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一揆の作法が潰えたあと

百姓一揆や打ちこわしといった民衆運動は、かつては人民闘争史観のなかで理解され、領主階級の打倒を目標とした革命闘争として把握された。

しかしその後、これらの運動は既存の体制を前提とした問題解決を指向しており、領主と百姓の間には契約と合意が見いだされることがわかってきた。それに基づいた実際の一揆は作法を遵守し、要求が達成されれば終結した。

一方で江戸後期以降、経済不安に対して領主権力は有効な対策を打ち出すことができず、百姓からの権力に対する恩頼感が低下した結果、一揆にも作法の逸脱が見られはじめる。

本稿では関東を中心に、江戸後期に入って従来の一揆から様相を一変した民衆運動、そして討幕を図って戦われた草莽運動の諸相を、イデオロギーや精神の面から概観したい。

0.仁政イデオロギーと百姓一揆

幕藩制が成立して間もない時期に遡ると、大名の領国支配は、軍役負担に応えるための年貢増徴、給人の収奪・搾取、地主農民による小農民の隷属的支配などの構造的矛盾をはらんでいた。その結果として走百姓や逃散は一般的なものとなり、寛永14年(1637年)の島原・天草一揆に代表されるような暴力的な蜂起がしばしばあらわれる。しかもこれに追い討ちをかけるように、寛永年間末には全国的な飢饉に見舞われ、幕府や大名は対応に追われることとなった。

この過程で、初期幕藩制改革と総称される政策転換が見られる。宮澤誠一は、幕藩制的「委任」および「御救」というふたつの概念を提唱し、これらが幕藩制におけるイデオロギーを構成する二大支柱であると考えた。幕府から領主への「委任」と、領主から農民への「御救」は、これらの初期改革を通じて社会化されてゆくのである*¹。

こうして日本近世社会には領主と百姓との間に「仁政イデオロギー」が形成され、その後江戸中期を通じて介在したという論説が、1970年代に宮澤や深谷克己らによって提起された*²。

このイデオロギーを端的に説明すれば、領主は百姓が経営を維持(成立)できるように仁政を行う責任を持っており、百姓はそれに対して律儀にはたらき年貢皆済をもって応えなくてはならない、という観念である。百姓と領主の間における、ある種の合意ともいうべき存在であった。

仁政イデオロギーは、ある面では領主が民衆の支配を正当化するための思想装置であり、歴史家たちからも批判的に言及された一方で、民衆にとっては領主に対して仁政を要求し、苛斂誅求に際しては一揆を起こすという行為に大義名分を与える存在となった。深谷は、一揆を起こした農民の認識に着目し、当時の訴状などから「公儀御百姓」という自己規定を指摘した。農民は公儀に認められた御百姓という存在であるという自己認識を元に、仁政を求めて訴願や一揆を起こすことができるのである*³。

仁政イデオロギーは17世紀を通して形成されたとされる。若尾政希は、『太平記』の解題書ないしは副読本である『太平記評判秘伝理尽鈔』に描かれた、理想的仁政家としての楠木正成像が人口に膾炙した影響を指摘している。同書の中の正成は「智仁勇の三徳」を兼ね備えた秀逸な政治家であり、下々の民の声によく耳を傾け、善政を施す。百姓一揆を記録するために各地で編まれた「百姓一揆物語」は、これの影響を色濃く残して類型化しており、『理尽鈔』における正成評に拠って領主を批評し、仁政を敷いていないために一揆が起こるのであるとして非難するものが多い*⁴。

このようなイデオロギーの中にあって、江戸期の百姓はみずからの権利が保障されていないと感じるとき、領主に対し要求を掲げて行動を起こした。ただ、いきなりやみくもな手段に出ることはなく、まずは合法的な訴願によって領主権力に掛け合った。しかしそこで要求した内容がどうしても認められない場合、しばしば非合法な手段に訴えることになった。この非合法的手段を、近代以降の用語で百姓一揆と呼称している。

ひとくちに一揆と称えてもそのタイプはさまざまで、それぞれの研究者たちによって百姓一揆と呼び習わされてきた行動の範囲は不統一であるため、語義が曖昧模糊としている(それを指摘したうえで保坂智は、徒党・強訴・逃散の3類型を提唱している)。

