T・J・クラーク「芸術創造の諸条件」

今年4月、美術史とその方法論にかんする査読付きオープンアクセス・ジャーナル『Selva』が静かに立ち上がりました。これを機に、創刊号に再掲載されている、T・J・クラークがみずからの「芸術の社会史」の立場から美術史という学問の再編を迫ったマニフェスト的論文「芸術創造の諸条件」(T. J. Clark, “The Conditions of Artistic Creation,” <https://selvajournal.org/article/tj-clark-conditions-of-artistic-creation/>, first published in Times Literary Supplement, 24 May 1974, pp. 561–2)の全訳を公開します。 

本来なら解題を述べておきたいところですが、すでに優れた解説があるので、ここでは日本語で読める参考文献をあげるにとどめます。 

・クラークの方法論の優れた解説としては、田中正之「美術史を読む T. J. クラーク、絵画とイデオロギー」(『美術手帖』、美術出版社、1996年3月、120–139頁)。 

・日本語で読めるクラークの論文としては、「共和暦二年の絵画(上・下)」(松岡新一郎訳『批評空間』、太田出版、1995年10月、146-171頁、1996年1月、232-250頁)、「グレメント・グリーンバーグの芸術理論」(上田高弘訳『批評空間 モダニズムのハード・コア』、太田出版、1995年、101–121頁)。 

ただ、ひとつだけ本論の要点を述べておくと、クラークは「創造主」としての芸術家という観念を批判の俎上に載せることで、タイトルに掲げられている「芸術創造の諸条件」ではなく、「芸術生産の諸条件」を問おうとします。創造を生産と言い換えることは、とりもなおさず、芸術作品が社会的な構築物であるということを意味します。そうである以上、作品にはさまざまなレヴェル——文化的、社会的、政治的、経済的、等々——で「イデオロギー」が入り込んでいるのであって、そこでは、複数のコンテクストに潜む諸々のイデオロギーを明らかにし、その網目のなかに作品を位置づけることが重要になってきます。つまり、作品——ここでは生産物と呼ぶほうが適切でしょう——が、なんらかの特定のイデオロギーを「反映」していると素朴にみなすのではないということ、作品とはひとつのイメージ、ひとつのイデオロギーに還元されるものでけっしてはないということ、むしろ、矛盾した様相を呈しさえするということです(クラークは本論でイデオロギーを複数形で用いることを強調しています)。クラークの議論の要諦はここにあると言えるでしょう。 

もうひとつ付け加えておけば、本論文では、十分な作品分析がなされているわけではないので、実践編として、「共和暦二年の絵画 Painting in The Year Two」——絵画がきわめて政治的であった時代に描かれた、ジャック=ルイ・ダヴィッドの《マラーの死》をとりあげた論文——を読むことをおすすめします。

リンク切れだったURLを更新し、また訳文の一部に訂正を加えました(2023.7.31)。


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芸術創造の諸条件
                                   T・J・クラーク

 美術史は危機に瀕している、そう述べることからはじめてもよいが、だがそれではあまりにも大袈裟に響くだろう。息も絶え絶えで、お高くとまりながらも崩壊のさなかにある——このほうがより適切な診断かもしれない。いずれにせよ、それがどんなかたちで下されようと、おそらく最初に尋ねられる問いはごくありふれた診断——お決まりの非難、お決まりの侮蔑的な笑み——であろう。すなわち、美術史の問題がなぜ重要であるべきなのか、と。いかなる根拠において美術史の問題を真摯に受け止めるよう誰かに要求しうるのか。
 その問いに答えるには、かつて美術史とは何であったのかを想起させねばならない。ルカーチの1922年の偉大な論文『物象化とプロレタリアートの意識』からの一節があるが、これはわたしの頭から離れないものであり、ある異質な時間を喚起するであろうものだ。

