『カンウォンドのチカラ』からのホン・サンス論

 前回、現時点でホン・サンスの劇場公開最新作『逃げた女』と『あなた自身とあなたのこと』を採り上げました。今回はその『逃げた女』の公開記念として特集上映されている2作目の『カンウォンドのチカラ』について考察し、そこからホン・サンス論へと展開していきたいと思います。

※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。

 原作のある1作目の『豚が井戸に落ちた日』よりも、オリジナルの2作目である『カンウォンドのチカラ』が、ホン・サンスの実質的なデビュー作とみなされているのも宜なるかな、別れた後の男女の交わらない同じ時間を、女性側、男性側、と繰り返し描くだけの構造は、本作以降も踏襲されていくことになります。つまり、ホン・サンス映画の特徴として巷間伝えられる反復という構造は、既に2作目で完成の域に達しているというわけです。

『カンウォンドのチカラ』

 1作目からの飛躍が目覚ましいものだったとはいえ、そこには、後に完全に捨て去ることにはなるものの、いまだ普通に素晴らしいストーリーテリングが残っています。それが素晴らしいものならば、なぜ捨て去る必要があったのか訝しむむきもあるかもしれませんが、順を追ってその変遷を見ていきたいと思います。

 例えば、次のようなシーンがあります。大学講師のサングォン(ペク・チョンハク)が、後輩とホテル前でタクシーを待っています。

 やってきたタクシーに乗り込み、行き先(雪岳山)をドライバーに告げ、車が出たら、雪岳山にシーンがわりするのが普通の演出でしょう。

 しかし、ここでは違います。
 やってきたタクシーに近寄るサングォンは、予約車かと尋ねます。ドライバーは予約車とは違うが、サングォンから行き先(雪岳山)を聞き出し、乗車を促します。サングォンはやっぱり遠慮すると断る。後輩に予約した車を待たないとかわいそうだと言って去っていくタクシーを見送ります(ここまで1カット)。そして、雪岳山にシーンがわり。

 その後来たであろう予約したタクシーに、彼らが乗り込む画は省略されています。これは実にさりげないですが、さりげないだけに、これが出来るかどうかは大きい。ただ目的地に向かうだけのつなぎのシーンで、サングォンの人となりを垣間見ることができます。

 次に、サングォンが教授職を得るために、胸中で軽蔑しているキム教授を訪ねるシーンです。キム教授の自宅を辞した後、ふと立ち止まるサングォンが教授宅を振り返り、後ろ髪を引かれるようなそぶりを見せます。私たち観客は、彼の気が進まなかったことを知っていますから、この訪問で、何か大事なものを失ってしまったかのような彼の後悔をそこに読み取ってしまいます。
 しかし続くカットで、キム教授が自宅で、サングォンが忘れていったのであろう赤い傘を開いている画になり、彼は忘れ物に気がついただけだったのだと遡及してわかります。ただし、私たち観客は、そこに読み込んだ先ほどの解釈を捨てることはしません。これも演出として見事だとしか言いようがない。

 これら登場人物の心理、人となりを表現する巧みな描写は、この後なくなっていき、前回考察した『逃げた女』と『あなた自身とあなたのこと』のように、むしろ逆に、主人公の輪郭を曖昧にする描写へと変遷していきます。

 なぜでしょうか。

『赤ん坊の食事』とモリヌークス問題

 ここで唐突ですが、映画黎明期のエピソードを、ホン・サンス作品を考察する「補助線」として導入したいと思います。


『赤ん坊の食事』(Le Repas de bebe, by Louis Lumiere, 1895)というリュミエールの映画があります。現代の私たち観客から見れば、ただ、屋外で一組の夫婦が赤ん坊に食事を与えているだけの映画にすぎません。ですが、動く映像を初めて見た当時の観客は、(私たちにとっては)背景にすぎない、風に揺れる木々にこそ驚嘆し、心奪われたといいます(長谷正人の論考を参照)。 

 なぜでしょうか。

 人とは異なり、キャメラに主題と背景を切り分ける機能はありません。主題も背景も等しく同じ資格で映し出されます。そのキャメラの非中枢的な知覚を、当時の観客はそのまま享受してしまった。そのように理解することができます。

