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アフリカの血と僕の嘘

今日からイスラム教で定められた宗教的な祝日であるEid al-Adha(=イード・アル=アドハー)、日本語に意訳すると犠牲祭である。ラマダン明けの祝祭の一つで、イスラム教徒にとって大事な日だ。

この「ラマダン」というワードが僕の過去の記憶を蘇らせたので、今回、僕のもう一つのルーツであるチュニジアとイスラムに関わることを書きたいと思う。

1. 僕の生い立ち

僕の名前はこの前ツイッターで公開した通り、Maki Chimuraです。

実は、僕もう一つ名前があるんです。

メッキ・ベン・アブデルケリイム

はい、そうです。アラビックネームがあるんです。

メッキ(名前)

ベン(ミドルネーム)

アブデルケリイム(苗字)

こういった構造です。

僕は、チュニジアと日本人のハーフなのですが、生まれはチュニジアの首都チュニスで、7歳までチュニジアに住んでいました。当時、日本語はほぼ話せず、バリバリのアラビア語スピーカーでした。

↓黄色いジャケットが僕です↓

左の青年がこのNoteの重要な人物となる僕の親戚なので要記憶です。

僕は7歳からは日本で育ちました。日本では父と日本語を話していたせいか、アラビア語をあっという間に忘れてしまいました。小学校・中学校と普通に過ごしていたのですが、高校に入学したタイミングで大きな出来事が起きました。

父が突然病気で亡くなってしまったのです。

2. 心の変化

高校3年生の時に、母と姉で数年ぶりにチュニジアに行き、心の変化がありました。

あ、自分は50%チュニジア人から成り立っているんだ

あ、僕にはチュニジアに親戚がいるんだ

こんな思いが、頭の中を駆け巡り、今のままチュニジアを無視して生きていくのはダメだなと。大袈裟かもしれませんが、チュニジアというルーツを知ることは自分の宿命だと子供ながら思ったのです。

このチュニジア旅行を通じて2つのことを決意しました。

① 大学に入学したらチュニジアに留学する

② イスラム文化=自分のルーツを知る

③ チュニジアの公用語であるアラビア語とフランス語を話せる様にする

大学を休学して、チュニジアに1年間留学に行くことにしました。

ちょうど僕がチュニジア生活を始めた夏とラマダンの期間が重なっていたのです。

この時、このラマダンが最悪の事態を招くとは知らず、僕のチュニジア生活が始まりました。

3. 嘘との葛藤

大前提として、イスラム教は、父親の宗教を引き継ぐのが一般的です。従い、僕はイスラム教徒として生まれてきたことになります。しかし、僕は日本育ち、且つ、父親にイスラム教について何一つ教えてもらったことがありませんでした。生前、父はラマダンもしていませんでしたし、(好んで食べてはいませんでしたが)会食で避けられない場合、豚肉も食べていました。イスラム教徒の方からすると賛否両論があると思いますが、父なりに日本に順応しようとしていたのだと僕は思っています。

そんな環境で暮らしてきた僕は、父親のチュニジアの家族もきっと父と同じ様な宗教観の捉え方をしているのかなと思っていました。

が、しかし、全く逆で、チュニジアの家族は、敬虔なムスリムでした。

これはチュニジア留学2日目ですぐに察しました。ラマダン開始まで残すところ数日。一緒に暮らしていた祖母からこんな質問がありました。

祖母:今年もラマダンが始まるわね

僕:そうだね。いやーチュニジアは暑いからラマダンきついね・・・   

祖母:日本はチュニジアより暑くないから楽なんだね          

僕:うん、そうだね。

このやりとり、僕の発言、全部嘘なんです。人生でラマダンをしたことなんて一度もありませんでした。ただ、嘘をつかないといけない理由があったんです。

父親のメンツを保つためです

父親は日本で働いていた為、チュニジアの通常の給料より良い待遇を受けていました。そのお金を毎月チュニジアの家族に仕送りしており、家族の中で尊敬されており、亡くなった後は、神格化されていたのです。

そんな神格化された人の子供が、イスラム教のことをなにも知らない?

