彼はこの映画でも、一種のマッドサイエンティストとして、ジャクソンとは違った意味でファナティックなオブセッションを自然に向ける存在だ。その彼のこの仕草は、コングが象徴する自然そのものをねじ伏せようとする人間の傲岸さの表現となっている(もちろん、それが故に、彼は自然そのものに文字通り食われてしまうわけだが)。

コングの手は破壊のためだけにふるわれるわけではない。コングの拳が開かれ、掌が何をするのかも、映画は見つめている。

先述のラーソンがヘリの下敷きになった水牛を救おうとする場面、持ち上がりそうにないヘリが不意に宙に浮かび、それを握ったコングの姿が現れる。さらにその後、コングと宿敵スカルクローラー(コングとは対照的に、殺戮の機能だけを付与されたおぞましい身体のデザイン)との戦いのあおりを受けて、崖から水中に落下したラーソンを、コングの掌がすくい上げる美しいシーンがある。

が、彼女を手から放す間もなく、コングと異形の怪獣との激烈なバトルが再開してしまう。彼女を握っていないもう一本の手だけで戦うというハンデが、強烈なサスペンスを生みつつも、最終的に戦いを制するのが、彼女を持っている方の手だという逆説的な展開こそが、この映画のテーマを語っている。攻撃と庇護、破壊と救済とを併せ持つ、両義的な手。そういう自然の手とどう向き合うかが、人間の条件なのだと。

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