注意すべきことには、一揆に至ったとしても、その行動は一般に後世「竹槍蓆旗」という代名詞で語られるような著しい暴力性をおびたものではなかった。

実際に百姓たちが一揆の折に手にしていたのは、第一に鋤や鍬などの農具、第二に斧や鉞といった大工道具であり、蓑笠を着用した。持ち物と衣装によって、かれらはあくまで農民=守られるべき存在であることを視覚的にアピールしていたのである。竹槍や鉄砲は登場するものの、前者は言ってみればどの農家にでもある棒を一揆に際してとがらせたものであり、後者はもっぱら音を出して合図するために使用された。

そして一揆契状では、飲酒・放火・盗みの禁止など、行動規範を明らかにして統率を図ったのである*⁵。一揆に見られるこれらの特徴こそが、仁政イデオロギーのあらわれであるといえる。

こうした百姓一揆の作法は、江戸後期にいたって動揺し崩壊するが、その契機はなんであったか? ここでは須田努の見方をベースに辿っていく。

1.社会不安と打ちこわし

1-1.「私慾」の横行

須田努は、江戸後期における民衆蜂起の暴力化の「予兆」として、18世紀後半に関東で展開された2つの騒動を挙げている。ひとつは明和元年(1764年)から翌年正月にかけての中山道伝馬騒動である。この年、幕府は中山道の交通量増加を理由として沿道の村々の増助郷を決定した。中山道沿いの農民たちはこれに激しく反発して、信州・上州から南下し、武州の人びとと合流して児玉郡に結集したのち、本庄、深谷、熊谷など各宿や村々を襲撃して参加強制をおこないつつ、強訴を目的として江戸をめざした。

ややあって事態の深刻さを把握した老中・松平武元は、関東郡代らに一揆鎮撫を命じ、また江戸を取りまく諸門・河川の通行を警備させたが、関東郡代・伊奈忠宥は一揆勢の要求どおりに増助郷の免除を申し渡し、事態はひとまず沈静化した。

ところが一揆勢は反転し、増助郷を幕府に出願した在村有力者たちに対する打ちこわしという行動に出、騒動は武州を中心に下野・常陸両国にも波及していく。参加者は20万に達したともいわれる*⁶。

須田は、増助郷出願者たる「助郷ブローカー」に注目している。そもそも、百姓にとって負担の増加に直結するはずの増助郷を幕府に嘆願したのは、百姓のなかの富裕層であった。須田は次のように推測する。

増助郷が正式に決定すれば、従来の助郷役負担の村よりさらに遠距離の村までもその範囲に含まれる。これらの村々の増助郷も代銭納となるが、その際、出願人たちが差配を行い、村高一〇〇石につき金六両二分を代銭納させ、この金で宿場近在から人足や馬を安く雇い入れ、代銭納分と人馬雇賃との差額で儲けよう、というのが出願人たちの思惑であった。

須田 2010, pp. 10–11.

また一般的に、打ちこわしの後にはその暴力の対象となった商家や有力者が、経済活動の強引さを幕府や領主から咎められて罰せられることがあるが、伝馬騒動の場合は「助郷ブローカー」たちに対する処罰が見られなかった。須田は、老中の松平が「助郷ブローカー」たちから賄賂を受け取っていたことが発覚するのを恐れたためにこのような幕切れになったのではないかと推測し、この状態を「私慾の連鎖」と評している。

伝馬騒動とならんで注目される広域闘争が、天明元年(1781年)の上州絹一揆である。

上州西部の絹織物生産地域では、18世紀から絹生産者→地元商人=仲買商→江戸呉服店という絹製品の流通ラインが形成されていた。しかし、百姓出身の新興商人たちがこの仲買商に取って代わり、絹糸改会所(絹糸貫目改所とも)を設けて検査料を徴収することで一手に富を掌握しようと試みた。新興商人側はこの計画を実行に移すべく、たびたび訴願をおこなったが、幕府がこれの可否を村々に問うたところ広く反対されたので、棄却されていた*⁷。