しかし、リーグルやディルタイ、ドボルシャックのような19世紀の真に重要な美術史家たちが見過ごさなかったように、歴史の本質とはまさしく、いかなる瞬間においても人間の環境との相互作用の焦点であると同時に、内的生と外的生双方の物質的本性をも決定づける構造的諸形態によって被ったさまざまな変化のうちに存するのである。だが、このことがようやく客観化可能なものとなる(したがって、ようやく適切に把握することができるようになる)のは、ある時代ないしある歴史的な人物等々の個別性、独自性がこれらの構造的諸形態の特性のなかに基礎づけられるときなのであり、それがそれら諸形態のなかで、それら諸形態を通じて発見され示されるときなのである。

この一節はいくつかの理由でわたしの心に取り憑いている。第一に、それは、美術史家たちが再検討を心がけるであろう、歴史にかかわる困難で肥沃なテーゼを提起している——むろん、それは議論の途中に差し挟まれており、わたしは都合よく利用するために提示してはいない。単純に「19世紀の真に重要な美術史家たち」という興味深い語句に目を向ければ、挙げられている例には、引用されている3人の名前のうち美術史家がふたり含まれているのだ。リーグルやドボルシャックが真の歴史家であり、根源的問題——意識の諸問題、「表象」の本性——に挑んだとき、それはどんな時代だったのか。そしてルカーチは1922年、自身の周囲を見渡し、まさに起こっている、未解決の、激しい、そしてしばしば苦々しい論争について触れていたのかもしれない。
 名前の点呼——ヴァールブルク、ヴェルフリン、パノフスキー、ザスクル、シュロッサー——は、たしかに重要ではない。それよりも、この時期の最良の美術史を読みながらわれわれが感じるのは、重大で避けては通れない問題とは何かについて、主人公たちのあいだである合意がなされているということだ。それは、もっとも詳細な研究、ほとんど数人の人にしかわからない発見が、時間を巻き戻し、ふたたび芸術生産の本性全体にかんする議論の領域へと連れ戻す方法である。芸術創造の諸条件とは何か(そもそも、そのような「創造」という言葉は正当なのか。われわれはその言葉を生産や意味作用という概念と置き換えるべきなのか)。芸術家の資源とは何か、われわれが芸術家の素材について語るとき、何を言わんとしているのか——それは第一に技法的資源の問題なのか、あるいは絵画的伝統の問題なのか、それとも着想のレパートリーや着想にかたちを与える手段の問題なのか。あきらかに——いまや通念となっている使い勝手のよい回答だが——三つすべてがそうだ。だが、それらのあいだにヒエラルキーはあるのか、ある「素材」が他の素材の用途を決定づけるのか、そのようなヒエラルキーは固定化されるのか。
 これらの問いは現在、美術史によって棄却されているように思われる。そしておそらくわれわれは、そうした諸問題を提起することを可能にしたものとはそもそも何なのか、それらを濃密な特定の証拠に求めることを可能にしたものとは何なのかを求めるべきなのだ。そして、その問題がなぜ死んだのかをも。進行中の議論のなかでなぜ、戯画化された特定の提言、すなわち奇跡的に「方法論」——形式分析、「イコノグラフィー」——へと転じた議論が残りつづけているのか。われわれはこれらの問いに過去を神聖視することで答えるつもりはない。それはわたしがもっともしたくないことだ。偉大な世代の昔話——麗しきヴェルフリン、リーグルと彼の絨毯等々——にどんなにうんざりしていることか。わたしはそのような幻想を増やしたくはないのであって、われわれが大いに必要とする唯一のものとは、英雄時代における論題の考古学、すなわち前提と忠節を暴きだす批判的歴史学なのだ。だが、にもかかわらず、当時の美術史を支えた思考の種類を再評価することが必要である。
 ひとつには、実のところこれだけだ。すなわち、論述方法、思考の慣習である。パノフスキーの1925年に刊行された『象徴形式としての遠近法』からこの例を挙げよう。彼はここで遠近法の両義性、つまり、視覚的な世界を客観的で測定可能なものにするが、しかしその世界をもっとも主観的な参照点に、単一の全能の眼に依拠させる方法について語っている。