 このあたりの事情は、先天盲者が成長したのち手術を受け、視力を回復したら、一体どのように世界を認識するのかという問い——モリヌークス問題(Molyneux's Problem)——にも通じるのではないでしょうか。この問いには答えが出ていて、先天盲者が開眼直後に、ものの形を識別した例はないに等しいそうです。
 見ている像は私たちと同じでも、図が地から際立たない、いわば、キャメラと同じ非中枢的知覚です。
 物心ついたときから映像に取り囲まれている私たちにとって、初めて動く映像を見た当時の観客の驚きが想像しがたいのと同じように、物心ついたときには見えるのが当たり前だった私たち晴眼者にとって、開眼者の驚きはやはり想像しがたいものがあります。ただし、次のエピソードが、想像しがたい非中枢的知覚理解のヒントになるかも知れません。
 
 先天盲の子供が、母親に訊きました。
「見えるってどういうこと?」
「うんと遠くまでいっぺんに触れるようなものよ」

 全くその通りで、見えるということは「些細なものも重要なものも、近くのものも遠くのものも」つまりは、世界にいっぺんに触れるようなものです。そして、いっぺんに触れるのであれば、そのなかで何らかのものが一方的に際立つこともありません。
 母親の答えは、いみじくも器質的な眼の機能を完璧に言い当てているのですが、それは母親(晴眼者)の見え方とは異なります。母親=私たちは決してそのように世界を見ていません。
 言ってしまえば、映画黎明期の観客は、先天盲者が開眼直後に見る世界を垣間見てしまい、その直接的、触覚的世界に圧倒され、見たこともない「生の世界」に熱狂したのではないでしょうか。
 
 開眼した先天盲者が、晴眼者が当然としている中枢的知覚のフレームを学習しなければならないように、映画もまた、いかに背景を退かせ、観客に見せたいものを見せるか、その技術(ストーリーテリング)を発展させなければなりませんでした。
 そうして私たちは、『赤ん坊の食事』の風に揺れる木々を、背景に退けるリテラシーを持つに至るわけですが、果たして背景は本当にそれで退いたのでしょうか。
 そもそも映画を見ることは、いっぺんに世界に触れるかのような体験のことでした。私たちが背景を飼いならしたつもりでも、決して背景は退いたままではありません。ただ、私たちが気づいていないだけなのです。その映画の原初的なチカラに意識的な監督は、そのチカラを解き放とうと試みます。

 ホン・サンスの変遷をそのような文脈のもとに捉えてみましょう。すると先ほどの問いに答えることができそうです。
 心理を巧みに表現し、登場人物の輪郭を背景から際立たせること(『カンウォンドのチカラ』)ができるのにもかかわらず、その輪郭を曖昧にする方向(『逃げた女』『あなた自身とあなたのこと』)に舵を切ったのは、ホン・サンスが決して退いたままにならない背景に意識的だったから、そして、むしろその背景にこそ魅せられたからに他ありません。

 しばしば、ホン・サンスの映画の良さは言葉にするのが難しいと言われます。それは、風に揺れる木々の良さを、現代の観客に説明するのが難しいのと(先天盲者が開眼直後に見る世界を、晴眼者に説明するのが難しいのと)同根です。ですから、ただ男女が他愛もない話をしている(ただ木々が風に揺れている)だけなのに、なぜかいい、というような仕方でしか語れないのです。
 ただし、それだけでは能がないので、ゴダールやロメールなどの名前を出してきたり、ズームの特徴的な使用に言及してみたりするのですが、そう指摘してみせたところで隔靴掻痒の感は否めません。
『カンウォンドのチカラ』から本格的に始まった反復構造に関しても、そう指摘されるにとどまり、反復するからどうなのか、なぜ反復させるのか、という問いに答えてくれる論を、寡聞にして知りません。そこで僭越ながら、その反復の謎にも答えてみたいと思います。

