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五街道雲助の人間国宝に考える

落語界に慶事。五街道雲助が重要無形文化財保持者に認定された。落語家では4人目。演芸では講談の貞水、松鯉と合わせ6人目である。

小三治の次の国宝は誰かという予想は巷されてきたが柳家権太楼、柳家さん喬、五街道雲助、春風亭一朝、入船亭扇遊といったところの名が挙がっていた。いずれも1980年代半ばの真打で同世代。芸術選奨文部科学大臣賞や紫綬褒章を受賞していることが共通。ある意味人間国宝になる前段階といえる。しかし一般的知名度の面では今一つというのがあり誰も認定されないという意見も多かった。今回の雲助の認定は風穴を開けることであろう。

雲助は10代目金原亭馬生に入門し、滑稽噺から人情噺まで幅広い高座を務める。一種自分の節を持つ独特の語り口で、埋もれていた古典を掘り起こし復活させた功績もある。弟子が3人で亭号がいずれも異なり一角の噺家となっているのは特筆される。国宝の認定要件には後進の育成がありこの弟子の存在も大きかったようだ。さらに志ん生→馬生→雲助と続く古今亭の系譜への畏敬の念もあるか。文楽や圓生の系譜は途絶するのではと考えてしまうだけにである。

落語家の人間国宝は1995年の柳家小さんが初である。なぜ小さんまで認定がなかったか。少し振り返りながら考えてみたい。

重要無形文化財及び保持者の認定制度が規定されたのは1954年、第一次の認定は1955年である。この時能楽の喜多六平太・豊竹山城少掾、歌舞伎の七代目坂東三津五郎(舞踊家として)、陶芸の石黒宗麿、浜田庄司、富本憲吉、漆芸の松田権六らが選出された。歌舞伎というと国宝が多いイメージがあるが歌舞伎役者の認定は1960年の市川壽海、市川團之助が初である。顕彰制度としてはそれまで1890年創設の帝室技芸員、1937年の帝国芸術院、文化勲章などがあったが美術家や工芸家を表彰するもので無形文化財の保護・指定制度といったわざそのものの表彰は存在しなかった。

当時の落語界はお馴染みの志ん生・文楽といったところが横綱格、円生・正蔵がその次といった具合だった。志ん生・文楽とも顕彰としては紫綬褒章、勲四等瑞宝章である。これは落語協会会長としての顕彰も大きい。

桂文楽は2つの受賞とも落語家としてトップであり正に当時を代表した芸人であることが分かる。それに続くのが三遊亭圓生で勲四等、落語家初の芸術選奨、芸術祭大賞に加え昭和天皇御前口演の栄誉もあったが、意外にも紫綬褒章は受賞していない。柳家小さんが芸術選奨を未受賞など昭和期は賞の性格が定まっていなかったのか。

御前口演で見ると古く明治の三遊亭圓朝、講談の松林伯圓が行っている。圓朝は1891年に井上馨邸における園遊会で、『塩原多助一代記』を口演、松林伯圓は1892年に鍋島邸で「赤穂義士伝」「豊太閤桃山談」「楠公」を語ったようだ。

落語の三遊亭圓朝、歌舞伎の九代目市川團十郎、講談の松林伯圓は当時の三幅対と呼ばれた。実績としても十分で芸能分野の頂点にあったのではないか。

團十郎の以後の地位を思えば圓朝や伯圓は当時に日本芸術院、文化勲章、人間国宝といった制度があれば表彰は確実と愚考する。振り返るとこのような顕彰は政治的な関係も大きいようだ。圓朝は井上馨、山縣有朋、山岡鉄舟といった政界の重鎮との交友があった。その点現在に類を見ないスケールの大きさであった。まさに大圓朝。

落語界の地位の低下は圓朝の死もあるだろうが、明治後期に三遊亭圓遊がステテコ踊りで人気を博したのも大きい。ちょうど圓朝の病気と入れ替わるような躍進ぶりで、当時の寄席を数十軒掛け持ちするほど売れに売れた。その反動としてか、正統の落語家は雌伏の時を過ごすことになったという。一方でこの円遊の活躍が今日まで続く落語研究会の創設にもつながったのは興味深い。この時大衆的な人気は得たが、引き換えに社会的な地位を明け渡したように思える。

昭和期には第一次落語研究会の発起人でもある三遊亭圓右、柳家小さんといった名人が相次いで亡くなり、ラジオ放送の開始もあってか、講談や浪曲のブームに押され落語界は冬の時代となった。この時期の低迷も大きかった。

戦後の桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生はこういった低迷を乗り越え奮闘したことで、落語界は河原乞食ともいわれる芸人世界から復権を果たしたのではないか。その辛苦が柳家小さんの人間国宝、以後4人の認定に結実したと愚考する。上方は漫才の台頭や看板落語家の死去によって一時滅亡といわれるほどの苦闘があり、いわゆる四天王の活躍により今日の地位ができた。

戦後の桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生、林家彦六(いずれも1950~60年代の黄金期に落語協会の会長副会長を務めた)、上方四天王(笑福亭松鶴、桂米朝、桂文枝、桂春団治)は米朝のみ人間国宝、文化勲章の栄誉に輝いたが、米朝以外の7人も匹敵する功績をそれぞれ挙げているだろう。雲助の師匠である馬生は30代頃より中堅格として落語界を支え、早世がなければ小さんとともに重鎮として平成期の落語界に在ったはず。先人たちを称える意義も含め、物故者の追贈など見直してほしい。





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