遠近法は視空間を〔…〕数学化するものであるが、しかしそれが数学化しているのは、いぜんとして視空間なのだ。また、遠近法はひとつの秩序づけではあるが、しかしそれは視覚的現れの秩序づけなのだ。そして、結局のところ遠近法に対する非難は、それが「真の存在」を見られた事物の現れにすると咎めるにせよ、それともそれが自由でいわば精神的な形体直感を見られた事物の現れに拘束するにせよ、強調の置き方の問題にすぎないのである。現象的なものの領域における、このような芸術家の主体の位置を通して、遠近法的な見方は、芸術作品それ自体が奇蹟を引き起こす〔…〕魔術の領域を宗教美術に閉ざしてしまうが、しかしそれは、奇蹟的なものが鑑賞者の直接的な経験となる〔…〕幻視の領域を〔…〕宗教美術に開示するのである。

これこそが弁証法的思考であり、弁証法の強度——探求の領野を開示し、ある問題を投げかけることを可能にするちから——をすべて備えている。また、パノフスキーの論文には同様の言説の方法が満ちている——不便なほどにである。すなわち、彼が、中世における空間的イリュージョンの否定が「真に近代的な空間の見方の条件」であると主張しているにせよ、なぜ革新がしばしば先の達成の放棄と、プリミティズムや後退や転倒と結びつけられるのかと訝しんでいるにせよ、「だからこそわれわれは、ドナテッロがアルノルフォの追随者たちの色あせた古典主義からではなく、ゴシック・リヴァイヴァルへと向かう明白な傾向から登場していると考えるのである」。
 現在の美術史の上流社会において、このような思考方法——ヘーゲル主義的慣習、すなわち、パノフスキーを飛躍させた若かりし頃の諸鍛錬——は蔑まれている。一方わたしは、それら諸鍛錬が彼の思考法を存続させたものであり、それらの不在——遠近法にかんする退屈な学術文献の追跡における——は、諸問題の喪失を、諸問題の次元の喪失を生み出すものだと考える。昨今、おかしなことに、右派と左派の反動主義者たちが彼らの決め手となる例として提示するのが、きまってこの戯画化されたヘーゲル、すなわち、浅薄な観念主義者としてのヘーゲル、キリスト教徒としてのヘーゲル、「特定のものへの愛と労苦」なきヘーゲルなのだ。美術史においては——わたしはほかの分野でもそう考えるのだが——まさにヘーゲルの遺産こそ、われわれが我がものとしなければならないものであり、すなわち、使用し、批判し、再定式化しなければならないものなのだ。なにはともあれ、われわれには大規模な翻訳作業が必要だろう。わたしが仕事用に複写したリーグルの『末期ローマの美術工芸』が、不幸にも抄訳されたイタリア語版であるのはどのような状況なのか。ドボルシャックやヴァールブルク、ブルクハルトさえも、美術史家の役割においていまだに彼らの母語内に閉ざされているのはなぜなのか。スノッブ性と怠慢が理由ではないかとわたしは疑っている。そして、当該のテクスト群に対するもっともな恐怖も。
 これまでわたしはあえて過去について話してきた。だが、むろん、いかにして過去が消え去ったのかが、問題だ。いかにしてそうした問題が、そうしたパラダイムが、姿を消したのか。
 多くの答えがあるが、それらのうちのいくつかは、ある種の潔癖さをもって避けるつもりである。わたしは、美術史がいかにして、アート・マーケットのしもべとなり、ディーラーのために年代確認をするようになり、裕福なコレクターのために来歴提供をするようになったのかを議論しようと提起しているのではない——もっともわたしはあきらかな愚行や、それがもたらした露骨な腐敗に包囲されているのだが。カート・フォースターはどこかで、美術史がいかにして、お下がりの趣味の観念、秩序と良き生活のための媒体と化し、Bildungsbürgertum(文化的な社会)にとっての「埋め合わせの歴史」と化したのかについて書いていた(わたしがその瞬間をかみしめたのは、いまから数年前、占拠された大学の建物の階段で、副学長の妻が1冊の有名な美術史の本を膝のうえに置きながらキャンプスツールに腰掛けているところを写真に撮られたときのことだ。それは彼女の抵抗の一環であり、彼女は熱心な地方紙に「ミリタンティズムに抵抗し文明を支持する」と語った)。
