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みどりのマキバオー|マンガと僕

 中学生になるのが嫌だった。小学校を卒業して、中学校に入学するまでの春休みの間、僕は憂鬱で仕方がなかった。小学生だった六年間があまり楽しくなかったからだ。
 僕は友だちというものを作るのが苦手だった。友だちと遊ぶと楽しいという体験がほとんどなくて、ファミコンで遊ぶか、漫画を読むか、アニメを観るか、が僕の主な楽しみだった。
 僕が入学する中学校は、近隣の四つの小学校から生徒が集まってくる。僕が通っていた小学校は、その四つの中で一番大人しい学校らしい。母親が電話で誰かとそう話しているのを耳にしてしまった。
 それが僕にはとても不安で、憂鬱だった。
 友だちはきっとできない。それは別に僕にとって大したことではなかった。一人でつまらないと思ったことはないし、寂しいと思ったこともない。ファミコンも、漫画も、アニメも、僕には十分な楽しみだ。
 小学校で辛かったのは暴力だ。これはイジメではないと思う。男子たちはどんどん活発になって、サッカーもドッジボールもクラスでの悪ふざけも、痛いし怖いし、心が休まることがなかった。
 小さい頃、幼稚園生の頃は、幼馴染の女の子や従姉妹と遊んでいたから、僕は小学校でもずっと女子と遊んでいたかったけど、年々、それを男子たちは許してくれなかった。冷やかされて、引き離されて、怯えながら、いつしか一人で遊ぶしかなかった。
 一番大人しい学校、それはつまり、他の三つの学校の男子たちは、もっと活発で、それは女子も同じかもしれなくて、これまでの六年間の窮屈さが、これから未来の三年間も既に約束されているようで、本当に憂鬱で仕方がなかった。
 気を病んでいても時間は止まらない。記憶に残らない春休みがあっという間に過ぎ去って、僕は中学生になった。

 思っていた通り、何も僕は変わらなかった。友だちはできなかったし、柔道やマラソンのある体育が泣きたいくらいに辛かった。男子たちとは話が合わないし、女子たちは妙にませていて怖いし、担任教師が剣道部顧問で武道家で、怯えながら過ごした中学一年生だった。
 中学二年生になって、クラスが変わって、凄く苦手な男子たちがクラスメイトになった。とにかく恥ずかしい話をするし、強引に聞いてくる。オナニーという単語とその意味を初めて知ったのはこの時だ。
 その男子たちは女子たちのブラジャーを外したりして騒いでいて、女子たちも一緒になって笑っていた。その女子たちの中にはもうセックスしたという子がいて、僕はその空間に通いたくないと毎日思っていた。彼らは、他の三つの小学校の出身だった。
 僕には弟がいる。弟はお調子者だ。運動神経も良くて、三歳も離れている小学生なのに、僕よりも運動ができた。
 弟が習っている太極拳で、市立体育館で演舞することになった。地域を巻き込んだ比較的規模の大きな市の体育会だった。開催は日曜日だったから、家族でそれを見学することになった。
 僕は留守番していたかったけど、それを母親は許してくれなかった。仮病を使う度胸もなくて、僕は渋々ついていった。
 僕は弟の演舞を見たくなかった。兄として、いつも、引け目を感じていたのだ。運動が全くできない自分が、活発で要領の良い弟を見ていると惨めになる。
 僕は市立体育館のすぐ側にあった本屋で、一冊の漫画を買った。少しでも弟を見ないように、漫画を読んで時間をやり過ごす為だ。
 買った漫画は、みどりのマキバオー、というタイトルだった。鼻の穴は大きいのに、体は小さい、不格好な白い馬の漫画だった。

 内容も知らずに、ただギャグ漫画みたいで面白そうだという理由だけで僕は買って、ずっとそれを観客席で読んでいた。
 この漫画は当たりだった。のっけから声を出すほど笑ってしまった。笑ったのは主にウンコのネタだった。母親に何度も注意されたが、僕は読むのを止められなかった。やっぱり、僕にとって、僕が楽しいと思えるのは、人間ではなくて、漫画、空想の世界だけだった。
 ゲラゲラ笑っていた為か、僕を見つめる誰かの視線に気がついた。目の前に、陸上のユニフォーム姿の女の子が立っていた。スラッとした長身で、細身だが引き締まった手脚、アップにした髪型が可愛くて、その女の子は小学生の頃の同級生だった。
 同じ中学校なのに、中学二年生になって、この日曜日に、しかも学校ではない市立体育館で、初めて見掛けた。
 この子とは、ほとんど話したことがなかった。小学生の六年間、ずっと同じクラスメイトだったのに。
 父親が、この子のことが可愛い可愛いと言っていた為、僕も本当は少しだけ意識していた。父親を授業参観に連れてきた母親を恨んだ。
 話したことはほとんどなかったけど、確かに可愛くて、スポーツも万能で格好良かった。だから余計に僕には距離のある女の子だった。
 彼女は僕を見つめていて、そのまま何も言わない。僕も視線を逸らすことができなかった。
 僕はこの子のことが好きなのか分からなかった。ただ、やっぱり可愛いと思った。今まで中学校で会ってきた女子たちよりも、その中で、一番、この子が遥かに可愛かった。
 近づいてきた同じユニフォームの男子が、彼女に声を掛けた。その男子は、僕のクラスメイトで、女子のブラジャーを外していた中心人物だった。
 僕は慌てて顔を伏せて身を捩った。あの子は、あんな奴と親しげに言葉を交わしていた。
 ほとんど話したことはない、だから、あの子がどんな子なのかなんて、知りもしないし、考えたこともなかった。でも、あの男子たちとは気が合わない女の子なんだって、勝手に信じていた。ブラジャーを外されて、セックスして、そんな女子たちと同じだったら嫌だと心から思った。なんであんな笑顔で、あの男子なんかと話ができるのか。僕たちの小学校は一番大人しい学校だったのに。
 僕は、それを忘れるように、みどりのマキバオーを読み耽って、笑った。読み終えても、もう一度、頭から読み直して、笑った。
 弟の演舞が終わって、太極拳の先生が両親に挨拶に来ても、僕はその後ろでずっと、みどりのマキバオーを読んで、笑っていた。
 帰り道、その車の中で、僕は母親にヒステリックに怒られた。空気の読めない漫画好きのどうしようもない中学二年生だと思われたのは、妙に悔しくて腹が立った。
 だけど、どうしようもないのは本当だった。笑って少しは楽になっていたけど、僕にはこの気持ちはどうしようもなかった。

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