しかし、絹糸改会所から幕府に対して運上金を上納するという条件が幕府の財政上の思惑を刺激し、1781年に許可をとりつけた。危惧を抱いた百姓たちは結集すると、絹糸改会所設立の出願者や賛同者の居宅を打ちこわし、さらにその設立を決定した老中首座・松平輝高の居城である高崎城へせまるなど、騒動は広域化した。

これらの騒動から、須田は18世紀後半における民衆と幕藩領主との間の関係の変化を見出している。

1-2. 田沼政治と天明の飢饉

18世紀は、商品経済拡大の時期でもあった。この基盤を築いたのは、安永元年(1772年)に老中に昇進して幕府の実権をにぎった田沼意次である。

田沼時代に先立つ徳川吉宗による享保の改革は、年貢増徴や新田開発といった従来の手法で幕府財政を立て直そうとした。しかしそれらの政策の実現は農民の負担に依存し、幕領でも一揆が多発した。田沼は、それまでとは違った手法による財政再建を求められた。そこで採用したのが、民間の経済力の利活用に重点を置いた重商主義であった。

田沼が打ち出した、利益を上げることを第一とした方針によって、経済は変革を迎えた。しかし、「あまりにもさまざまに、あるいは細々と利益を追い求め」*⁸ るというあくどいやり方を奨励したことに起因して、倫理や作法の無視がひろがり、賄賂や汚職が横行した。これは前節にみる「私慾」の問題を連想させる。

田沼政治を受け、江戸地廻りでは特産物生産が拡大して流通が活性化したが、その経済圏を外れた地域は貧困化し、荒廃した。こうして貧富の差がひろがるなか、1780年代に天明の飢饉が発生する。江戸の米価が高騰し、社会不安が高まるなか、幕府は有効な政策を打ち出すことができず、天明7年(1787年)には大規模な打ちこわしが発生した。ただし、打ちこわしに参加した江戸貧民は「田沼意次の関係者には徹底的に制裁を加えるべきである、というコンセンサス」*⁹ のもと、冷静に規律を遵守して行動していた。

江戸市中の打ちこわしを経験したことで、次いで老中に就任した松平定信の政策意識は江戸へ集中することになる。その結果、地方への関心は失われ、主要な街道や水路を外れた村々は荒廃し、商品作物の産地でも経済格差が増大した。地方の安定を無視するという方法からは、先述のように深谷が提唱した「公儀御百姓」のような公儀の概念が揺らぎ、幕府が「公」から「私」へシフトしている様子が見られることを須田は指摘している*¹⁰。

2. 作法の崩壊と「世直し」

2-1. 甲州騒動

百姓一揆の作法の逸脱について、関東におけるひとつの契機は、天保7年(1836年)の甲州騒動に求められる。当時は天保の飢饉が深刻化し、全国的に一揆や打ちこわしが頻発していたが、甲州郡内地方における米の要求に始まった一連の騒動はとくに世間の耳目を聳動した。

もともと山に囲まれて水田にとぼしい郡内地方の米は、国中地方からの移入に頼っており、天保の飢饉に直面して米不足に悩まされた。郡内地方を管轄する石和代官所は手を打たず、小野村(現・都留市)を例にみると、天保7年11月から同9年4月までの間に、人口全体の19%にあたる48人が死失したのをはじめ、転出をふくめると94人が村内から喪われた。戸数にして全73軒のうち20軒が退転し、残ったなかでも「死失・退転同様」の状態に陥った15軒を合わせると、半数近くにのぼる35軒が破綻している*¹¹。一方の国中地方でも、甲府勤番役所は甲府町方内部で効果のあがる政策にこそ力をそそぎ*¹²、商人たちは郡内地方への廻米を充分におこなわなかった。

甲州騒動の発端は、郡内地方の2人の百姓が熊野堂村の穀物商・奥右衛門へ米を強請に行こうとしたことであった。天保7年8月21日、2人を頭取として郡内地方の村々の百姓数百人が白野宿に結集し、道中で豪農商から米を借り上げつつ笹子峠を越えた。そして熊野堂村に到着したが、奥右衛門方では米の貸し出しを拒まれたため、これを打ちこわした。ここまで、2人の頭取は一揆勢をよく統率し、従来の作法を守っていたし、米の強請という確固たる目的を保持して行動していたといえる。