同一性と差異

 反復することによって何が目指されているか。この問いに答えるためにも、まずは反復の一般的な効果について検討しておく必要があるでしょう。次の動画を見てください。

 ここではオリンピックを目指す我が子を見守る母親の姿が国を変えて、繰り返し描かれています。この反復が、母親のまなざしを際立てているのは誰の目にも明らかです。反復は、この反復の中で変わらないもの、即ち、同一性に注目せよと命じます。つまり「母の愛」という主題を背景から切り分けるために反復しているわけです。
 ちなみに、この作品が見事なのは、最後に「母親のまなざし」の反復から(そこまで奪われていた)「子供の見返し」の反復にスイッチするところです。この見返しがあるから報われるわけで、二匹目のドジョウを狙った第二弾以降は、そのスイッチがないので、ここまでの感動はありません。
 別の動画を見てみましょう。

 これも同じ反復構造ですね。仮に、サッカーの審判のパートだけで構成したとしましょう。それでもメッセージは伝わりますが、そのメッセージを汚す背景を排除しきれません。
 理不尽な文句を言われている描写というのは明らかなようですが、それを明らかにしているのは、あくまで反復なのです。単独では、そこまで明白な描写にはなりません。例えば、文句を言われる原因が彼自身にあるのかもしれないという可能性(ノイズ)を捨てきれないのです。そのようなノイズを消去し、主題の輪郭を際立たせるのが反復の効果というわけです。

 この動画では、高校時代と現在とで同じフォルムの動きが反復されています。ここで際立っているのは、同一性ではなく、その(現在と過去の)差異です。「戻りたくないけれど、ちょっと戻りたい」というノスタルジーの輪郭が、反復を重ねるにつれ際立っていきます。

 それが、同一性であろうと、差異であろうと、いずれかの輪郭が際立ち、背景は退くというのが、反復の一般的な効果です。
 では、ここまで確認してきた一般的な反復の使用と、ホン・サンスのそれは何が違うのでしょうか。
 反復が輪郭を際立たせるのであれば、すでに見てきたようにホン・サンスの目指すところ(輪郭を曖昧にすること、背景を退いたままにしないこと)とは、真逆のはずです。

反復するだけの構造

 ホン・サンスの扱う反復構造は、大きく二つに分けることができます。

1)(同じものが)反復することで、その差異が際立つ

 例えば、男女の記憶の違いを男側と女側で描く『オー!スジョン』(2000)、男2人が、それぞれ同じ人物とのエピソードをそうとは知らず語り合う『ハハハ』(2010)、同じ日を、間違えた日、正しい日と繰り返す『正しい日 間違えた日』(2015)などが典型的です。

 一般的な例であれば、先述したカロリーメイトのCMがそうですし、ホン・サンス以外の映画をあげるなら、例えば『カメラを止めるな!』(上田慎一郎)がわかりやすいでしょう。
 一般的な例はどれも、反復の結果、際立つ差異に、その作品の全重量をこめていると言っていいかと思います。つまり、そこにこそ言いたいことがある、というわけです。
『カメラを止めるな!』であれば、本編と舞台裏、1カット長回しと編集、不自然さとその回収(納得=自然)、これら際立つ差異=コントラストこそが面白みとなっています。

 しかしながら、ホン・サンス作品おいては、そうでありません。確かに差異らしきものが際立ちはしますが、その差異になんら重みがない、意味があるようには思えないのです。
『カンウォンドのチカラ』もそうです。別れた後の男女の交わらない同じ時間を、女性側、男性側と反復するのですが、そこで立ち上がった差異は意味ありげではあっても、決定的な輪郭に収まることはありません。

2)異なるものが似通うことで(同じものが)反復しているように見える=同一性の際立ち

 典型的なのは、映画内映画と現実が似通ってしまう『映画館の恋』(2005)でしょう。
『よく知りもしないくせに』(2009)では、主人公が2組の夫婦の元を訪ね、同じような展開になります。
『夜の浜辺でひとり』(2017)での、ハンブルグと韓国で、主人公がそれぞれ砂浜に男の絵を描き、片や謎の男に連れ去られ、片や夢に連れ去られるというのは、ややわかりにくい反復例かもしれません。
 このように、わかりやすさの差こそあれ、ホン・サンス作品のほとんどは、こちらのグループに属します。

