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横綱大木戸②

明治36年に入幕した大木戸。177センチ、105キロほどの体躯。当時の大阪相撲では大柄な方であった。のち横綱時代には120キロほどとなる。

相撲は上突っ張りが猛烈で組むと右四つからの上手投げもあった。また豪快ながらも前捌きも上手く技能的な一面もあった。入幕した明治36年よりこれまで年1回の興行だったのが2回となり若島らが看板となり大阪相撲も上向いた。明治36年6月には内国勧業博覧会の余興であった大阪での東西合併相撲に出場、駒ヶ嶽、太刀山、海山らの強豪を破り一気に人気が上昇する。しかし太刀山戦が少し問題となった。
歴代横綱正伝によると
「大相撲も末互いに釣り合った際、大木戸の廻しがすっぽり抜けて胸のあたりまで延びてしまった。廻しは解けているから太刀山は吊り切れない。強引に寄ると大木戸は土俵際で上手投げを放って辛勝した」

太刀山は後にこの一番を振り返っている。
「行司の庄太郎は締め直さないから寄って行くところをやられてしまった。バカな相撲だったよ。庄太郎が支度部屋に帰ると国見山関が待っていて、不注意を責め頭をボカンとやってしまった。出場停止になってしばらく休んだよ」
木村庄太郎は12代目だろうが明治38夏場所後に死去したようだ。晩年で裁きも衰えていたのだろう。
この合併相撲で大阪方は若島と大木戸が勝ち越しただけ。もはや第一人者はこの2人という事がこの時点ではっきりしている。まだ明治末期までは大阪相撲も体裁を保っていたがそれほど力量差は大きかった。

横綱正伝にも大阪では壁となるのは若島、扇海の2人だけだったとある。山本義一著「相撲年鑑」には明治期の合併相撲の星取もあるが常陸山、梅ヶ谷には全く歯が立たないが太刀山とは五分の成績である。上の一番の明治36年の南地から大正2年の名古屋まで17回対戦し5勝8敗4分である。太刀山は東京で無敵を誇ったがあるいは東京に大木戸が移籍していれば違うシナリオもあったかもしれない。

明治37年春には若島を上手投げで破り初勝利。この場所8勝1分と優勝相当であった。翌場所も8勝1預で38春早くも大関となった。いよいよ若島大木戸時代で盛り上がるかと思った矢先、若島が38年11月自転車事故で後遺症が残り土俵を去る。番付上5場所は対峙したが両者が揃ったのは38夏だけであった。これは大阪相撲の不幸となり大木戸の横綱問題でも紛糾する原因であった。しかし前記の太刀山との勝負や若島の引退など何かと大木戸には暗い影がつきまとっている。

この当時合併相撲で頭角を現すと東京相撲からスカウトされることが多かったようだ。事実脱退が多くこれが大阪相撲にとって更に打撃であった。大木戸も例外でなく36~38年に常陸山一行と巡業を共にし、スカウトを受けた。一時はその気持ちも堅かったが大木戸の一枚看板で持っているだけに大騒ぎとなり朝日山、湊の頭取が断るという一幕もあった。

いよいよ若島が去って名実ともに第一人者となる。つづく。


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