ところが熊野堂村での打ちこわしを終えたあと、国中地方の人びとが合流したのを境に様相は一変する。彼らは新たな頭取のもと、打ちこわしそのものを目的として行動を開始した。まず笛吹川を渡ろうとしたが、この際に石和代官所の警備隊がいきなり空砲を発砲し、これによって激怒した騒動勢は石和宿へ乱入した。勢力はその後二手三手に分かれ、数軒を打ちこわすと、甲府代官が敷いた防御線をも突破しながら甲府城下にせまり、8月28日、ついに進入した。甲府での打ちこわしののち騒動勢はさらに西進し、韮崎を経て、信州との国境付近にいたって鎮圧された*¹³。

甲州騒動の異常なありさまは、広い地域に伝播し、多くの記録に残されている。この事件の特徴は、騒動勢が従来守られてきた一揆の作法をいちじるしく逸脱し、騒動勢や村々と幕府との間のある種の合意・不文律が崩壊していた点にある。騒動の後半、勢力は放火や盗みをはたらき、幕藩領主に対して武力を行使した。また身につけたものも、それまでの蓑笠や農具とは異なって、襷や帯をしめ、刀剣を帯びていた。少なくとも、自分たちは守られるべき百姓であるという視覚的アピールはかなぐり捨てていたと言える。当時の人びとの多くはこれらの行動主体を「悪党」と呼称し、百姓とは異なる集団として捉えていた。そしてこの解釈によって、かれら「悪党」に対する暴力は容認された。

騒動勢が甲府に進入した23日、周辺の村々では主体的に情報を収集し、村の防衛、すなわち騒動勢への武力行使の是非を選択している。ある村は非暴力を選択し、ある村は防衛を決断して騒動勢を殺害した*¹⁴。そして翌24日になると、甲府代官は村々の猟師鉄砲をもって彼らを鎮圧することを許可し*¹⁵、村々の自衛に正当性を与えることとなった。ここでの代官の許可に先立つ村々の主体的な行動からは、幕藩領主の武威に対する信頼の低下を読み取ることができる。

こうして民衆は、蜂起して暴力に訴える者たちと、彼らから村を守ろうとする者たちに分裂するという様相を呈しており、この傾向はのちに元治元年の天狗党の乱や、慶応年間の武州世直し騒動にも見られる。須田は、領主権力と民衆の間に行われた「垂直方向の暴力」だけでなく、この分裂に象徴される「水平方向の暴力」が存在したことから目を背けてはならないと主張する*¹⁶。一方で保坂智は、天保年間に見られるような一揆の暴力化はあくまで例外にとどまり、近世の民衆運動は全体として非暴力の方針に貫かれていたとしている。

2-2. 世直しとは何か

「世直し」を称する運動は19世紀に特有であり、貧農ら下層民衆を中心として、豪農富商にたいし債務破棄や質物返還、窮民救済を訴えて起こした打ちこわしなどを指している。世直し一揆の定義については、たとえば長谷川伸三は「民衆を抑えつけ、苦しめている秩序が一変し、一度は解放感を満喫できるような方向をめざして、不特定多数の民衆が共同行動に立ち上がること」*¹⁷ としている。甲州騒動に関しても、国中地方に入ってのち、指導者が入れ替わって激化した段階を世直しと呼ぶということになる*¹⁸。

世直しは、それまで行われた百姓一揆の系譜を引く存在ではあるものの、早くから区別して研究されてきた。庄司吉之助はその理由を「単に世直し運動が封建社会の政治批判に止まらず、自ら次代の社会を建設する傾向が顕著であり、それが実践的にたたかわれたことに大きな意味があるからである」*¹⁹ と指摘した。

