『浮雲 4Kデジタルリマスター版』 -成瀬己喜男の映画を涙活にはできない-

終映後の観客が泣き顔をさらさなくてすむように、落涙ポイントがラストシーンの一つ手前にあるのが、最近の映画。『チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話』でも、広瀬すずの女子高生が鬼コーチの天海祐希と抱き合うクライマックスの後には、彼女らのその後を描いたエピローグがちゃんとくっついていて、観客の涙を乾かす時間を用意してくれる。さすが新聞のテレビ欄掲載をあてこんだようなプロット全部盛りタイトルを冠した、おもてなし精神満載の映画だ。

しかし、成瀬己喜男監督が1955年に制作した『浮雲』は、高校生を観客として想定してはいない。人生をなんとか渡って来た疲れと諦めを溜めこんだオトナのために作られた、ハードボイルドな映画だ。成瀬映画定番の主人公たち、すなわち、自らの欲望や打算の奴隷のような下司カップル(森雅之と高峰秀子)が、どこまでも堕ちていく。全編、みすぼらしい部屋で向き合った二人が互いへの恨みつらみをぼそぼそ言い合う場面や、二人でとぼとぼ道を歩きつつ喧嘩と仲直りを繰り返す場面が、ひたすら続いて行く。

でも、そんな成瀬の映画を、シネマテーク・フランセーズ館長のセルジュ・トゥビアナが「登場人物たちのimpureté (不純さ)が素晴らしい」と評している理由は、よくわかる。成瀬映画のダメ人間たちには、じっと見入ってしまう何かがある。例えば、自業自得な転落人生の中にあっても、主人公たちに自己憐憫や卑屈さは皆無だし、相手を責めても恨んでも性懲りもなく相手にぶつかっていく。なにより、伏し目がちな主役二人の気品と色気は、壊れた人間たちに目を注ぐことの意味を、見る者に伝えてくる。

戦後、外地から引き揚げてきた高峰が連れ込み宿(ホテルじゃなく連れ込み宿)で森と逢引(デートじゃなく逢引)をする場面に、彼らが出会うインドシナの思い出がカットバックで挟まれるシークエンスは鮮烈だ。熱帯の光の中で、白いドレスに身を包んだ高峰の輝くような顔がアップになったかと思うと、次のショットではそれがやつれ顔の彼女に変り、うらぶれた現実に戻ってくる。どこにも居場所のない二人が未だに彼らの光あふれる原風景に取り残されている様を、このモンタージュが一瞬で表現する。

東京から出奔した彼らは屋久島に流れ着き、その地で高峰は病を得て倒れてしまう。死の床に横たわる彼女から身体性が削ぎとられて行くにつれて、聖性を帯びたような美しさを宿していく彼女の顔から目が離せなくなるけれど、その輝きに見入る束の間の時間に浸ることは出来ない。映画が場面を断ち切るようにあっけなく終わってしまうからだ。なす術なく涙にくれる観客を置き去りにして、客席には白々と灯りがともって行く。この映画では、スポーツで汗を流すように気持ちよく涙を流したりは出来ない。私たちは泣いている自分の心と向き合うほかはなく、涙の源流は自分たちの心の奥に辿っていくほかはない。

ここには、青春の夢を勝ち取って歓喜する広瀬すずも、野獣を人間に戻して幸福に包まれるエマ・ワトソンも存在しない。成瀬の映画には、背負った業の深さにあえぐ惨めな中年カップルが息づいているだけだ。しかし、人生の塵や埃にまみれながらも、あるがままの人生をあるがままに受け入れることを示すのが映画なのだと、成瀬の映画は教えている。


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