ラマダンをやったことがない?

ありえません。

この重大な事実を知られることは、父親自身のメンツを潰すばかりか、親族内での父への信頼が地に果て、彼らも傷つくと思ったのです。

僕は、嘘をつきとおすことを決意しました。

4. ラマダンが始まる

ついにラマダンが始まりました。朝4時に家族全員で起き、朝ごはんを死ぬ程食べるのです。日が昇る前に、1日に必要なエネルギーを蓄えるのが目的。

朝6時、日が昇り、ここから日が沈むまで一切の食べ物・飲み物を口に出来ません。外は40度を近くあり、まさに灼熱。外出することは自殺行為となるので自宅に日が沈むまでずっと待機していました。そして無事、日が沈み、そこからは盛大に夜ご飯を食べるのです。

お、なんか、意外に余裕じゃね?これいけるわwww

と、この時思いました。

2日目、3日目を無事やりきりましたが、1週間が経った頃から、異変を感じ始めたのです。

・ ぼーっとする

・ 脳が働いている感じがしない

・ やる気が出ない

この3つの現象が僕の理性を狂わせ始めました。

そして、

語学勉強を捗らせるには、脳を活性化させる必要がある

と思い、何が必要かを考えたところ、答えはすぐに出ました。

糖分が必要だ

この邪念が僕の理性を食い尽くしたのです。

もう無理だ、今すぐチョコレートを食べ、水をがぶ飲みする

こう決意してから、行動に移すまでかなり早かったです。親戚の家には当時パソコンがなく、僕は、ネットカフェで大学のメールとかを確認しないといけないと適当な嘘をつき、外に出かけました。向かうは、ネットカフェではなく、そう、

チョコレートと水が売っている売店だ!

一番、近くの売店に行くとバレるリスクがあったので、タクシーで少し遠い売店に行き、無事、チョコレートと水、これに加えて、ポテチとコーラを調達。外で食べたり、公の場で食べるのは相手のリスペクトが欠けている思い、ネットカフェに入った瞬間に、トイレに直行しました。鍵を締め、まずはペットボトルの蓋を開け、水をがぶ飲み。

その後、念願のチョコへ。食べた瞬間、今この瞬間、100単語を10分で覚えられるのではないかと思うくらい、脳が活性化しました。

やべぇ、水とチョコってこんなうまかったっけ・・・

今まで抑制していた僕の食欲は止まらず、次はポテチとコーラへ食す。

コーラが喉を通った時の炭酸の「しびれ」の感触は今も忘れていません。僕があの時コーラを飲んだ姿は、コーラのCMに出ている満島真之介さんより確実に美味しそうに飲んだと思います。


5. 嘘がばれる

こんな日々を2週間近く続けていました。ラマダンの期間は1ヶ月なので残すはあと1週間です。

よし、嘘をつききれるぞ。そう確信していました。

親戚にはいつもの様にネットカフェに行ってくると朝10時に伝え、お決まりコースの売店に行き、チョコレートと水を調達。そして、いつもの様に15時に家に帰ったのですが、事件が起きました。

親戚宅の玄関に着き、チャイムを鳴らし、親戚がドアを開けてくれました。

僕:ただいま・・・(めっちゃ体力消費している風を装う) 

 親戚:おかえり、お前、ちょっと口開けてみろ

僕:え、なんで? 

 親戚:いいから開けろ!!(怒) 

 僕:抵抗しましたが、無理やり口を開けさせられ、僕の舌を見てきたのです

親戚:おい、お前、外でなんか食べただろ

僕:食べてるわけないじゃん 

 その後、痛恨の一言を言い放たれました。

この言葉で僕はKO負けしました。

嘘をつくな。

なにも食べていない時の舌は真っ白になるんだよ!