そして、その契機には天保の飢饉が重要な役割を果たしたとされる。北関東の一揆を調査した長谷川は、天保凶作の際に北関東で発生した一揆自体は米騒動や米一揆の域にとどまっており、領主権力や町村役人の対応によっては、未然に防止したり拡大を阻止したりすることが可能であったと評した。しかしながらこの過程で民衆は、領主権力の不手際や、豪農商らの不正に起因する生活困窮、そして自らの共同行動による生活保障の実現を実地に体験し、これらの体験から次第に自らの運動を「世直し」として認識・規定していったと論じた*²⁰。

深谷克己は野州における「世直し契状」の内容を分析し、世直しの目標を6つの理念的目標と6つの実際的目標に整理している。前者は①窮民救済をはじめとして、②債務関係破棄、③金殻供出、④横領者懲罰、⑤物価引き下げ、⑥上下無し(平等)である。しかしこれらの目標に向かって実際に進むには限定的な実際上の目標がなくてはならず、それが後者の①質地(証文)、②質物、③質利息、④今後の金子融通、⑤肥料代、⑥穀物(夫食)などの問題の具体的改善であった*²¹。

いっぽう、世直しの爆発的エネルギーを産んだ民衆心理については、安丸良夫の研究がある。近世後期における「世直し状況」は既成秩序の崩壊過程としてとらえることができ、反秩序的な人びとが強請や盗みを頻発させていたが、この情勢を背景に、世直し一揆は「地域の共同性の世界を代弁する懲悪の行為」*²² として白昼公然とおこなわれた。そして彼らの行動では、「日常的生活者としての民衆からは予想できない異常な威力が発揮された」*²³。このような打ちこわしの参加者は、日ごろ彼らを抑圧している豪農商の財貨を徹底的に破壊し、また例外なく飲酒しているが、これらの行為自体が彼らにとっての「解放」であり、祭りにちかい性格をもっていた。人びとの鬱屈した欲求を充足する機会として世直しはたたかわれたのである。

2-3. 関東における世直しと農兵銃隊

慶応年間、関東では世直し騒動が相次いで発生し、村々は自衛に追われた。慶応2年(1866年)の武州世直し騒動は、物価高騰と天候不順を原因として、秩父郡名栗村の百姓が「平均世直将軍」と記した旗を押し立てて飯能宿で打ちこわしをおこなったことに端を発し、名栗村の百姓が帰村した後も騒動は上州との国境付近まで拡大して、関東西北部一帯に混乱が広がった。これの鎮圧にあたったのは、村々に組織された農兵銃隊であった。

これに先立つ文久3年(1863年)、幕府から「悪党」を捕縛せよという下命を受けた多摩地域の村々は、武装した彼らにはゲベール銃で対応したいと返答し、翌元治元年(1864年)、江川英敏・英武ら韮山代官の建議もあって幕府からゲベール銃の支給が実現した。農兵銃隊は豪農の資金提供を受けて盛んに調練をおこない、主体的に「悪党」に対応する体制を整えていた。

農兵銃隊はこの世直し騒動にあたって騒動勢を殺害・捕縛して成果をあげたのである。また上州でも、関東郡代・木村甲斐守は超藩的連合軍を結成するとともに、緑野郡鬼石(現・藤岡市)周辺村落の農民をも徴発して鉄砲隊を編成し、国境付近で防禦にあたっている。中島明はこの情勢について、「世直し」が常態化して支配体制が動揺する危機的状況に対し、幕藩領主は従来の穏健な対応をとれておらず、もはやむき出しの暴力をもって当たるという泥沼に踏み込んでいることを指摘している*²⁴。

いっぽう、農兵銃隊の取り立てに反対する活動も、川越藩領や上州の幕領でみられる。川越藩では財政難が慢性化していて収奪が過酷であり、農民たちはそれ以上の負担を強いることになる銃隊の組織を拒絶し、村の防衛は自らの手で行うことを選択した。さらに上州では岩鼻陣屋の例があり、これを次節で見ることにする。

