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ウディ・アレンと撮影監督〜カルロ・ディ・パルマ礼讃

 映画監督と撮影監督との関係とはどのようなものでしょうか。撮影監督の職域はどこまで及ぶのでしょうか。
 今回は、映画監督として50年以上のキャリアを誇るウディ・アレンを支えてきた錚々たる顔ぶれの撮影監督を比較考察してみようと思います。

芸能人格付けチェック

 その前に、そもそも撮影監督の比較などできるのでしょうか。
『芸能人格付けチェック』というバラエティ番組があります。もうなくなりましたが、以前は「演出」という出題がありました。同じ脚本、同じセット、同じキャスト、同じスタッフなど全ての条件を同じにして、プロが監督したものと、お笑い芸人が監督したものを比較し、どちらがプロの演出かを見極めるというクイズです。
 これが問題になってしまうという由々しき事態に気づいてかどうか、おそらく誰も手を挙げる監督がいなくなったのでしょう。2015年の北村龍平監督の回を最後に「演出」の出題はなくなりました。
 これの「撮影監督」版があれば、わかりやすい話です。もちろん(「演出」とは異なり)プロの撮影監督が撮影したものと、アマチュアが撮影したものとの比較では、そもそも問題になりようがありません。ただし、これがプロの撮影監督同士の比較だとすれば、どうでしょう。

 『E.T.』などスティーヴン・スピルバーグ作品の撮影監督、アレン・ダヴィオー、『去年マリエンバートで』などアラン・レネ作品の撮影監督、サッシャ・ヴィエルニ、『ドライビング Miss デイジー』などの撮影監督、ピーター・ジェームズ、『パリ、テキサス』などヴィム・ヴェンダース作品の撮影監督、ロビー・ミューラーらの、ワークショップという形をとってはいるものの、いわば「撮影監督」版格付けチェックと言っていい競演を見ることができます。

(以下、仕様で埋め込み動画の下部がトリミングされてしまうので、タイトル箇所をクリックし、YouTubeサイトに移動して見てください)

◯アレン・ダヴィオーとサッシャ・ヴィエルニ

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◯ロビー・ミューラーとピーター・ジェームズ

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ルック

 二つのスタジオに建てられたセットは、やや異なるものの、ほぼ同じ。二組が撮影するものも、やや異なるものの、ほぼ同じ(一方は第三のキャラクターがカット2で登場し、他方はシーン2で登場)です。
 面白いのはホリゾント(英語ではサイクロラマ)に対する4人の撮影監督の解釈の違い。アレン・ダヴィオーが言うように、デイシーンのエクステリアをスタジオでカラー撮影するのはもっとも難しい。デイシーンの空をホリゾントで表現しなければならないからです。
 そこでアレン・ダヴィオーは、75mmのレンズを使いホリゾントをなるべくボカし、ライティングで白に飛ばします。さらにプロミストフィルターを使用して、そのハイライトがフレアになるように逆光の空として画作りします。
 サッシャ・ヴィエルニは、カフェに対してキャメラをトラックアップさせることでホリゾントが極力映らないようにします。
 ピーター・ジェームズは、前景にナメものを配置してホリゾントを遮蔽します。
 一人、ロビー・ミューラーだけが、キーライトを逆目にとったアレン・ダヴィオーとは反対に、順光のキーライトを採用し、ホリゾントがブルーの青空となるようにライティングし、それが背景になることを厭いません。
 
 撮影監督による違いは、当然のことながらルック、この場合で言えば(ワークショップという性格上)ライティングに顕著ですが、注目したいのは、演出の範疇に属するであろうブロッキングの違いです。