勘がいい方は気づいたと思います。

僕は脳を活性化させる、キング・オブ・ 糖分である

チョコレートを爆食していた為、舌が茶色くなっていたのです

この瞬間、僕への信頼は一瞬にして崩れ落ちました。

残り1週間のラマダン期間中、僕は親戚中から総スカンを食らい、ほぼ1日中口を聞いてもらえなくなったのです。

6. 親戚に全てをぶっちゃける

同じ空間にいるのに、誰とも会話をしてもらえないのは、こんなにもきついのかと思い知らされました。僕は、改めて、留学に来た目的を思い出しました。語学と自分のルーツ理解することです。語学は勉強をするだけなので問題なし。ただ、自分のルーツを知る上で、今の自分が何者なのかを親戚に伝えない限り、絶対に知ることが出来ないと気付いたのです。

僕は親戚に、今までずっと日本の教育で育ってきた。父は仕事が忙しく、僕が寝る頃に家に帰って来ていて、イスラムについて話したことは(小さかったという理由もあると思うけど)ほとんど記憶にない。

すると、親戚は、「何故それを最初から言わなかったんだ?」と悲しそうに言いました。続けて、こう言ったのです。

「俺たちは信仰心をお前に強要はしない。本当に信仰したいと思えるようになった時にそう言えばいいし、そうならなかったとしても、自分のルーツを知ることが大事なんだよ」

言われた瞬間、今まで感じていた変な重圧から時離れたように感じました。

僕はその後、家に指導者(イマーム)を週2回呼び、簡単なアラビア語でコーランの意味を紐解き→解釈したり、覚えた方が良い章をひたすら暗記することを留学期間中の1年間続けました。

7. 帰国前日

帰国前日に一番お世話になった親戚と二人でカフェに行きました。彼はこの一年間を総括し始め、次に僕に一つの質問を投げかけました。

「自分がイスラム教徒になったと心から思えるか?」

僕は正直なことを言おうと思いました。

「自信を持って、僕はイスラム教徒になった、とは言えない。でも、自分が何者で、誰から生まれ、なにを大事にして生きていかないといけないか、理解出来た。」

すると、親戚は、「それでいいんだよ」と一言、言いました。

あの時、地中海が一面に映るシディブサイドのカフェで飲んだ甘ったるいアラブティーの味は忘れられないものとなりました。

8. カフェから家に戻る帰り道

カフェからの帰り道、親戚と共に、自宅に戻りました。その帰り道の途中、親戚は、Lac Palaceというショッピングセンターに立ち寄りました。

僕の父は建築家で、この建物は父が昔設計に携わった自信作です。

車から降り、建物を眺めました。すると、親戚から

「俺は自分の親父を自分が1歳の時に亡くしている。末っ子だった自分は、兄である僕(筆者)の父と歳が離れていて、親父代わりだったんだ。自分が高校の時、医者になりたいと決意したのだが、貧乏で、到底学費なんて払える訳がなく、諦めかけていた時、お前の父親が学費・生活費・留学、全てを助けてしてくれたんだ。俺は、お前の父親に一生の恩があるんだ。」

続けて、こう言われたのです。

「だから、俺はお前の面倒を見る。お前がどうであろうと、お前は俺の兄の子供で、俺はお前になにかあったら必ず助ける」

父は、よく僕に自分が設計に携わった建物に僕を連れ、「この建物は一生残るし、建て替えられたとしてもそこに住んでいた人・訪れた人の記憶は消えない。お前も人の記憶に残ることをしろと言われていました。

父は亡くなりましたが、彼が建てた建物は今も生きていて、彼が自分の弟を支えていた"こと"は親戚の記憶から絶対に消えることはありません。

あれから時が経ち、僕は、色々な方と関わる中で、どんな小さなことでもいいので、"人の記憶に残ること""自分という存在を何かに刻む"ことに挑戦し続けながら生きています。

最後まで読んで頂き有難う御座います!

僕のもう一つのルーツについて書いている内容もありますので是非!




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