3. 戊辰戦争期の北関東

3-1. 出流山事件

開港以来、地域を背景として登場した、おもに尊王攘夷を唱える行動者が、各地で相次いで挙兵している。これらの主体は「草莽」「草莽の志士」と称される。高木俊輔は幕末志士を2類型に分別した。第1類型は、のちに維新の元勲と称される人びとに代表される、藩権力を背景に活動した志士、ないしは脱藩士でも藩に立ち返る可能性を維持して活動した志士であり、維新に関する研究の対象は彼らに集中した。そして第2類型はそれ以外の豪農や知識人層、そして藩地に戻ることのない脱藩士たちであり、これらを草莽の志士と呼んでいる*²⁵。

関東における草莽の志士の挙兵の一例としては、出流山事件を挙げることができる。慶応3年(1867年)、武州など各地の豪農や浪士、知識人などが江戸三田の薩摩藩邸に屯集したのち、下野国出流山に移動して挙兵した。彼らは尊王攘夷と討幕を呼号しつつ、周辺の教養人や一般農民層を呼集して人数を増やしたが、一部はふもとの栃木町で足利藩や関東取締出役の率いる農兵隊などに敗北し、残りの勢力も出流山や岩船山などにおける戦いをへて鎮圧された。

高木は、この挙兵に多くの中下層農民が参加したことに、幕末の変革的情勢の進行を見いだしている。これらの零細農民はこの時期の全国的な傾向に違わず、不作からくる村内の矛盾にあえいでおり、世直しを希求していた。天誅組や生野の変、天狗党の乱などの他の尊王攘夷激化事件においても同様の構成が見られ、これらの場合は挙兵の最終局面で世直しを目指す中下層が分離し、打ちこわしに走るという現象が見られたが、出流山事件ではそれがあらわれなかった。その原因は単に、挙兵勢力がその局面を迎える前に幕府軍によって壊滅させられたからであると、高木は述べている*²⁶。

なお、この挙兵の鎮圧に効果を発揮したのは、栃木町で足利藩の陣屋の指導のもと住民によって結成された自警団と、上州岩鼻陣屋詰の代官手代で関東取締出役に名を列していた渋谷鷲郎が率いた農兵銃隊である。「水平方向の暴力」はここにも見ることができる。

3-2. 岩鼻陣屋の銃隊取立と断念

岩鼻陣屋は、北関東に睨みをきかせる幕府の砦として重要な役割を果たしていた。先述の武州世直し騒動の際にも、岩鼻陣屋を拠点とする関東郡代は上州諸藩の藩兵を結集してこれを強力に弾圧し、一時的に蜂起は壊滅した。しかしながら上州では小規模な反抗が依然として頻発し、領主層は体制崩壊への危機感を植え付けられた。

出流山事件が勃発すると、渋谷らは村々から徴発していた猟師を主体とする鉄砲隊や手なずけていた博徒たちを率いて鎮圧にあたり、大きな手柄をあげ、渋谷は支配勘定に昇格した。これによって渋谷は、みずから育成を主張してきた農兵銃隊の効力に自信を深めた。

慶応4年1月15日(1867年)、渋谷は新たな銃隊取立を指令した。組合村高1,000石につき2人を出させ、鉄砲を1挺ずつ貸与して西洋式調練をおこなうという内容で、岩鼻陣屋が支配する全域に出されたと見られる。しかし直後、人数は100石につき1人に変更された。この下達に対して農民たちは負担軽減を求める運動を開始したが、渋谷は「反対者は殺害する」と頑強な態度を示した。

しかしその後、取立の対象となっていた高崎藩領の農民が藩役所に問い合わせたところ、渋谷の要請に応じる必要はないという返答を得たため、同藩領からの取立拒否は黙認された。これに勢いを得て、他の旗本領でも地頭に問い合わせて反対意見や消極的見解を得るところが相次ぎ、またある村は取立を支持する大惣代や名主を糾弾・排撃するなど、上武の広い範囲で硬軟さまざまな反対闘争の様相が見られた。

2月15日、渋谷は銃隊取立を断念した。中島は次のように述べて、ここで岩鼻陣屋の命運自体がついえたという見方をしている。

銃隊取立は、陣屋の存在を左右する重大な施策であり、それが農民の抵抗によって潰え去ったことは、陣屋の権威失墜を明白に物語るものであった。またそれは、陣屋が起死回生の策として目論んだ上武諸藩連合軍=超藩的軍隊結成に代るべき夢を打砕くものであった。

中島 1992, pp. 454–455.

