ツタヤにて
または、(大げさに言うのならば)ものを知る、ということ。
ツタヤに用がなくなって久しい。本も、CDも、ビデオも、そこに欲しいと思うものが限りなく少なくなって、ほとんど必要がなくなってしまった。
僕は趣味人として、ツタヤに育てられた人間だと思う。もともと父がやや文化的な趣味であったとはいえ、ツタヤでCDやビデオを借りることで(サブカル的にとはいえ)賢くなり、学校には行けなくなってもツタヤにだけはずっと通っていた。
今で言うところのサブスクだったのだと思う。手に入るわけではないが物量があり、比較的安価で借りることができた。
サブスクと違うのは、もう少し、規模が小さかったということだろう。
すべての棚を自分で見て、気になるものを選び出すことができる範囲の物量。新譜、新作はすべてまとめられ、一度に把握できた。
また、少しばかりのキュレーションがあったというのも大きい。僕が10代の頃はラウドロックやミニシアターといった特集の棚があり、もう少しするとCDはマニアックな方へ、映画はシネフィル寄りの特集を打ち出したりもするようになった。
この、絶妙な、『選んでもらうことも選ぶこともできる』物量と距離感が僕の知識の基礎を形作った、のではないかと思う。
いま、それが出来ないとは言わない。サブスクや動画サービスのように形を変えても同じように、またそれ以上に豊かなサブカル人格を形成していくことは可能だと思う。
ただ、あまりに物量が多すぎて気後れするのかもしれないな、とは思う。
一番売れてる、何も探さなくても目に入るものと、まず検索窓に作品名を打ち込まなければ出てこない大量の作品群。
今の僕はどちらかといえばキュレーション側として、いい作品をいいので触れてくれという活動をしているが、そういった極端な状況の真ん中に立ちたいという思いもある。
それが、たとえ資本の用意した手のひらの上だったとしても、『自分で選んだ』と思えるような楽しさ、はもう少し手軽になっても良いのかもしれない。
僕にとってツタヤはそういう、選ぶ楽しさを教えてくれた店だったのかなと、いま振り返って思う。
また映画の一本も借りてこようかな。ネトフリじゃ観られないものもけっこうあるし。
投げ銭してくれると小躍りしてコンビニにコーヒーを飲みに行きます。