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坂の上のささやかな幸せ

私が大学1年の途中から暮らしたアパートは、地下鉄池下駅から南になだらかな坂を上った丘の上にあった。
大学には自転車で通ったが、一度坂を下りてまた上るという繰り返しを2度ほどして、やはり丘の上に立つ校舎にたどり着いた。
名古屋の市街地で思い出深いのは、当然大学があった近辺や住んでいた付近だが、それ以外では今池である。

実は、名古屋の叔父が亡くなった時に、車で妻の道子と葬儀場のある覚王山に出かけた。
その時に今池を通ったのだが、道を間違えてしまった。
この今池はかなと二人でよく買いものに来た町であったし、大学の先生や仲間とも飲み歩いた町だった。
自転車や歩きで見慣れた町なのだが、車で通ると方向感覚を失ってしまっていた。
間違って通った道路沿いの街並みは変わってしまっていたが、かすかに残る景色が時間を引き戻してくれた。
そこに、かなと歩いた記憶が蘇ってきた。

「<白昼夢> 何でもない日々」
今池に よう(良く) 買いものに行ったヤン
そうそう、晩ご飯のおかずをつくるため、遠っかったわ
池下近にはスーパーやデパート 無かったんで 坂をおりて今池いくしかなかった。
行きは下りで良かったけど、帰りは上りで、自転車を押して上がったっけ
ハンドルに白いレジ袋をひっかけて、夕食に何を作るか話してたやん 
それと、夏の暑い日のこと憶えとる?
憶えとるわよ、名古屋はすっごく暑かったよ エアコンなんか無いし、あのアパートでは我慢できんかったわ。
そんで、考えたんや 今池のデパートに涼みにいくこと。よう あんな格好でいったな
あたし 良い服 持って行ってなかったもん

ほんで 遠いのに よう 自転車に乗って来てくれたな。下宿のまかないのおかず持ってきてくれたし
ふたりで食べた方が美味しいもん
せやけど 門限の10時に帰らなあかんので、焦っとたね 事故せんか心配したよ 
さすが雪が降る日は近くまで送っていったん覚えとる?
嬉しかったわ あのまま部屋に来たら良かったのに
あん時も入って言うたけど まさか おんなばっかりの下宿に よう 入らんわ

私の脳裏にはあの時の、御器所の交差点が映し出されている。
雪が街灯に照らされて、舞い落ちてくる。
そこで、私はかなに手を振って、安心してアパートに戻った。

たぶん こんなことは金のない下宿生だから出来たのだと思う。
ちゃんと給料を貰っている社会人がやるはずもない。
私は金のない不自由な暮らしに慣れてたし、周りの下宿生は恋人こそいなかったが、似たようなものだった。
こんな暮らしの私に恋人がいること自体が不思議だった。
かなは元々お嬢様育ちだったので、経験の無いそんな暮らしが、却って愉快だったのかもしれない。
二十歳・二一歳は、普通なら若さと美しさに輝いて華やかな日々であったはずだ。
私たち二人には華やかさは無かったけれど、ささやかな幸せに満ちた日々があったのだなと、今は思える。

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