 一般的な例であれば、先ほど採り上げたオリンピックと犬のCMがそうですし、映画で言えば、喪の仕事、葬送をテーマにした物語、例えば『息子の部屋』、『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』、『スタンド・バイ・ミー』などに典型的です。これらはどれも、親しい人の死を、異なるけれども似通うものに、(もう一度)別れを告げることで、乗り越えるという話型に収まります。(もう一度)反復すること=同一性を輪郭づけることに、その作品のメッセージ、全重量がこめられているのがわかります。

 ここでもホン・サンスの反復と、一般的な反復の違いは明らかです。前回記事の『逃げた女』と『あなた自身とあなたのこと』がそうであるように、ホン・サンスにあっては、何度反復しようが、その輪郭は曖昧になるばかりなのですから。
『カンウォンドのチカラ』で言えば、サングォンが家族で出かけようとして車が急に飛び出し、激昂するショットと、大学に書類を提出した帰り道、出てきた犬を恐る恐る避けて通るショットは、明らかに似ていて、そのフォルムを反復しているように見えるのですが、そうして際立つ(?)差異にしても、同一性にしても、見たまま以上の何かを指し示しているようには思えません(だからいいのですが)。

驚きと安心

 ホン・サンスにおいて反復は、ただ反復するだけ、それ以上でもそれ以下でもない、というのがもっともらしく思えます。であるなら、なぜホン・サンスは繰り返し、反復するだけの構造を採用するのでしょうか。

そして、「映画を作っているときも、私はひとつのラインを引いて、そこからピックアップしてきて、こういうものだと正当化するのではなくて、他にもいろいろなラインがあるかもしれないし、他にもいろいろな要素があるかもしれないということを感じながら映画を作っていますし、そういうものを感じてほしいです。」「でも、私たち人間はラインを引くことを避けることが、人間の性として出来ないみたいです。けれども、このラインでは不足かもしれない、このラインではピックアップできないものがあるかもしれない、という認識をすれば、そこからピックアップできないものはないかと探すことはできると思う。ラインを引くことは避けられないけども、ラインを引くことを相対化すれば、ラインを引くことによる抑圧を避けられるかもしれないし、私はそういう考え方が好きです。」と自身の映画制作に対する考えを語った。

『自由が丘で』公開記念 ホン・サンス 監督作品上映+特別講義

 ここで言及されている「ライン」を、輪郭=イメージとすれば、ここまでの論旨と整合すると思います。
 ホン・サンスは、輪郭=イメージが固定することを嫌います。なぜなら、輪郭=イメージが排除してしまう背景にこそ、むしろ映画の豊かさを認めているからです。
 だからと言って、輪郭=イメージを描かなければ全て解決という単純な話ではありません。そのような試みは、デタラメとされるか、あるいは、前衛芸術と呼ばれるでしょう。
「私たち人間は(輪郭の)ラインを引くことを避けることが、人間の性として出来ない」のであれば、輪郭のない(ように見える)前衛的なものであっても、観客から「訳のわからないもの」という輪郭を与えられ、結果、見向きもされなくなるだけです。
 人間の性として輪郭を与えることが避けられないのであれば、反復によって、同一性なり差異なりに輪郭を与え、ただし、その都度、輪郭は相対化することで曖昧にする。そうすれば、輪郭を際立たせることによる背景の抑圧を避けられるかもしれない。これが、ホン・サンスの考え方です。

 つまるところ、わたくしたちが映画を見るのは、驚きたいからです。ところが、同時に安心したいという気持ちもある。驚きというのは安心とは逆のものであり、こんなもの見たことがないというような不思議な世界に連れていかれることですが、同時に、不思議な世界というのがことによったらどこかの何かに似ているかもしれないと思わされるのが映画です。驚きと安心が巧みに塩梅されているのが映画なのだと思います。
 ところが、安心だけで映画を見る人、驚きだけで映画を見る人がいますが、驚きだけ求めるならブニュエルの『アンダルシアの犬』(1929)で十分なわけです。ところが映画の本質はそうではなく、驚きが安心であり安心が驚きであるような不思議な世界というものが、実はキャメラを通じて作られる映画というものの表象性を支えているのだと思います。

蓮實重彦『見るレッスン 映画史特別講義』

 輪郭=図に抑圧されない背景(蓮實のいう「細部が見せる一種の色気」「存在の気配」)を「驚き」とするなら、反復による同一性なり差異なりの際立ちは「安心」と言えるでしょう。『アンダルシアの犬』のように、驚きはするが「訳がわからないもの」として片付けられるのではなく、反復によって観客の安心を誘い、同時に相対化し輪郭を曖昧にすることで「存在の気配」を匂わせるわけです。(ただし、蓮實自身は「わたくしは不幸なことに、ホン・サンスという監督がどうしても好きになれません」と言っているのですが......)

