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奈良・下市ー『歎異抄』を著した唯円終焉の地

 親鸞(1173-1263年)の言葉が書き留められている『歎異抄』。明治時代に入るまでほとんどの人の手に届くことはなかったとされている。しかし明治以降、『歎異抄』とともに人生を歩んだ人は多い。どれほどの人が『歎異抄』に心を支えてもらったのだろう。

 『歎異抄』の筆者は唯円(1222-1289年)。彼の人生は謎が多い。常陸国(茨城県)に生まれ、若い頃は非常な乱暴者であったようだ。親鸞と出会って弟子となり、共に上京する。親鸞が亡くなると、故郷に戻り唯円房道場を開く。今の報佛寺(水戸市河和田)である。

 晩年の唯円は再び故郷を離れた。そして大和国(奈良県)南部の下市(吉野郡下市町)に立興寺(りゅうこうじ)を建立、ここで生涯を終えた。

 2022年夏、下市を訪れた。高野山や吉野山と奈良盆地を結ぶ要所にあった。近鉄下市口から南に進み、吉野川を渡ると、山間の小さな集落が続く。立興寺は、町屋や蔵、造り酒屋など往時の賑わいを感じる道沿いにあった。

唯円さんのお墓。鎌倉時代からずっとここに。
お墓に刻まれている墓碑の説明。「正応(しょうおう)」2年は1289年。

 境内に入ると高齢のご住職が出迎えてくれた。唯円のお墓を訪ねたいと伝えると、案内してくださり、裏山を少し登って長い風雪に耐えた墓石の前に連れて行っていただいた。表面の文字はすり減って不明瞭だが「開基唯圓法師墓」とある。歴代住職名が刻まれた碑には23名が並んでいた。「唯」「円」の文字を用いた僧名が多い。先頭には「開基唯円」とあった。

 私を案内してくださったのは22代目住職であった。「唯円上人はこのお寺で『歎異抄』を書かれたと思う」と教えてくれた。『歎異抄』前文に「親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」とある。唯円は常に親鸞のそばに仕え、時に大胆な問いをした。そして晩年になり、心の中に留まっていた親鸞の言葉を思い出しながら文字に残した。おそらくは下市のここ立興寺で。

 

唯円のお墓が見続けてきた景色。

 唯円の墓がある山の斜面に立った。『歎異抄』はこの景色を見ながらかかれたのだろう。
 遠くに願行寺の大屋根が見えた。蓮如(1415-1499年)が開いた下市御坊である。1578年、信長の命を受けた筒井順慶に焼き払われたが、この地の布教拠点として再建され今に至る。浄土真宗がこの地に根付いたのはやはり唯円の存在が大きかったのだろう。

 その後、ご本堂に案内していただき、お念仏を唱えさせていただいた。そこでしばらくご住職のお話を伺っていると、仕事帰りの地域の人たちが、帰宅前にお寺に立ち寄って念仏を唱えていた。本堂の本棚には住職が長年集めた『歎異抄』関連の書物が並んでいた。毎年2月の唯円の命日法要では参列者全員で歎異抄を唱える。唯円がこの地に残した信仰が、時代を超えて今も受け継がれている風景は、一つの奇跡にも思えた。しかし、かつての日本は、このような光景が当然のように見られたのだろう。


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