見出し画像

私のキャリアと事業のコンサルティングレビュー[1/2]

日本生産性本部 茗谷倶楽部会報 第76号(2018.12発刊)寄稿文 1/2

1.受講のきっかけ

私は幼少期に香港で育ったことから途上国経済の発展に興味を持ち、大学で開発経済学を専攻。また、仕事でも海外と接点を持ちたいとの想いで米国イリノイ州立大学に交換留学しました。そして、バブルの絶頂期であった1989年に工作機械メーカーのオークマに入社し、貿易部で東南アジア市場を担当したほか、国内営業でトヨタグループ担当に従事しました。わが国が培ってきた強みである、モノづくりの現場で経験を積み重ねてきたのです。

そうした経験を買われ、取引先であった三井物産の直系専門商社に転職し、即戦力として海外勤務に出たのが1996年。念願叶って新興国や途上国の経済発展に寄与する実感を噛み締めていたところ、日本企業の海外展開が進む一方で、空洞化して疲弊する日本の産業構造を予見したのでした。私の興味関心事が「途上国経済の発展」から「日本の空洞化への対処」に転換したのは、フィリピン・マニラに赴任していた2002年頃のことです。

また、商社マンとして、海外工場を任されている現地法人の社長や工場長と設備投資や工場経営に関する相談を進めるに際して、彼らから寄せられるお困りごとには経営にまつわる多面的な要素が数多くありました。自分は設備のことは分かるけれども、経営についてのソリューションは持ち合わせていないという機能限界に直面したのです。企業経営について改めて体系的に学びたいという知的欲求とその必要性が生じたのもこの頃でした。

日本に帰任後、マネジメントに関わり後輩人材も育ち、仕事に区切りがついていた2004年、生産性本部が経営コンサルタント塾を週末に開講していることを当時定期購読していた日経ビジネスの広告で知りました。仕事を続けながら学べる場として貴重な機会であると確信し、かくして、2期生として受講した当塾との出会いが「日本の空洞化への対処」へと舵を切り、経営を体系的に学ぶターニングポイント=人生の分岐点になったのでした。

画像1

受講を決断する頃の私にとっての生産性とは、すなわち機械加工のサイクルタイム短縮や寸法精度の安定、機械の高稼働率といった「設備」に関する指標であったのですが、付加価値労働生産性という、人と組織の「労働」に関してより重要な指標であることを、まず当塾の第一歩として学びました。それ以来、企業経営における人と組織のマネジメント領域こそが、企業経営の要諦であるとの認識に至り、最も重点的に学習し知見を広めました。

当塾修了後には個人事業主として、大手資格受験予備校が設立した社会保険労務士法人において人事制度設計や研修事業構築、地方自治体からの受託事業などの推進役を事業戦略コンサルタントとして担いました。また事務機器メンテナンス企業の販売会社立ち上げ支援をする経緯において、人事領域の専門性を高めました。これらの実績が評価されて、2006年4月に生産性本部と契約して協力経営コンサルタントに就任するに至りました。

当本部コンサルティング部ではチェンジインテグレーションセンターに所属し、大手重工業メーカーの「ものづくり革新プロジェクト」担当チームの一員として、品質問題の解消や人材育成プログラムのテキスト執筆などに従事。その後、経営コンサルタントになった理由である「日本の空洞化への対処」をライフワークとするべく、地元名古屋に拠点を移して顧客開拓するとともに、名古屋大学大学院で経営について学び直すこととしました。

名古屋大学大学院経済学研究科では、産業経営システム専攻でビジネスモデルとイノベーションをテーマに研究を進めました。「日本の空洞化への対処」として、疲弊する産業構造にはその基盤からイノベーション創出が必要であり、新たなビジネスモデルの構築が不可欠であるとの認識によります。修士論文は「大学・研究機関発ベンチャー企業の成長要因分析~イノベーション創出時における制約条件の解消に向けて~」と題して執筆しました。

