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正解でなければ不正解なのか


そりゃそうでしょ、っていう話なんですけれどもね。
正解でなければ不正解なのか、って。

そりゃそうでしょ、って。

だけど正解っていうものが
どのような問いに対しての
誰の出した正解なのか、

世間一般でいう正解と
自分の信じたものの正解に
整合性が取れるのかという事は
二の次に置いてでも

自分が腹の底から納得して出した
答えであるかどうかが
何よりも正しいのだと思う。

そして、そうやって
自分なりに出した正解が
盛大に大間違いであったのだとしたら

それは、その正解を出したからこそ
得られる新たな正解が
フワリとやってくるのだと思う。

自力でやりきって、だめだったと
突っ伏したところにしか
降ってこない正解ってあると思う。

だから、自分なりに
これが正解だと思う、と
出し続けることが大切なんだと思う。

今の自分は、言動や信念と
一致した生き方なのかどうか。

そもそも自分の信念とは何なのかを
知ろうとしているのか。

その時その時で
「これがわたしです。」っていう答えが
自分という生き様との答え合わせでいくと
正解なんだと思う。

自分は何に生きて何に死ぬのか。

周りからどう思われそうだとか
嫌われてしまいそうだとか
馬鹿にされそうだとか
そんなものに取り合っている暇なんてない。

しょうがない。
人からどう思われても、もう仕方がない。

自分はどう思うのか。どう生きたいのか。

何を信じるのか。

叶ってほしいけれど、
それが叶わなさそうならば信じないのならば
それは信じるという気持ちというより
決断ができていないんだと思う。

決めて、断つ、ってことですよね。
決断って。

信じるということに似た
願う、ということは
望んでることが叶わなさそうだから
願うという起点から始まる想いなのだから 

それは信じるというよりも
想いが浮遊している感じがしませんか。

信じる、といういうことは
現状がどうであろうが
お構いなく信じ続けるという事なんだと思う。

そうやって信じ続けて生きる姿を見て
人は愚か者だと言ったり
素晴らしい、と言ったり
受け取り方はその人次第で。


人がどう思うかどうかなんてことは、
それは自分のどうにかできる 
領分ではないから
その辺のことって本当にどうでもいいんだと思う。

その辺を無視していれば
能動的に生きられるのなら
無視したら良いし

許しを経て、動けるようになるのならば
許していけば良いし

憎むことによって
たとえネガティブであっても
自分が動けるのであれば
そのまま動いてみたら良いと思う。

お利口になって、やりこなすことが
正解ではないから。

未熟なままで動いてみて
違ったな、と思ったらやり直していけば良い。

自分の段階が未熟がゆえの答えが
稚拙であるから、答えを出さないとか
自分を隠すとか

自分で自分に嘘をついて
立派になろうとすることって
どんどん恐れを増幅させて
自分を雁字搦めにしていく。

自分が思ったことをやる、という事が
できなくなっていく。

嘘をついているから。
信じられないから。
自分を。

自信がなくなる。動けなくなる。


この夏の体調不良で
散々だったんですけれど

それって、夏の暑さにやられたとか
忙しくし過ぎたとか思っていたけれど

ここまで書き連ねたことを
ぜーーーーーーんぶ
やっちゃってたんですよね。

自分を出すのではなくて
自分をしまいこんで、何者かになろうとしてた感。

正解がわからないまま
間違えないように、と
消極的になり、雁字搦めになり…

どんどん自分が擦り減っていき
自分の感じたままに動くということが
できなくなっていたんだと思うんです。

疲れたな、と思っても
「こんなんで疲れたとか言ってちゃいけない」
とか

この付き合い嫌だな、と思っても
「これを乗り越えなくちゃいけない」
と、頑張り過ぎたり。

もちろん、そうやって頑張ったことで
糧となったことは
たくさんあったのですが

結局は、恐れていることが
起きてしまったら嫌だから
頑張って乗り越えようと対処した生き方では
どうにもならないことがあるって
辿り着いたのが現地点です。

もう、自分を出して生きるしか無いんだ…と。


幸い、もう以前のように
ひどい落ち込みとかどうしようもなくなるような
事には至らなかったので

それがかえって、今となれば
「わたし、前とは違うなぁ…」
なんて気がつくことができて
逆に自信にもなったりもしましたが。

自分がズレてるなー、って
気付けるのが早くなった。

ズレたまま生きるのが
しんどいってことなんですよね。

ズレたら潔くズレを認めて
軌道修正してまたやり直す、ってことは
執着している時にはとても難しい。

ズレていたと認めることって
決して悪いことじゃないのにね。


自分が叶えたいことがあって
そのために動いていたことがあり
自分としては新たな挑戦だったのですが
その内訳を見ていくと

起きてほしくないことがあって、
それが起こらないようにするには
これをしたほうがいい、という
紡ぎ方をした願望だったんですよね。

やりたい、じゃなくて
やったほうがいい、みたいな。

損してでもやりたい、ではなくて
このこの先損したくないからやってみる、
って感じですね。


だから、自分の状態というものを
ある程度無視してでも
やらなくては…と頑張るわけですが

しんどい。

苦しい。

重たい。

でも、そのしんどさも苦しさも
本当に望んだことをする為の辛さであれば
どこかで喜びに変わるはずなんです。

だって、今の仕事をやる上で
しんどいことや苦しいこともある。
そうだもん。

合気道だって通うのに往復2時間かけて
ヘトヘトになったりするけれど
そうだもん。

会いたい人に会いにいったり
やりたいことがあって
時間とかやりくりするのって大変だけど、
自分をすり減らしたりすることではないし。


苦しくてもやりたい、って
望んだとしても
それは「恐れを避けるため」なのか
「喜びを得たい」のか
見分ける目や、直感を信じることって本当に大切。

いや、喜びを得たいっていうか
望んでいる希望によって
動かされているかどうか、ってことなんですよね。

あー、やらなきゃ…って
重たい身体を動かすようなことならば
それってもうほぼ
自分を無視してでもやらなきゃいけない
恐れによって動かされている。

で、そうやって動いてきてしまった
今夏の残債のようなものが、まだあるんですよ今。

だけど、きのう一日は
そういうの一旦脇に置いちゃって
ただただ楽しんじゃおう〜って
過ごせたら、リフレッシュできたんです。


ずっと見てみたかった景色を一度見てみたかった。
天界に咲く花とされる、一面の曼珠沙華。

歩きたかった。
楽しいから雨に降られても何も苦にならなかった。

ぬかるんだ道も、それも良しな心境になっていて。

今朝は泥まみれになった靴を洗って、
また真っ白になったそれを見て
そういうことなんだな、と思いました。

思いがそこにあればできる。
頑張らなくても歩かせてくれる。

やらなきゃいけないことなんて
自分が自分であること以外にない。














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