この情勢のなか、鳥羽・伏見の戦いに勝利して東征を続ける東山道総督府が上州に下向するという風聞が現実味を帯びて拡大するとともに、諸藩は官軍になびき、農民は陣屋攻撃を画策した。そしてそれが実行に移される前に、陣屋詰の役人たちは夜闇に紛れて逃亡し、陣屋は崩壊した。渋谷も出奔し、その後は旧幕府軍に加わって戊辰戦争を転戦した。

農民たちは余威をかって渋谷の協力者や商家の打ちこわしにむかい、西上州における世直し一揆が幕をあける。

3-3. 両毛の世直し一揆

政治上の空白地帯と化した西上州の世直し一揆は、多胡郡の辛科神社に結集したのを始まりとして、広範囲に拡大した。彼らの目的意識は、おもに銃隊取立関係者への報復と、質物返還にあった。一揆勢は取立に賛意を示していた惣代や名主らの家財を焼きはらい、横浜商人や米穀商人、質屋などを打ちこわした。また3月4日には、無宿人を頭取とする勢力が、取立の最高責任者といえる小栗忠順が隠棲していた東善寺を襲撃している。いっぽう、利根川以東でも独立した世直し一揆が動きはじめた。伊勢崎周辺から行動を開始した一揆勢は桐生陣屋を襲撃して無宿人を解放し、領主に指揮された町民兵と戦闘におよんだ。上州に入った新政府軍は諸藩に一揆の鎮圧を指示し、諸藩が「天朝」への忠誠心を示すためにこれに従ったことで、騒動は平定されていった。

その一方で、このころ野州は梁田や宇都宮をはじめとして、旧幕府軍と新政府軍が争う戦場と化しており、それと同時に一揆や打ちこわし(この地域では「ぼっこし騒動」と呼ばれる*²⁷)が吹き荒れた。河内郡・芳賀郡・都賀郡を中心に百姓が結集して豪農商を襲撃し、他地域と同じように「悪党」と表現される人びとの横行が見られるが、攻撃を受けた野州商人には独特の対応が見られる。

慶応4年4月、鹿沼宿近辺の都賀郡武子村の豪農・新左衛門が世直し勢に酒食をふるまった際、「降参」を申し入れて証文を作成している*²⁸。また同月、安蘇郡下津原村の西沢屋藤左衛門は「降参仕候」「質物不残相返申候」と大書して表木戸に貼り出し、さらに覚書を与え、炊き出しを行い、人足も差し出したことで、打ちこわしを免れたという*²⁹。須田によると、商家が世直し勢に「降参」を認める対応は他の地域に類がなく、打ちこわしを回避するための知恵であろうと考察している。

野州の世直し一揆もまた速やかに鎮圧され、野州が戊辰戦争の戦火に呑まれるなかで瓦解していった。

4. おわりに

近世の民衆運動は、経済不安と幕藩領主に対する信頼の失墜から変容し、従来の作法の逸脱と暴力化を見せた。民衆が物価高騰や収奪から抱えた不満は解放への願望となり、世直しという方向を打ち出して表出した。

本稿では一貫して政治・経済上の不安を運動変容の原因として述べたが、蜂起する民衆のより具体的な心理に迫ることや、世直しとならんで解放願望の発露の一形態となった「ええじゃないか」を取り上げることはできなかった。また甲州騒動以降、一揆や打ちこわしの頭取が「悪党」や無宿者、異形の集団であると表現される記録群を扱うにあたり、実際に彼らが記録者とどれほど乖離し、あるいは近しい位置にいたのかは慎重に検討する必要がある。

脚注

  1. 宮澤 1973, p.108.

  2. 若尾 2018, p.9.

  3. 深谷 1986, 「百姓一揆の意識構造」

  4. 若尾 2018.

  5. 保坂 2002.

  6. 川越市庶務課市史編纂室 1983, pp.311–346.

  7. 林 1971, p.276.

  8. 藤田 2007, p.121.

  9. 須田 2010, p.31.