ブロッキング

 まず、アレン・ダヴィオーとサッシャ・ヴィエルニの違いを見てみましょう。プランセカンス(ワンシーン・ワンカット)にこだわりをみせるサッシャ・ヴィエルニは、4人のなかで、もっとも演出にまで影響を及ぼしている撮影監督と言えるでしょう。日向にあったテーブルを日陰に移動するという脚本にない動きが付け加えられました。
 次に、ロビー・ミューラーとピーター・ジェームズ。どちらも男が電話をかけるためにカフェへと入っていくだけのシーンです。しかしながら、ロビー・ミューラーは、アレン・ダヴィオー同様、店に入る男をフォローしていきますが、ピーター・ジェームズは、手前に女を捉えたまま、カフェの窓越しに電話をする男を見せます。

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 キャメラが女性に寄り添うのと、男性に寄り添うのとでは、全く意味合いが異なります。
 第三のキャラクターが登場するシーン2ではピーター・ジェームズが女性を頂点とするトライアングルの構図とするのに対し、ロビー・ミューラーは第三のキャラクターを頂点(ピボット)にして、しかも全ての人物を裏(背後)で捉えます。

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 このシーン2に関して言えば、(デイシーンのシーン1とは異なり)ルックの違いがもたらす印象の差というよりも、(キャメラの移動も含む)ブロッキングの違いがもたらす意味合いの差が画然としています。

ウディ・アレンの歴代撮影監督

Lester Shorr Take The Money And Run (1969)
Andrew M Costikyan Bananas (1970)
David M Walsh Everything You Always Wanted To Know About Sex (1972), Sleeper (1974) – 2 films 
Ghislain Cloquet Love And Death (1975)
Gordon Willis Annie Hall (1977) to The Purple Rose Of Cairo (1985) – 8 films
Carlo Di Palma Hannah And Her Sisters (1986) to September (1987), Alice (1990) to Deconstructing Harry (1997) – 12 films
Sven Nykvist Another Woman (1988), Crimes And Misdemeanors (1989), Celebrity (1998) – 3 films (plus New York Stories, 1989)
Zhao Fei Sweet And Lowdown (1999) to The Curse Of The Jade Scorpion (2001) – 3 films 
Wedigo von Schultzendorff 
Hollywood Ending (2002) – 1 film
Darius Khondji Anything Else (2003), Midnight In Paris (2011), To Rome With Love (2012), Magic In The Moonlight (2014), Irrational Man (2015) – 5 films
Vilmos Zsigmond Melinda And Melinda (2004), Cassandra’s Dream (2007), You Will Meet A Tall Dark Stranger (2010) – 3 films
Remi Adefarasin Match Point (2005), Scoop (2006) – 2 films
Javier Aguirresarobe Vicky Cristina Barcelona (2008), Blue Jasmine (2013) – 2 films
Harris Savides Whatever Works (2009) – 1 film
Vittorio Storaro Café Society (2016) to Rifkin’s Festival (2020) – 4 films

 この錚々たる顔ぶれの撮影監督を、前段で挙げたルックとブロッキングで腑分けしていきましょう。

ヴィットリオ・ストラーロ(ルック)

 まずは、ルックです。ここでウディ・アレン映画でありながら強烈な個性をみせ、突出しているのはヴィットリオ・ストラーロ。
『カフェ・ソサエティ』ではまだ抑えめでしたが、『女と男の観覧車』からはやりたい放題といった感じです。その場に正当化しようのない光源からスポットで当たるゴールデンアンバーのハイライト(例えば、上映中の映画館なのに、なぜか差し込む夕陽?:下)。このような人工的なルックはかつてのウディ・アレン映画にはありませんでした。

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 さて、ストラーロを除けば、そこまでわかりやすい違いはありません。もちろん、ゴードン・ウィリスによるB&Wとその引き画の構図の美しさというものはありますし、後期であれば、ダリウス・コンジによる作品群がその系列だと言っていいでしょう。ロンドンというロケーションが寄与するところ大だとしても、レミ・アデファラシンによる2作品のトーンは、ちょいといい感じです。
 このように構図、トーン、ライティングなどの細かな違いに優劣をつけて、やっぱりゴードン・ウィリスの画は違う、などと放言するのは映画ファンの楽しみではあるのですが、ここで問おうとしている映画監督と撮影監督の関係性は、むしろ高名な撮影監督らが(ストラーロを除き)、ウディ・アレンの元ではルックが似通ってしまうこと、もちろんそれが高い水準でなされていることにこそ垣間見ることができるのではないでしょうか。
(ウディ・アレンの撮影監督ではありませんが)ロジャー・ディーキンスは次のように言います。

Freddie Francis said there is good cinematography and bad cinematography, and then there's the cinematography that's right for the movie. I often feel that if reviewers don't mention your work, it's probably better than if they do.

