坂本龍一 + 大友良英 ライヴ・セッション 「NO NUKES 2019」について思うこと。

Scott Walkerが逝去したことをtwitter上で知った。

僕の中で陰謀論がささやく。出来過ぎている。まさに今聴いている坂本龍一と大友良英のライブの中から、今にもScott Walkerの声が聞こえてきそうだ。



僕は趣味として音楽をずっと聴いているが、その趣味はどちらかといえば人から教えられたものだ。

中でもひとり特別な友人がいて、彼は僕にこう言った。

「音楽が難解かどうか、って、よくわからないんだよね」

要は、『耳に流れてくる音を気持ちいいと思うかどうかじゃない?』という、それはそれはシンプルな話なのだが、僕のリスニング人生にかなり影響を与えたものだ。

平均律、ブルーノート、コード、モード。僕は楽理に関してはさっぱりわからないと断言しておく。たとえばバークリー・メソッドを解説した『憂鬱と官能を教えた学校』なんかも非常に興味深いと思いつつ、ピアノの和音が出てきた時点で諦めた、というレベルだ。だから今回の記事は『人の身体は何を以て快感と感じるのか』といった話題を提供するものではない。

坂本龍一と大友良英のライブ映像を観て、その音を聴いて、僕は『カッコいい』と思った。まあ、それだけの話では、あるのだが。

せっかくなのでもう少しだけ話そう。僕はそもそもノイズが好きだ。正確には『ノイジーなもの』なのだが、単純に『不快なもの』としてのノイズ(この言葉は最近こういった用法で使われることが多くなった気がする)も意外と楽しめたりする。

『芸術に感情を動かされる』ことが好きだ。それは負の感情であっても。聴いていていらいらしたり、ムカついたり、つらくなったりするような体験も、『何も感じない』音楽ですら、たまに聴きたくなる。

それは現実逃避の延長線だ。聴いて不快になるような音楽に不快にされる体験、というのは、或いは虚無の音楽と向き合うことは、自らの好奇心に餌をやる、ことである。少なくとも僕にとって。

すでに良さを知っているものを、その類型を良いと言って満足してしまうほうが、我慢ならない。

嫌いな音楽を、僕はどうして嫌いなのか。好きに理由はいらないが(勿論あってもいいが)嫌いには理由が必要だ、これは僕の持論である。

そして、わからない、理解できない創作は、魅力的であり続ける。すでに書いたようにそれは、いつまでも僕の好奇心に餌をやってくれるからだ。そこに好みは関係ない。

話題を大幅にバックさせよう。坂本龍一と大友良英のステージ映像である。たとえばこれが、『あまちゃん』テーマ曲(別に『いだてん』でも『ロング・グッドバイ』でも『blue』でもなんでもいいが)と「Merry X'mas Mr. Lawrence」(これも別に「Energy Flow」だろうが『ラスト・エンペラー』だろうがなんでもいいが)をデュオで小粋にプレイして終了、というのでもそれはそれで面白かったとは思うし、求められていたのはそういったもの、だったろう。

だからこその完全即興、そこに痺れる憧れるといった感情があるかと言われるとそうでもない。僕としては、どっちでもいい。二人とも素晴らしい音楽家であり、何より多作であり、面白い音楽もつまらない音楽もたくさん奏でてきたことを、僕は(そのいくらかとはいえ)知っている、つもりだ。

きっと、『Plays Popular Movie Music』なコンセプトがあったとしても、そこにアヴァンは発露していたであろうし(一番わかりやすいのは大友良英による『ロング・グッドバイ』のテーマを聴いてみること、だと思う)、そもそも『ポップ』なものが芸術的に下であるだとか、即興をやったから偉いみたいな価値観は最早ギャグだろう。Jazz The New Chapterを引き合いに出すまでもなく、ビ・バップ時代のジャズ・メン達が奏でる即興フレーズには元ネタとなる音楽があったのではないか、なんてことまで研究されているような時代なのだから。

曲が曲としてそこに在るということ。逆に今こそ『なぜ即興なのか』問われるべき、なのかもしれない。

ただ、その解答があったとして僕は、どうでもいい、と思うだろう。子供のように嬉々としてエレキギターのノイズを探っていく坂本龍一の表情は純粋で、純粋であるということは、おそろしい。あくまで楽しそうに場内をノイズの海へと、即興演奏の波間へと誘う様に僕は感動を覚えた。そういう、本当に、それだけの話だ。

音楽はわからない。それを語る人もわからない。だからこそ、面白い。

あなたはどう?


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