 いわば、外在的な問題——重要だがよろしくない問題——が存在するわけだ。とすれば、まるで美術史はさほど刺激を必要とはしなかったかのようであり、崩壊する用意が整っていたかのようである。イコノグラフィーは評判の悪い例だが、つまり、ある世代においてイコノグラフィーは、伝統とその諸形式にかかわる議論、芸術家があるイデオロギーと邂逅する諸条件をめぐる議論から漠然とした主題探しへと身を落としてしまったのだ——〈高貴なる野蛮人〉の絵の多くを、数多の古めかしい溶鉱炉のなかに投げ込みながら。そしてそれは、もっともわかりやすい一般的な腐敗の例にすぎない。
 なぜか。すでに示唆したように、パラダイム問題を提起した語句には、革新する能力がなかったからだ。われわれは、まったく異なるかたちで問題を提起する方法を発見しなければならない。そこで芸術の社会史——わたしの要旨、わたしの「専門性」——の出番である。そろそろあきらかなはずだが、わたしは論題の愉快な多様化の一環としての芸術の社会史には関心がなく、そのほかの多様性——フォーマリズム、「モダニズム」、フロイト派の精神分析 sub-Freudian、映画、フェミニズム、「ラディカル」——と一緒にみなされたくはない。それらはみな性急に新しさを追い求めている。多様化とは崩壊の間違いである。そして、われわれが必要とするのは、その対極にあるもの、すなわち、このような命取りの共存、従来の議論への接近手段ではなく、専門分野への専念であり、議論の可能性である。これこそが、芸術の社会史が企てなければならないものなのだ。そこでは、問題が投げかけられねばならず、だが従来の方法では投げかけられないのである。
 それは一見容易いようにみえるが、たんに新たな立場をとることによってなされるわけではない。なるほど、従来の美術史の問題は、ある信念、問題を投げかける余地のないある前提を中心に成り立っていた。すなわち、その前提とは、〈芸術家〉、つまりは作品の「創造主」としての芸術家という観念であり、形態感覚や空間感覚といった既存の感覚という観念であり、神や神々の被造物としての世界という観念である——そこにおいて作品とは「表現」すべきものだった。これらの信念は論題をむしばみ、問題を解答へと変えてしまい、たとえば、いかなる芸術生産の歴史も問題外として排除した(『ドイツ・イデオロギー』におけるラファエロと分業にかんする——作品としての芸術の歴史全体の概要を示す——偉大なパラグラフは、マスクス主義者と反マルクス主義者から同様に黙殺された)。そして、いうまでもなく、その信念——まったくの俗流形而上学——とは、今日の美術史が維持しつづけている一切のものであり、リーグルやパノフスキーが行った実際の仕事は、彼らが用いた概念の性質に反して無視されている。
 この状況から抜け出すには、理論と実践の作業が必要であるように思われる。われわれには事実——パトロネージ、美術取引、芸術家の地位、芸術生産の構造についての——が必要だが、しかし、素材についてどんな問いを投げかけるべきなのかを知る必要がある。われわれは新たな概念一式を移入し、存続させつづけ、作品の方法論へと組みあげる必要があるのだ。わたしが言わんとしている問題の種類を手短に述べておこう。
