それどころじゃなかった教育の話

私は今、通信制高校の教員として働いています。その中で感じたことを綴りたいと思います。人を馬鹿にしたような発言が含まれているかもしれません。そのように感じた方には申し訳ありません。しかし、この問題は大変なことだと真剣に思っており、何とかしたいと思ったので綴らせていただきます。

私は大学生の時、こう思ってました。

「どんな子にも、勉強の楽しさは伝わる!!」

夢と希望に満ち溢れていました。そして、教採には落ちたものの、ご縁があって今の高校で働かせていただくことになりました。

この学校の特徴は、不登校で全日制の学校にいけなかったり、全日制の高校で留年が確定してしたため転校してきた生徒が多いことです。もちろん、ほかの事情で転校してくる生徒もいるのですが、ほとんどが不登校・学力不振です。

そのような生徒が多い中では、私の「どんな子にも~…」という信念を現実にすることができる大きなチャンスです。「よし!やるぞ!」と思っていました。

でも、それどころじゃなかったのです。

基礎知識がなさすぎて、勉強の面白いところまでいけないのです。「(歴史の授業にて)自分だったらどうする?なんでもいいから自分の考えをプリントにかいてね」と発問しても、”自分の考え”ってなに?という感じ。そして「(日常によくある出来事が記された例文を参考にして)過去に同じような経験したことや、例文以外にも自分によくある出来事を思い出してプリントに書いてみよう」という作業には自分の過去のことが思い出せない様子の生徒もいました。

勉強=暗記・苦手・我慢するもの

という方程式がこびりついていて、とにかく嫌がる。「考えることも嫌」むしろ「”考える”ってなに?わからない」といった感じ。”考える”ことこそ、醍醐味なのに、全身全霊で「やりたくない」と声なき声で叫んだり、時には本当に叫びだして、学校を出ていく生徒もいる。

そんなに嫌がらなくてもいいじゃないか。こっちは必死で君たちの学校生活が有意義になるようにしているのに…と思っていました(今でもたまに思う)

でも、よく考えるとこの学校に通う生徒は、「学校に登校する」時点で素晴らしいことなのです。不登校、引きこもりの子どもたちなのだから。そして、勉強以前に、もっと解決すべき根本的な課題が多すぎて、まずはそれを解決しなければならない。と感じたのです。

ではその問題は学校で解決できるのかと聞かれると、私は今の学校システムだと無理だと思う。

「ああしなさい」「こうしなさい」「これしちゃだめ」など、上からの指示が絶対的なのが学校だから。

もちろん、ある程度の指示に従ってもらわないと崩壊するし、生徒が社会に出てから困ることになる。ただ、生徒と先生が対等の立場で話し合える場・時間というのはとても大切なのではないかと思う。

そのためには、生徒がある程度、自分の考えを持つということが必要だと思います。でも小さなころから上からの指示を待ち続け、考える能力がなくなってしまっている。そして、大人側にも「子どもの意見を対等に受け止める」器量が必要だと思います。でもどうしても自身の経験から自分の考えを押し付けようとする。

確かに、世の中では国際バカロレアなどの探究を中心とした先進的な教育の取り組みがひろまっています。

でもそれは、そもそもすでに考える力がついている人がどんどん考える力を伸ばそうとしているだけなような気がします。

今のままでは、教育格差は広がるだけ。

漠然と、そんな気がしています。

そして、今の多くの学校に大人と子どもが対等に向かいあう空間がないのであれば、対等になれる第三の居場所が必要だと思っています。

「そんなの、みんな思っていることだよ!何今更言ってんの?」

と言われる気がします。でも、現実は、第三の居場所がないのです。早急にいろんなところで必要なのに、全然ない。見つけられた子はラッキー。こうしている間にも格差は広まり、固まっていく子どもたちは多いのに。

もしかしたら、私が知らないだけで、世の中にはたくさん第三の居場所があるのかもしれません。ではその空間を子どもたちにどのように知らせるのか、参加させるのか。これには学校の協力も必要ではないでしょうか。

世の中の苦しい想いをしている、あるいは自分でも気づいていないけれど苦しんでいる子どもたちは、勉強とか、それどころではなかったのです。