  10. 須田 2010, p.52.

  11. 都留市史編纂委員会 1996, p.665.

  12. 甲府市市史編さん委員会 1992, p.854.

  13. 甲府市市史編さん委員会 1992, pp.860–876.

  14. 須田 2010, p.63–64.

  15. 甲府市市史編さん委員会 1992, p.873.

  16. 須田 2010, pp.190–191.

  17. 長谷川 1999, p.15.

  18. 青木 1979, pp.216–221.

  19. 庄司 1970, pp.20–21.

  20. 長谷川 1999, p.16.

  21. 深谷 1982, pp.50–55.

  22. 安丸 1974, p.244.

  23. 安丸 1974, p.245.

  24. 中島 1992, p.151.

  25. 高木 2022, pp.3–4.

  26. 高木 1974, p.202.

  27. 大嶽 1988, p.40.

  28. 須田 2010, p.179.

  29. 日向野 1974, pp.261–262.

参考文献

  • 青木美智男『天保騒動記』三省堂、1979年

  • 青木美智男『百姓一揆の時代』校倉書房、1999年

  • 大嶽浩良「世直し一揆における民衆像:下野国芳賀郡真岡地方の場合」『歴史地理教育』428、1988年

  • 大町雅美、長谷川伸三(編著)『幕末の農民一揆:変革期野州農民の闘い』雄山閣、1974年

  • 川越市庶務課市史編纂室(編)『川越市史』第三巻近世編、川越市、1983年

  • 関東取締出役研究会(編)『関東取締出役:シンポジウムの記録』岩田書院、2005年

  • 甲府市市史編さん委員会(編)『甲府市史』通史編第二巻(近世)、甲府市、1992年

  • 佐々木潤之介『世直し』岩波書店〈岩波新書〉、1979年

  • 庄司吉之助『世直し一揆の研究』校倉書房、1970年

  • 須田努『「悪党」の十九世紀:民衆運動の変質と“近代移行期”』青木書店、2002年

  • 須田努『幕末の世直し:万人の戦争状態』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2010年

  • 高木俊輔『明治維新草莽運動史』勁草書房、1974年

  • 高木俊輔『戊辰戦争と草莽の志士:切り捨てられた者たちの軌跡』吉川弘文館、2022年

  • 都留市史編纂委員会(編)『都留市史』通史編、都留市、1996年

  • 中島明『幕藩制解体期の民衆運動:明治維新と上信農民の動向』校倉書房〈歴史科学叢書〉、1993年

  • 長谷川伸三『近世後期の社会と民衆:天明三年〜慶応四年、都市・在郷町・農村』雄山閣出版、1999年

  • 林基「享保と寛政」『カラー版国民の歴史』16、文英堂、1971年

  • 日向野徳久、岩舟町教育委員会『岩舟町の歴史』岩舟町、1974年

  • 深谷克己「庄司吉之助『世直し一揆の研究』」『歴史学研究』392、1973年

  • 深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社、1978年

  • 深谷克己「世直しと御一新:下野における戊辰情勢」鹿野政直・由井正臣〈編〉『近代日本の統合と抵抗』第1巻、日本評論社、1982年

  • 深谷克己『百姓一揆の歴史的構造』校倉書房〈歴史科学叢書〉、1986年

  • 藤田覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2007年

  • 藤野裕子『民衆暴力:一揆・暴動・虐殺の日本近代』中央公論新社〈中公新書〉、2020年

  • 保坂智『百姓一揆とその作法』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2002年

  • 宮澤誠一「幕藩制イデオロギーの成立と構造:初期藩政改革との関連を中心に」『歴史学研究』別冊特集「一九七三年度歴史学研究会大会報告:歴史における民族と民主主義」106–115頁、1973年

  • 安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』青木書店、1974年

  • 薮田貫『国訴と百姓一揆の研究』校倉書房〈歴史科学叢書〉、1992年

  • 若尾政希『「太平記読み」の時代:近世政治思想史の構想』平凡社、1999年

  • 若尾政希『百姓一揆』岩波書店〈岩波新書〉、2018年

冒頭画像:栃木県栃木市旭町、第二公園にて

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