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2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて、自分がCriacao(クリアソン )として伝えていきたいこと

2013年9月8日にブエノスアイレスにて、2020年のオリンピック・パラリンピック開催地が「TOKYO」と決まって早5年。

いよいよ東京オリンピック・パラリンピックが目前に迫ってきました。

今年2018年はサッカーロシアW杯で日本の躍進に国民が沸き、来年2019年にはラグビーW杯が日本で開催され、そしてその翌年に2020年となります。

スポーツというものへの注目が未だかつてないほどに集まり、日本国民がスポーツにあらゆる場面でここまで触れる数年は、自分が生きている間にはもうないと確信しています。

要するにスポーツの社会的インパクトが最大化されるということ。

その数年で、「スポーツを通じて何を未来に残していきたいか?」、この問いに対する答えは、百人いれば百通りあることと思います。

医療費抑制に向けたスポーツの健康面における価値

IT化が益々進展する中でバーチャルでの人間関係の比重が高まる中でのリアルでの人間関係・コミュニティとしての価値

テクノロジー活用による、益々の競技レベルの向上、”観る”楽しさレベルの向上、スポーツ運営の効率化・高度化

あげれば本当にたくさんの変化が起こっていると思います。

今回は自分が考える2020年以降にスポーツを通じて残していきたいものをブログに残しておきたいと思います。

結論から述べると、「各スポーツにおける教育的価値を再定義する」、これを残していきたいと考えています。

スポーツを教育的な視点から捉え、「何故そのスポーツをするのか?」「そのスポーツにはどんな教育的価値が内包されているのか?」こんなことに豊かな社会の実現や、社会課題の解決に繋がる、とても大きな価値が眠っていると確信的に思っています。

スポーツ界ではよく、「スポーツを通じた人間教育」、という言葉が日常的に使い倒されています。

もはや人間教育という言葉を使っておけば、価値のあることをやっているかのような錯覚に陥るような、そんな魔法の言葉です。

魔法の言葉でありながら、その中身はにわかに怪しいもので、ほとんどのスポーツ関係者がスポーツの教育的価値を本質的に論じていることを自分はあまり見かけたことがありません。

もちろん自分自身もそんなに偉そうなことが言えるような大層な人間でもないのですが、ここではあくまで自分がCriacaoという組織で、スポーツを通じて世界に発信していきたいと考えている一意見を述べさせていただきたいと思います。

多くの方がスポーツを通じた人間教育を述べていて、「そのスポーツ」を通じた人間教育が整理して述べられることが少ないと感じています。
スポーツと一言に言っても、競技特性やあらゆる構造の違いは多岐に渡っています。

一般的にたくさんの方々にスポーツを通じた人間教育とは何ですか?と質問すると、その答えは、

人間関係をしっかりと構築することができる(挨拶ができる、上下関係を重んじることができる、組織の中での立ち位置の理解ができる、ルール・規律を守ることができる等)

最後まで諦めずにやりきる気合いや根性がある

体力がある

と言ったことなどが声として上がってきます。

この答えは一般的に【スポーツとそれ以外の活動】を構造的に相対化したものであると理解しています。

ある観点では正しいのですが、違った観点ではそれ以外の活動でも身につくようなものが挙げられていたりする視点が限定的であるステレオタイプなものだと捉えています。

ここの解釈が多様な視点を持ってなされていないことが、今の競技スポーツにおける一つの成長を阻害するボトルネックになっていると自分は考えています。

またスポーツの中でも、例えばサッカーをやることで学ぶことができる教育的な要素と、剣道をやることで学ぶことができる教育的な要素は共通するものこそあれど、大きくは違ってくると思っています。

例えば”サッカー”と"剣道"。

それぞれに競技構造や歴史的な文化と全く異なる背景を持っています。

競技構造で例を挙げると、チームスポーツなのか、個人ないしは団体スポーツなのかという特性でも、身につけることができる・必要とされる能力は異なってきます。

またその競技のルールによっても求められる能力特性は異なってくるので、例えば”時間”という観点でもプレー:45分-休憩:15分-プレー:45分となっているサッカーと、5分×3本となっている剣道では、身につく能力は身体的にも思考能力的にも異なってくるのは明らかです。

歴史的な文化で捉えると、サッカーはサッカー先進国である欧州、南米に”外から学ぶ”文化が強く、剣道は日本が発祥なので、”突き詰める”や”自分と向き合う”という文化が強いように感じたりもします。

あくまでこれは一例なのですが、このようにスポーツの特性を切り出して相対化することで、”そのスポーツ”を通じた人間教育というものは、明らかに違ってくるのだと考えています。

自分たちはサッカークラブとフットサルクラブを運営しているのですが、例えば自分たちのクラブで、サッカーというスポーツの教育的価値をどのように捉えているかでいうことを考えてみたいと思います。

