見出し画像

横綱大木戸③

若島の引退によって名実ともに第一人者となった大木戸。

合併巡業で太刀山と互角、駒ヶ嶽には勝ち越し、常陸山には厳しかったが荒岩などの手取り型力士にも強く「大阪に大木戸あり」と知られるようになった。大木戸は明治41年頃より全盛期を迎え、明治41年夏~42夏まで全勝で3連覇を達成した。引分預かりの全くない3場所連続全勝は東京相撲でもなく東西通じて初のことであった。まさに大木戸の突っ張り相撲が無敵であることを示すものであった。

ここで大阪相撲協会は吉田司家に横綱免許の申請を出した。歴代横綱正伝に詳細ないきさつがあり参考とする。

当主追風は申請に対し「相撲を十分に見ていないから、直ちに免許交付とはいかない」と保留とした。若島の横綱授与は東京の二十山取締(元横綱小錦)の加判と常陸山の斡旋により五条家免許で横綱を名乗るという失態もありながらスムーズであった。ここで若島が現役であれば横綱として加判できるため若島が引退していることがまずトラブルの始まりだった。このあたり横綱が一代限りで次代へとつながるという本来の~代に相応しい状況である。

協会としては引退しすでに市井人となっている(一代年寄若島も廃業していた)若島の加判で済ませたかったが、司家は難色を示す。大阪場所だけでは判断が難しいという考えから42年11月の博多興行での相撲を観戦の上ということとなった。その博多場所で大木戸は堅くなったか3勝1敗3分という平凡な成績で横綱は厳しくなった。この興行では大阪の侠客が乗り込んで東京力士に対し脅迫などをしていたという裏話もあった。

成績は良くなかったものの、熊本市長などの贔屓が司家に対し大木戸の人となりを説明するなどうまく橋渡しもし、意を決して追風は横綱授与を決め、協会に対し加判を得て申請するように申し送った。ここで申請すれば決まったのだろうがまたひと問題が起こる。

大阪方には以前大木戸を移籍させようとした常陸山を良く思わない頭取がいた。これ以外にも常陸山によって引き抜かれた力士が多数いた。この時は大木戸は大坂相撲の看板であるとして幹部が説得することで何とか引き留めたが、このような経緯もあって上京して常陸山に頭を下げるのを抵抗し、若島の加判のみで申請することにこだわった。こうした強引な交渉が吉田司家の役員を怒らし決裂となってしまった。

業を煮やした大坂協会は司家だけが横綱の権限を持っているわけではないと、明治43年1月6日協会で横綱を授与し、しめ縄伝説のある住吉神社で奉納土俵入りを行った。これに対し憤慨した吉田司家は故実門人である大坂協会を破門とした。東京協会も司家の意向にこたえ絶交する旨の文書を送った。

以降のことはつづきとする。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?