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思考は記憶で、記憶に実体がなければ、思考に実体があると言えるか②

「無」を「有」と前提するから解らなくなる。「無」を消そうとしても、そもそも「ない」ものは消せない。あと、「ない」は直接的に認識できない。

記憶も思考も、なぜ「ない」のに「ある」と感じてしまうのか。

心の働きは、よく鏡や水に例えられる。対象の姿形、在り方に応じて、様々に変化するから。

コップや器の形、型抜きや成型機の(金)型、鋳型等の型に応じて、水や原料も様々な姿形に変化する。

で、心の材料(性質と言った方が近いか)は何かというと、「無」で、「無」であるからこそ、様々な姿形、あらゆる性質、多様な在り方が可能になる。

「無」それ自体は直接に認識することが出来ない。ただ、無は有がないと存在することが出来ない。だから、無を認識(確認)するために有を媒介させる(ブラックホールの撮影みたいに)。

私(思考)は、五感を通じて入力された刺激が、記憶と反応し、相互作用して生じる。ただ、ここで生じた私(思考)に実体はなく、感じることだけが出来る。五感からの刺激、記憶を通じて(媒介して)、間接的に「無」を認識している。

「ないもの」を「あるもの」として捉えるためには、間接的な(観察)方法に依るしかない(カニッツァの三角形)。

五感や記憶はパラメータに過ぎず、パラメータの値に応じて、「無」である存在が、あらゆる姿形、性質を伴った「存在」として、間接的に生じる。
五感とは、カニッツァのパックマンであって、五感から受ける刺激(印象)がパックマン刺激に対応している。真ん中に見える三角形が私(心)であって、ないのにある。

瞑想で五感に意識を集中させたりするが、これはパックマン刺激に意識を集中し、「無(三角形)」の在り方を、浮かび上がらせてるのかも(瞑想しないから解らないけど)。

良く分からなかったごめんなさい。また、もうちょっと具体的に書いてみます。

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