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さぁ、さすらおう!

奥田民生の『さすらい』が、昔から好きである。

初めて聴いたのは中学生のときだったかな。
『さすらい』なんて言葉の意味は知らなかったけど、ただどうしようもなく心地のいい曲だと思った。


まわりはさすらわぬ人ばっか 少し気になった
風の先の終わりを見ていたらこうなった
雲の形を 真に受けてしまった


この歌詞が昔から好きで、
ただなぜ好きなのかはわからず、歌詞の意味も明確にはよくわからなかった。
「気楽に行こう」
当時の私には、そんな風に聞こえていた。

大人になって、
ふと『さすらい』とはどんな意味なのか知りたくなった。
そういえば今まで、まったく知らぬ言葉なのに感動していた。その事実に驚きつつ無性にその言葉の意味を知りたくなったのだ。

さすらいとは、「当てもなく彷徨う」といった意味があるらしい。

すごいなー。
意味を知らずに聴いていたのに、私が曲から受け取ったメッセージと言葉が持つ意味がそう遠くないことに感動した。純粋な言葉の響きだけでなく、音や声からも表される何かがあるのだろう。奥田民生の音楽はやはり素晴らしい。


『さすらい』という言葉の意味を知って、
よりこの曲が好きになった。重みが増した気がしたのだ。

確かにこの世はさすらわない人ばかりである。
そしてそんな私も、比較的さすらわずに生きてきた。

きっと昔の私なら、この曲を応援歌や教訓として受け取っただろう。
しかし今の私にこの曲は、なんだか叱咤のように聞こえる。
私自身という人格や生き方を激しく怒られているような、そんな気持ちになった。

さすらいたい。

そんな生き方をしていたい。
自分の意思でさすらえば、自ずと自信が湧いてくるはずだ。
この1年、そんな切望が頭から離れない。
ただ熱烈に「さすらいたい」と感じている。

しかしその感情の根源に、どんな理由があるのかがわからない。
わからないから勇気が湧かない。勇気が湧かないから行動に移すことができない。結局私は理由ばかり探している。弱く臆病な人間なのだ。だから右向け右で今まで生きてきてしまったのだろう。

2023年は、
「自由に生きてみたいんです」と多くの人に相談をした年だったような気がする。家族、上司、友人、恋人。私を知る人に片っ端から「自由に生きる私」という夢の片棒を担がせようとした。
「自由に生きたい」「これから先、笑顔で生きていくイメージが湧かない」
そんな私の若い言葉たちは、今思えば最大限の強がりで、弱く迷いばかりの私に誰かから「さすらうべきだ」と声をかけてほしかったのだろう。

私の身近には本物のさすらい人がいる。彼女とは数年に一度会うだけの関係だが、会うたびに仕事と居住地が変わっている。まったく掴めない女性だ。
そんな彼女はきっと「さすらいたい」などという欲望を抱いたことがないのだろう。さすらい人は、さすらうべきしてさすらい、そこに躊躇や迷いや疑問は生まれないのだろう。そう思うのだ。

はたして奥田民生は、さすらうべくしてさすらったのだろうか。
そこに迷いや葛藤はなかったのだろうか。
はたまた、迷いや葛藤があったからこそ歌にしたのだろうか。

もし後者なのであれば、私は彼のような人間になりたい。

「さぁ、さすらおう」と、自立の一歩を踏み出す若者に声をかけたい。
そう声をかけた私は、ひどく臆病者なのだ。臆病者で弱虫な私が、弱虫のまま強がりながら、同じく弱虫な若者に「さすらえばいい。」と声をかけるのだ。そんな光景はなんだか面白いなと感じる。

そもそも「さすらおう」なんて、ひどく自分勝手で無責任な言葉である。
もちろん責任なんて取れないし取るつもりもない。
しかしその無責任さはきっと誰かにとっては最大限のエールになるはずだと。
理由もなくそう感じる。

きっと誰しも自分の生き方や選択を、誰かに肯定してほしい。
本来最低限の倫理観さえ守っていれば「正しい生き方」なんてものは存在しないけれど、集団生活をする動物にしては人というものは孤独で不安な生き物で…。
だからこそ「あなたは間違っていないよ」「私もそう思う」「あなたの生き方をリスペクトするよ」と言ってほしい。孤独も間違いも、人にはどちらも耐え難い。

だから私はさすらい人になりたい。
心の中は最大限さすらっていたいのだ。

常識的で経済的な人を見ても「素敵だ」と言いたい。
その人なりの思考を突き詰めた人にも「素敵だ」と言いたい。
もちろんさすらい人にも「素敵だ」と言いたい。

まぁ嘘はつきたくないけど。

ただ、倫理に反していない限りは否定をしたくないね。
私の心はいつだって縛られずにいたいから。
そんな自分自身に「さすらおう」と言いたいのだ。
自分からの肯定は何より力になるのだから。



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