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横綱大木戸

大阪相撲の話。73人の公認横綱には大阪相撲の横綱が4人いる。実は2人(若嶋、宮城山)は東京相撲の経験者。1人(大錦)は京都相撲からの移籍である。この中で唯一大阪相撲のみで現役を終えたのが大木戸。この点が特筆されることであろう。

大阪相撲自体資料不足も重なり現代では振り返られることが少ない。大木戸については雑誌相撲昭和50年1月号の「歴代横綱正伝 大木戸森右衛門伝」が一番詳細を記している。他に平成7年3~5月号の「年寄名跡の代々 湊代々の巻」、平成12年の「大阪相撲入門」にも記載がある。そもそも大木戸は大阪相撲オンリーのせいか近年まで基本的な情報もネット上に詳細がなかった。そのせいかウィキペディアも2004年に立項されながら、2017年まで初土俵場所もなく来歴も横綱昇進以後の出来事に限り、横綱としては異例の内容の薄さであった。

大坂相撲では若嶌に次ぐ2人目の公認横綱。若嶌が負傷により引退を余儀なくされた頃の大坂相撲で最強を誇り両手突の威力は2発で相手は土俵の外といわれた。このあたり1突半→1月半→四十五日と呼ばれた太刀山に似ているような氣がする。当時大関の大木戸は3場所連続の全勝優勝も記録した。しかし司家は横綱免許を出さず大坂相撲との交渉は決裂、大阪相撲は住吉神社と共謀し大木戸に対し勝手に免許を出した。怒った司家は大坂相撲を破門、東京相撲も立場上大坂に絶縁状を叩きつける大事件、このままであれば彼は公認横綱にはなれないところだったが2年後大坂相撲は司家に正式に謝罪、免許を再度申請した。今度は認められ東京相撲も絶縁を撤回、晴れて公認横綱になってよりいっそうの活躍が期待されたところで脳出血に倒れ半身不随になってしまったという。

優勝10回、うち5回が全勝だった。

ウィキペディアの2004年9月27日の版。この文章が加筆されながら後年まで残った


初土俵や新十両場所の記載なし。2017年8月の編集でようやく基本情報が追加される
横綱昇進以前の記載がないのは珍しいこと


ウィキペディアを編集する習慣はなく一体いつになれば加筆されるのかと思っていた。大木戸については基本、専門書をあたるよりほかになかったのだが唯一長らくお馴染みの相撲データマップといえるHP「相撲評論家之項」には経歴があった。ここは相撲史全てを網羅する坪田氏の功と言えよう。しかし近年項目自体が消されてしまった。

大木戸は明治9年兵庫県の生まれ。一時明治11年説もあったが次代の湊であった元呼出滝三と混同されていた。これも存在感も薄さからくるものなのか。前述の「横綱正伝」の冒頭にも

どういうわけか相撲関係の本と言えば江戸時代から東京中心に書いたもので、大阪相撲はもとより京都相撲などの上方は軽視して、たとえ東京方と比肩しうる横綱でも一段も二段も低く扱われて損をしている。(中略)若島の好敵手であった大木戸は若島より一段と低く扱われ、歴代横綱ながらあまりしられてない。

大木戸が東京相撲の経験者ならば扱いは変わっていただろう。実は大阪相撲の幕内で大阪相撲のみで土俵を終えた力士は意外と少ない。さらに東京相撲の幕内もかなりの数が大阪相撲の土俵を踏んでいる。当時は移籍がひんぱんにあったといえる。

幼少より体格抜群で沖仲仕に従事しながら草相撲で県下に知られるほどであったという。特に西宮の土地相撲はセミプロに近く播磨相撲の中心であった。明治28年日清戦争により台湾に従軍、この時人夫部隊に東京力士が多数いたことに刺激され、従軍中に知り合った大阪力士の紹介で頭取湊に入門した。明治29年9月序ノ口格でいきなり全勝。明治30年9月に序ノ口、以後各段1場所突破で昇進し(当時の大阪は年1場所)明治33年6月幕下。幕下2場所で明治35年6月十両、ここでも1敗で明治36年1月26歳で入幕した。

以降の話はつづきとしたい。


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