切り口、解釈の仕方は無数にあると思いますが、今回はあくまでも自分たちの解釈の仕方について述べさせていただきます。

〈サッカーの競技特性〉

①足を中心に競技するスポーツである

②11人:11人+審判で行い、一旦競技が始まると、監督の指示よりも、競技時間内のほとんどが選手個人による決断が多くなるスポーツである

③ポジションによって役割が異なる特性と、ゴールキーパー以外は役割変更も時として求められる特性を併せ持つスポーツである

④攻撃と守備が瞬時に入れ替わる特性を持つスポーツである

⑤ボール一つで世界中と繋がれるスポーツである

〈そこからもたらされる教育的価値〉

①足で行うため、脳からの伝達が遠かったり、普段手ほどに器用に扱わない部位のため、ミスが起こりやすく、お互いのミスを補い合ったり、自らがミス自体を減らす努力を求められるスポーツ → 自分を律する、相手をよく知る、味方のミスを時に許容しサポートする、ミスをしたときにサポートしたいと思ってもらえる人間関係を構築する

②監督からの判断を共有することももちろん大切だが、絶えず変化する状況を味方の10人、相手の11人、審判、ピッチ状況等を理解し、判断しながら、自らが主体的に決断をしていくスポーツ → 状況判断、変化対応、自ら決断する力

③ポジションによって役割が異なるため、自らの役割をよく理解すること、仲間との相対を理解し自らの特徴に合わせたポジションでチームに貢献していく、時には自らの役割を飛び越えてチームに貢献していく → 組織全体の構造理解、自らの役割理解、自分の特徴理解、周囲への配慮と関わり

④攻撃と守備が絶えず入れ替わる → 状況判断、連続的に思考を回し続ける必然性

⑤ボール一つで世界中と繋がれるスポーツ → 自分の活動の延長線上で世界と繋がることができるコミュニケーションツール、サッカーから世界を学び、サッカーを通じて繋がることで、世界を平和に。

このように切り取ると、変化の激しい現代社会において、サッカーというスポーツを通じて、培うことのできる人間性は、社会においても非常に価値が高いものであると考えられると思います。
もしかすると暗記を中心とする日本の学校教育では伝えられない価値を、スポーツ教育で培うことができるかもしれません。

他にも考え方はたくさんありますし、あくまでこれは一個人である僕の見方であると思います。

一方で、例えばこのような意味づけでサッカーという競技を捉えてみると、日々のチームの活動の中で、どういったことを大切にして、競技と向き合うか、そしてその結果としてどんな力が身につき、どんな人間が育まれていくか、イメージが湧いてくるかと思います。

競技スポーツだとどうしても技術的側面に目が向く傾向が強くなり、それ自体は間違ったことではないと思うのですが、このようにスポーツを構造的に再定義して、向き合ってみることで、ただの競技スポーツを超えた、スポーツの教育的価値が見えてくるのではないでしょうか?

こうしたスポーツの教育的な再定義をしていくことで、2020年の世界最大のスポーツの展示会でもあるオリンピック・パラリンピックが、ただの競技の祭典ではなく、日本中、世界中の人々がスポーツを新しい見方で捉えて、
「自分の子供にはこんな子供になって欲しいから、〇〇のスポーツをやらせてみよう」とか、「こういう競技構造だから、〇〇選手は人間としてこんな魅力があるんだ」、といった議論がうまれていったら、それは一つの大きなレガシーになるのではないかと考えています。

現在自分はCriacaoという組織で、こういったスポーツの教育的価値での再定義を面白い、価値がある、と思ってくれて共感してくださるトップアスリートやスポーツ界、ビジネス界、行政等の方々と活動をともにしています。

ただの競技スポーツでない、教育的観点を用いたスポーツの活用を通じて、社会をもっともっと豊かにしていければ、自分としてもCriacaoとしてもこんなに嬉しいことはないと思っています。

僕自身、スポーツでプロを目指して競技をしていた時には、こんな視点一つも持っていませんでした。

それ自体に後悔はないですし、その中で学ぶことができたこともたくさんあったので、感謝しかないのですが、上述したような視点を中学や高校の頃から持てていたら、もっと振る舞いや、サッカーへのアプローチも変わったのではないかと確信しています。(もしかするとその観点を学ぶ中で、違うスポーツをやっていた可能性にも広がったかもしれません。)

こういった考え方を大学の体育会学生やプロアスリート、スポーツ関係者と共有し、ディスカッションを重ねていく中で、スポーツ界のいい意味での多様化を広げることができていると感じています。

こうしたアプローチが結果としてスポーツ人材の質を高めることに繋がり、アスリートのセカンドキャリアというような言葉がなくなっていったり、大きくは世界平和に繋がっていくのではないかと仮説を持っています。

スポーツの価値は本当に多様だと思っています。

昨今のボクシング連盟やレスリング、アメリカンフットボール、相撲等、スポーツ界で連続的に起こっているあらゆる問題の本質的な課題は、スポーツが多様性を失って、特定の方々の既得権益になってしまっているという閉じた世界であることにあると思っています。

スポーツが全てということは絶対になく、スポーツ自体が経済や政治や社会のあらゆる物事に影響を受けて、価値が変動していっている事実も広く理解しなければならないと思っています。

その中でスポーツという衣食住と比較するともしかすると必要不可欠なものではないかもしれないものが、これだけたくさんの方々に愛されている理由を深く突き詰めていくと、ここに記載させてもらったような要素が人間にとって生きていく上でより人生を豊かにしていくものであると信じています。

スポーツの教育的価値で、この変化の激しい新しい時代をより豊かにしていきたいと考えているので、共感いただける方々とともに、チャレンジし続けていきたいと思います!

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