 第一の種類の問題は、芸術作品とそのイデオロギーとの関係にかかわっている。わたしが諸イデオロギー ideologies (わたしにとってこの概念は永久に複数系であるように思われる、たとえあらゆるイデオロギーは相互に影響しあい、同様の機能を共有しているとしても)によって言わんとしているのは、さまざまな社会階級が相互に対立しつつも、それら特有の歴史を「自然化」しようとする、信念、イメージ、価値、表象の技法といった一連のもののことである。いかなるイデオロギーも、生産手段とのまったく特殊な、かつ議論の余地のある関係に対して、不可避の性質、人間本性の座を要求する。諸イデオロギーは、所与の歴史的状況という現実の制約と矛盾をみずからの素材とするが——そのように考えなければならないし、さもなければ、それらはどのような内容を有するのだろうか、また何のために存在するのだろうか——しかし、それらは抑圧を一般化し、矛盾が解決されたとみなしてしまうのだ。
 芸術作品はそうしたイデオロギーの素材とのまったく特殊な関係のうちに存在する。イデオロギーとは、どんな絵なのか、またどんな絵でないのかなのだ(「様式」とはイデオロギーの形式であり、そのことは様式史の必要性とその限界を示していると言えるだろう)。イデオロギーとは、夢の作業をともわない夢の内容なのである。また、作品それ自体——芸術生産の手段と素材——がイデオロギーの領域の内部で決定され、またその内部に固定され、イデオロギー上の前提によって広く普及するとしても、だからといって作品が制作されるという事実は重要である。なぜなら作品とは、ある種の技法的諸手続きと伝統的諸形式を利用し、それらを、イデオロギーを変更する——書き換え、再呈示 represent する——ための道具にするからだ。これは鎮痛剤となりえるし、実例となりえる。すなわち、われわれはイデオロギーの複製物に包囲されているが、しかし作品のプロセスが、ある瞬間、あるイデオロギーが判断されうる空間をつくりだすということである。イデオロギーの素材を、手近な技法的素材に適した諸形式や諸規則へともっとも強くもっとも完璧に「合致」させる仕事は、こうしたイデオロギーの素材の構成要素——通常、自然さのベールの下に隠されている、分離可能な歴史的構成要素——を明らかにするプロセスでもあるのだ。そうした仕事は、それら構成要素を検査し、それらの土台を吟味する手段なのである。
 わたしにとってある種の試金石である——あきらかに、ある種の卓越性をもつばかりか、この種のプロセスがもっとも激しく捉え難くもある——フェルメールをとりあげよう。フェルメールの作品は、いかなるイデオロギーも本来一貫性を欠くという事実を利用しているように思われる。すなわち、イデオロギーを構成する諸部分はまさに調和せず、それによる拡張的な一般化は、人々が取り扱う既存のもののなかのいかなるひとつのイメージとも、いかなる緻密なもの(緻密さそれ自体はつねに部分的であり、つねにイデオロギーからつくられる)ともまったく共存しえない、ということだ。フェルメールにおいてわれわれが注目するのは、イデオロギーがわれわれに調和していると信じさせたいところの、ふたつの異なる室内装飾(インテリア)とのあいだの調和、すなわち、禁欲的な部屋やきらびやかな部屋の空間や調度品と、ある特有の眼差しやある特有の精神生活の空間や調度品とのあいだの調和が、微妙に——非常に微妙だが——欠けていることである。
 あるいはさらにまた、われわれの関心を引き留めるのは、一方ではこのような絵の光景が問題とはならず、(最新の補助器具の助けを借りて)制御されており、他方ではさらに詳しく観ると、その光景が、ありそうもないこと、奇妙さ、焦点の喪失、おぼろげな親密さ、空間における判読しにくい変化といったものの織物であると感じることだ。ここでは光それ自体は、ほかのどこにも存在しないものとして、中性的で言いようのないものとしてわれわれに示されているが、にもかかわらず、まさしく光はこれらの部屋のなかへの侵入を許されており、まさしくその明瞭さは光が可能にした技法的達成——傷のないガラス、整えられた装飾——としてわれわれに提示されているのだ。