2.公的支援の担い手として

名古屋大学大学院の恩師からアドバイスがあり、「日本の空洞化への対処」を具体的な仕事にできるポストとして、公的支援(産業振興分野)の担い手=コーディネーター職の公募があることを知り、公益財団法人岐阜県産業経済振興センターのものづくりコーディネーターに応募して2012年に就任しました。週二回の当番としての勤務でモノづくり企業に出張訪問して、直面する経営課題の相談や助成金申請のアドバイス等を行う仕事です。

その後、2014年度より中小企業庁の新たな予算事業である「中小企業・小規模事業者ワンストップ総合支援事業」として「よろず支援拠点」事業が始まり、当時の産業振興センター理事長よりチーフコーディネーター(代表職)に推薦する旨の通知を受け、応募して選任されるに至りました。それまでの公的支援制度の機能限界を突破するべく、専門性の高い人材を幅広い分野から集結させ、民間主導の意思決定で進める相談事業が特徴です。

従来の公的支援機関(商工会/商工会議所や県や市の産業振興センター等)は、中小企業庁による支援制度のサービスプロバイダーとしての役割を担い、その普及および利用促進に務めるミッションを担う存在です。一方で「よろず支援拠点」は中小企業に寄り添い、その経営課題を直視して経営者と共に課題解決に立ち向かうことを役割期待として担う、公設のコンサルティングファーム=ソリューションプロバイダーであることが社会的な使命です。

47都道府県にそれぞれ設置され、全国一律の仕組みの上意下達の導入ではなく、各地の産業構造や中小企業の実態に則した相談体制や人員配置を、代表者であるチーフコーディネーターの采配で構成し、日々寄せられる相談に対応する仕組みです。また、それまで中小企業と比較して小規模事業者を対象とした施策が手薄であったものを充実させ、外部環境の変化に脆弱な小規模事業者に救いの手を差し伸べる役割期待も寄せられた新規事業です。

画像2

全国のチーフコーディネーターの平均年齢は60歳、プロコンとして活動する若手チーフは少数派で、企業や金融機関、県庁職員のOB人材が主に登用されてスタートしました。岐阜県よろず支援拠点では、本来の公的支援機関はどうあるべきかを第一命題として、既存機関の従来サービスと重複をせず、相互補完的な役割と機能を果たすために(1)相談対応、(2)啓蒙啓発、(3)情報発信を3本の矢として事業を組み立てて推進しました。

(1)相談対応では、窓口に来てもらう来訪相談、企業の現場に伺う訪問相談、そして当本部コンサルティング部の無料経営診断を3大サービスメニューとして展開しました。(2)啓蒙啓発は、フォーラム(問題の提起)→セミナー(方策の提案)→ワークショップ(解決の着手)の3ステップで進めました。(3)情報発信としては、新聞・雑誌での記事掲載、テレビやラジオ番組での事例紹介などを通して知名度や信頼度の向上に努めました。

また、岐阜県の特徴としては、地方自治体(市役所、町役場)の商工部門と連携して相談窓口を各地に設置し、広域に渡り均一の支援サービス体制を構築してきたことが挙げられます。全ての市役所、町役場に声を掛け、積極的な取り組み姿勢を持って経営者の相談窓口を設置したいと考える自治体と手を組み、10市7町において相談対応する体制の整備を図りました。産業振興の観点から、地方創生の実践に着手してきたと自負しています。

こうした岐阜県の取り組みは、中小企業庁が平成27年度に実施した「よろず支援拠点コーディネーターの支援スキル・サービス品質UPプロジェクト調査」において、特徴的な取り組みをしており優れた成果を創出している拠点の一つとして、北海道、愛知県、広島県、福岡県、大分県とともに高い評価を受けました。県や国による産業振興の予算事業に計6年間に渡って従事し、「日本の空洞化への対処」について、やるべき事が見えました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?