横綱大木戸4~両協会の和解~

吉田司家からの横綱授与が進まず勝手に横綱に昇進させ土俵入りまでしてしまった相撲協会。東京協会とも絶交となってしまった。

大木戸一代の土俵についてもこの紛糾によって相当割り引かれることになってしまったのは後世から見ても残念なである。

この絶縁状によって明治43年、44年と東西の交流は一切なく単独巡業であったようだ。こうなると圧倒的に不利なのが大阪。元々東京と比べ看板力士もなく合併巡業で保っていた面があるだけ入りは悪く、合併相撲の2集団の対抗という興味がないことは東京にとってもマイナスであった。明治45年になって東京の取締友綱が下阪したことを機に、大阪の朝日山、京都相撲の草風、勇山とで懇談をし、草風、朝日山、東京の番付版元根岸が同道して吉田追風を訪問、無礼を謝罪し許しを請うた。

この和解は突然降ったものではなくきっかけがあった。東京の二十山取締(元横綱小錦)は東方のため西方の常陸山一行と分かれ単独興行を打っていたが看板がないだけ不入り。ちょうど名古屋に大阪相撲が乗り込むのと重なり、ここで合併興行を行いそれなりの入りとなった。これがきっかけで名古屋を中心に合同で歩いた。これが吉田司家の耳に入り破門とした大阪と興行を行うとは何事かと激怒、二十山の下に破門状が届いた。驚いた二十山は巡業をやめ帰京し吉田司家の下へ詫び状を送り、取締を辞任するという事件があった。二十山が45年夏別格年寄で処遇されているのはこのような一幕があったのだが触れている資料は少ない。

このような紛争は相撲界によくないと考えた追風は、大坂協会の破門を取り消し、ようやく和解なって大正元年12月25日、大木戸に対し横綱免許が下りた。このとき36歳。横綱を巡る騒動から3年がたっていた。

大正2年1月場所後の2月、日本橋矢ノ倉の福井楼において。吉田追風、東西の協会役員、横綱大関が列席し、和解の手打ち式が行われた。いよいよ大木戸は正式な横綱として土俵に上がるのだが。つづく。

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