ポスト・トゥルースのあとを生きる自分たちは。

ポスト・トゥルースのあとを生きる自分たちは、どこへ向かうのだろうか。

今から1年半ほど前にリリースされた『FANTASY CLUB』は、昨年もっともよく聴いたアルバムだった。2曲目の「SHOPPINGMALL」に集約されるようなそのヒンヤリとした温度、なにが嘘か本当かわからない社会への違和感、考えれば考えるほど、深い海の底へ沈んでいきそうなやるせなさ(同曲は個人的に昨年のベストトラックだった)。

ただ、そこに、信じる対象(「向き合う」のほうが意味合いとしては正しいのかもしれない)として、変わらず存在している音楽。ひとにぎりの勇気を心にたずさえて、また歩き出す。晴れた日には、街へ出よう。そんな真っ暗の中から一筋の光を見出し、「わからない」と言いながらも、外を眺めるのをやめない姿勢と態度に、心ゆさぶられる作品だった。

先日公開された某原稿にもまさしくそのとおりだなと感銘を受ける記述があったのだが、なぜ自分や自分たちが「tofubeats」という音楽家にこんなに惹かれ続けているかというと、もちろん大前提にその音楽がすごく好きだというのもあるだが、彼の音楽を聴くと、彼が自分の信ずるもの(音楽)を通じて、社会や自分自身との対話を、ずっと繰り返しているのが伝わってくるからだと思う。

加えて自分の場合は、「この人は同い年なんだよな」という未だに信じられない共通項があり、同世代の人間による「ロマン」と「リアリズム」の葛藤(とどのつまりそれって、「毎日」だし「人生」なのかもしれない)を現在進行形で追体験しているような感覚がある。そんでもって、彼の音楽を媒介にして、自分自身にとっての「ロマン」と「リアリズム」も省みている気がする。なんとも都合のいい解釈なんだけど。

本作『RUN』は、前作『FANTASY CLUB』に比べると、全体的に受ける印象こそは一見明るくも思えるが、よく耳を澄ますと、前作よりもさらに深い絶望を経過したのであろうことが伺える。

でも、すごいなと思うのは、先行配信されていた『RUN』を聴いたときに強く感じた、やるせなさを通過した「怒り」という要素で作品自体が塗り固められるのではなく、しっかりと「ポップス」として落としている(落とした)ことだ。社会との蝶番が、きちんと用意されている。

個人的には、8曲目『NEWTOWN』からラスト曲『ふめつのこころ - SLOWDOWN』へと向かっていく構成と流れ、その楽曲群に通っている体温がすごく好きだった。同時に、こういった成分を持つ音楽(表現)を、商業音楽の産業に身を置きながら、内部から流通させている事実にあらためて感銘を受ける。

ポスト・トゥルースのあとを生きる自分たちは、どこへ向かうのだろうか。1年半前に問いをもらって以降、答えは未だに見つかっていない。未だに社会は「わからない」ことばかりだし、「なにかあるようでなにもない」出来事には相も変わらず遭遇する。で、そういう自分も日々、「なにかあるようでなにもない」に加担しているのかもしれない。やるせない。

でも、少なくとも、だ。少なくとも、だれかが定義する「どこへ向かうのか」が重要なのではなく、結局は自分が、「どこへ向かいたいか」「どうしたいか」に尽きることが、ようやくわかった。うかうかしてる間に時間だけが過ぎたし、怒りもやるせなさも情けなさも通過した今はもう、ただただもう、「走るのみ」なのだ。

本作『RUN』を聴きながら、そんなことを思った。んで、何周かぐるぐると地団駄を踏みまくった結果、「走るのみ」に行き着いた僕らは、これから先に果てなく続く走る道で、おんなじように「走るのみ」で走っている人に、出会ったりもするんじゃないか。そのとき目が合ったら、照れ笑いでもしつつ、お互いの健闘を祈ろう。

tofubeats さん、関係者のみなさん、いつもすばらしい音楽をありがとうございます。発売おめでとうございます。

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