「良い撮影と悪い撮影と、そして映画にとって正しい撮影がある、とフレディ・フランシスが言っていた。観客が撮影について何も言及しなかったなら、良い撮影だったと言われるより、良い撮影だったのだと思う」

カルロ・ディ・パルマ(ブロッキング)

 前回の記事でブロッキング(ステージング)を勉強するには、映画をB&Wにし無音にして見るのが一番だと言うスティーブン・ソダーバーグの言葉を紹介しました。ある意味、会話劇でしかないウディ・アレンの映画を、B&W、しかも、無音で見れば、(ルックにおいて唯一、ストラーロ撮影作品が突出していたのと同じように)ブロッキングにおいて唯一、カルロ・ディ・パルマ撮影作品が突出していることに気づくと思います。他の撮影監督に比べ、キャメラ、キャラクター、そしてその背景が圧倒的によく動くからです。
 彼らの最初の作品『ハンナとその姉妹』から見てみましょう。三姉妹がテーブルを囲み話こむシーンで、3ショット、2ショット、1ショットにして切り返しでは退屈だと言う監督にカルロが提案してみせたのが(のちにクエンティン・タランティーノが『レザボア・ドックス』でまねたものの方が有名になってしまいましたが)これです。

 このシーンに典型的なように、カルロのキャメラはショットの中でアングルを変えていき、それが180°あるいはそれ以上に達することも間々あります。編集によって異なるアングルを繋げ、立体的に空間を構築するのではなく、ブロッキングによってアングルを変えていき空間を立体的に見せる。異なるアングルを繋げるのは編集ではなく、キャメラワーク(ブロッキング)なのです。これがウディ・アレンの演出と相性がよかったことは想像に難くありません。
 彼の映画は、基本、会話劇ですから、会話をさせながら、どのようにキャラクターを動かすかが演出の肝になります。例えば、神経症的なキャラクターが薬(安定剤?)を部屋から部屋へ探し求めながら会話するというのは、ウディ・アレン映画の定番です。この場合の薬は方便でしかありません。

 そのとき、どこにキャメラを配するか。

 カルロの場合、キャメラはキャラクターの動線の近くに配され、結果、そのすぐ側を通り抜けるキャラクターは180°に近いパンで捉えられることになります。動きがダイナミックに捉えられる一方で、背景が大きく変化するため、構図は崩れる傾向にあります。
 ゴードン・ウィリスに代表される他の撮影監督の場合、キャメラはキャラクターの動線から遠く配されることが多くなります。動線からキャメラが離れれば離れるほど、パンの角度は小さくて済むわけですから、結果、アングルの変化は乏しくなります。あるいは、動線を縦位置に、動線の始点あるいは終点近くにキャメラを配置する。そうすれば動きに合わせてパンする必要はないわけです。パンが少ないと、背景の変化もなく、構図は安定します。