Mise en abyme

 このようにしてホン・サンスは、わずか2作目にして反復するだけの構造を自家薬籠中のものとしたわけです。しかし、これもまた後に捨てさることになるのですが、まだそこには《ミザナビーム》という、同一性を際立てる(普通に効果的な)反復が残っていました。
《ミザナビーム》というのは、入れ子構造のことで、物語のミニチュアバージョンのようなものを、物語の中に嵌入する手法のことを言います。
『カンウォンドのチカラ』でいうと、《生きたまま埋められる金魚と、残された金魚》そして《死んだ女と、女を殺したかもしれない男》です。これらは〈ジスク(オ・ユノン)と、サングォン〉主人公2人の物語のミニチュアバージョン、《ミザナビーム》になっていて、2人の物語を反復し、その輪郭を際立たせます。
『気まぐれな唇』(2002)であれば、主人公が劇中で聞いた《回転門の昔話》がまさにそれで、〈映画〉もまたその話通りの展開で終わります。
『気まぐれな唇』がそのままなので、わかりやすいのですが、《ミザナビーム》を仕込んでおくと〈映画〉を終わらせることができるわけです。

 なぜでしょうか。

「安心」だからですね。同一性という輪郭がはっきりすることで、観客は「安心」します。実際に何も解決されていなくても、際立つもの以外を排除することが、何事かを解決したかのような気にさせるからです。
 ゆえに、シナリオに頼らない映画づくりをするホン・サンスにとって《ミザナビーム》は、いつでも物語を終わらせることのできる便利な手段だったのではないかと想像できます。

「初めの頃は、机に座ってシナリオを最後まで完成させるということもやっていたのですけども、そうやっていても、現場に行けば、そのシナリオを変えることはある訳です。映画を撮っていくにつれて、完成したシナリオというものがだんだん短くなり、現場でシナリオを変える部分が増え、最終的にはトリートメント(映画の全体的な構成や話のすじが書かれたもの)を捨てさって、その日、その日の分だけ書いて、現場で出来上がったこと、その瞬間のことを受け入れて、次を考えていくというふうになったのです」「それまではいろいろな制約があって、トリートメントを捨てさることはできなかったのですけど、『教授と〜』からは、どの場所で撮るかを決め、それから俳優を決めて、その俳優にこれだけの時間を下さいと言って、それから始めるという方式を取ることができるようになりました。」

『自由が丘で』公開記念 ホン・サンス 監督作品上映+特別講義

『女は男の未来だ』(2004)の冒頭、主人公の1人が雪の上に、後退しながら足跡をつけ、再び戻ってきて「こうすると向こうから来たように見えるだろう」と言い、もう1人が「実は往復したのに」と言う意味ありげなシーンがあります。これも《ミザナビーム》として機能するのではないかとも思うのですが、そうはなりません。意味ありげでありながら、意味はありませんでした(たぶん)。  

 これは、あくまでも推測にすぎないのですが、《ミザナビーム》にするつもりで仕込んでおいたものが、現場でシナリオが変わり《ミザナビーム》として機能しなくなったのではないでしょうか。そして《ミザナビーム》として機能しなくても、むしろこの方が面白いとホン・サンスが思ったとしたのなら、トリートメントすら要らなくなるのは必然の成り行きと言えます。

結論

 ホン・サンスの、意味ありげでありながら(たぶん)意味のない描写は、ただ意味のない描写(前衛)とは異なります。またそれは、意味のある描写(普通の映画)よりも自由で「驚き」に満ちています。
 そして、この観客を係留する「意味ありげ」の演出に、「反復するだけ」の構造が欠かせないということが、巷間言われる「酒呑んでグダグタ喋っているだけなのに、なぜかいい」の「なぜか」を支えているというわけです。

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