 これは説明の序の口である。わたしはその不足を十分承知している。だが、わたしはそれを、われわれが扱っている種類の関係性——作品とイデオロギーの接触とはまさしく、どのような問題なのだろうか、だがどのように逐一説明しうるのだろうか——の事例として提示する。
 芸術の社会史が属するもうひとつの種類の問題を述べる余裕は、ほとんど残されていない。その問題とはこれである。すなわち、ある特殊な事例における芸術生産の諸条件と諸関係とはいったい何だったのか。なぜこれら特定のイデオロギーの素材が使用され、ほかのものが使用されないのか。作品とイデオロギーのこのような特定の邂逅を決定づけるものとは何なのか。もとよりこれらの問題をもうひとつの種類の問題と呼んださい、わたしはいかなる厳密な区別も含意するつもりはなかった。それどころか、それらの問題は、わたしが説明してきたそのほかの問題と切り離すことはできない。すなわち、極言すれば、ある問題を、ほかの問題にまったく触れることなく投げかけることはできないということだ。たとえば、わたしは、この種の問題を投げかけることなく作品のイデオロギーをまさに特定しえるとは考えない。
 それらの問題はわれわれをどこへ導くのか。すなわち、問題となっている労働者の階級アイデンティティの厳密な説明へと向かわせるのであり、そして、このような階級アイデンティティがどのようにして特定のイデオロギーの素材を利用し、ほかの素材を隠蔽するのか、またどのようにしてある素材を使えるものにし、ほかの素材を、それがひどく顕著であり同化しにくいものであるがゆえに、まったく扱いにくいものにするのかの説明へと向かわせるのである。そして、いかにして作品が公共的なかたちを帯びるのか——そのパトロンは何を欲するのか、その観客は何を受けとるのかについての説明へと。そうしたことを発見するためにわれわれが探さねばならないのは、作品の無言の占有(アプロプリエーション)であり、それはしばしば、批評家の言説の欄外に、ディーラーの記録に、絵が人手から人手へとわたるさいの題名の変形の原因にその痕跡を残している。
 これらすべての問題はイデオロギー以前の領域へと連れ戻す。すなわち、それらの問題は、イデオロギーがどの素材からつくられ、またどの素材からつくられないのかを示しているのであり、それらの問題がわれわれに喚起させるのは、ある特殊なイデオロギーの「例」という考えが無意味であるということだ——不安定であり、絶えず変化しつづけ、遍在するが、しかしどこにもなく、あらゆるものを利用しながらも何も変えず、交互に内容となり形式となることは、イデオロギーの本質に属するのである。とはいえ、同種の理由で、これは個別の議論でなければならない。わたしは、イデオロギーへの接近は不完全なものだと考える——そして、ある芸術家の生産にかんするわれわれの説明において重要なのは、終わりはないということだ。階級への「可能な意識」——ある種のマルクス主義美術史にとって大切な観念——の完璧な描写をわれわれに与える「代表的」芸術家という観念は、幻想であるように思われる(こうした事実に対する絶え間ぬ意識こそ、ヴァルター・ベンヤミンのボードレール論やサルトルの『フローベールにおける階級意識』を、彼らの「科学的」対抗者たちの大多数よりもはるかに有益なものにするのだ)。
 この点にかんしてわれわれが検討しているのは、ある種の「主体性」——完全な虚偽、全面的な否定し難さ——が構成され、かたちを与えられた条件である。むろん、これほどイデオロギー的扱いを受けやすい話題はないが、ここでこそ古びた諸概念が、際立った、魅力ある、有望な、謎を解く鍵となって一斉に蘇るのだ。だが、それが適切になされえるのならば、イデオロギーがどのように作動するのかについて、それ以上の問い質しなどできないだろう。
 結局のところ、それが美術史の野心の領域なのだ。いや、そうであったし、そうあるべきなのである。


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