『僕のニューヨークライフ』は、当初カルロ・ディ・パルマが再登板する予定でロケハンまで参加していたものの、健康上の理由から降板し、(ウディ・アレンとのコンビは初の)ダリウス・コンジがその後を継ぎました。つまり、ウディ・アレンは、カルロの撮影を想定して準備していたということです。
 面白いのは、舞台となるアパートメントの捉え方です。のちの『人生万歳』『恋のロンドン狂想曲』でも似たようなことをやっていますが、カップルの住む部屋に彼女の母親が転がり込みます。
 そこで、アパートの部屋から部屋へキャラクターたちのてんやわんやが描かれるわけですが、その動線とキャメラの距離感がダリウス・コンジだと、ちょいと遠い。つまり、パン角度がさほど大きくないので、構図としてキマってはいますが、その分、てんやわんやのニュアンスは薄れてしまっている印象を受けます。
 その後もダリウス・コンジとの関係は続くので、ウディ・アレンの評価は高かったのでしょう。しかし、ダリウス・コンジとの続く4作品でこのようなブロッキングは全くなくなります。そのことからも、ウディ・アレンが撮影監督に合わせてブロッキングを変えていることが推察できます。

ルックとブロッキング

 ここまでルックとブロッキングを別にして述べてきました。しかし、4人の撮影監督によるワークショップを思い出してみれば、どうホリゾントを処理するか、というルックの問題が、どうキャメラを配置するか、というブロッキングの問題に直結していたように、本来、切り分けて考えることはできません。改めて、ワークショップにおける4人の撮影監督のファーストカットを、そのパン角度に注目して比較してみましょう。

 人物の動線をキャメラに対し縦にして、全く左右にパンしていないのは、サッシャ・ヴィエルニでした。
 ピーター・ジェームズは、人物の動線からキャメラを遠く配置しているので、そのパン角度は最小限に抑えられています。
 アレン・ダヴィオーのキャメラは、人物にトラックアップ(縦)していき、ホリゾントの影響がなくなってから、カフェに入る動きにつけて少しパンされます。
 そして一人、ロビー・ミューラーだけが、ルックではなくブロッキングを優先させ、ホリゾントをバックに移動しながらパンしていきます。当然のことながら、4人の中で最もパン角度が大きい。

 ここでは、ルックとパン角度がトレードオフの関係になっているのがわかると思います。お世辞にも、ロビー・ミューラーのライティングが成功しているとは言えません。ホリゾントのこと、ルックを考えれば、他の3人のアプローチが順当でしょう。ただし、立体的な空間の構築ができているかと言えば、どれもロビー・ミューラーのそれに及ばない気がします。だからと言って、ブロッキングを優先すべきだ、というのではもちろんありません。バランスなのです。ことほど左様に、ルックとブロッキングは分かち難い。
 その関係性は、撮影監督と映画監督の関係性に似ています。ルックはブロッキングを左右し、ブロッキングはルックを左右します。映画監督がブロッキングを左右し、撮影監督もブロッキングを左右します。このような入れ子状の関係性が撮影監督と映画監督にはあるのではないでしょうか。

アリス

 ウディ・アレンとカルロ・ディ・パルマは計12本の映画でコンビを組んでいますが、世評の低さに反し、個人的に2人の最高到達点だと思うのが『アリス』です。

 予告編ではその凄さが全く窺い知れないのが残念ですが、本当に凄い。86年の『ハンナとその姉妹』87年の『ラジオデイズ』『セプテンバー』の後、スヴェン・ニクヴィストとの2本の小休止があって、90年の『アリス』です。それ以降2人の最後の作品『地球は女で回ってる』まで、ウディ・アレンは、決してカルロを離しませんでした。
 この2人の関係は、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーとミヒャエル・バルハウスの関係を彷彿させます。なぜなら、この2人も、この2人の関係の中だけで獲得されたスタイルがあるからです。
 マーティン・スコセッシと組んだときのミヒャエル・バルハウスには決してないスタイル、ミケランジェロ・アントニオーニと組んだときのカルロ・ディ・パルマには決してないスタイル。このようなスタイルが映画監督と撮影監督との関係を物語るのだと思います。

I don't think I have a style. I hope, I have a style that suits the project that I'm on.                                       Roger Deakins

「自分のスタイルを持っているとは思わない。願わくば、自分が取り組むプロジェクトにあったスタイルが持てればいいだけだ」
                       ロジャー・ディーキンス


 
 


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