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658年阿波国司となった、阿波真人廣純とは、天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)ではなかったか?

壬申の乱のとき、
「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也」 


ずっと気になっていることがある。
658年阿波国司となった、阿波真人廣純とは、後の天武天皇(天渟中原瀛真人天皇)ではなかったか? 根拠となるものは見当たらないが。

天武天皇(てんむてんのう、? - 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)は、日本の第40代天皇(在位:673年3月20日〈天武天皇2年2月27日〉- 686年10月1日〈朱鳥元年9月9日〉)。
諱は大海人(おおあま)。和風諡号は天渟中原瀛真人天皇


壬申の乱が成功したことから、大海人が民から支持を得ていたことは間違いないだろう。白村江の戦いで敗戦してからの天智天皇の治世に不満を抱いていた民が、阿波国司・首長として治めていた民の支持を得て、壬申の乱に勝利したのではないか。


白村江の戦いには、大海人も参戦した記録はある。
少なくとも、北九州までは、斉明天皇、天武天皇と大海人は同行していた。


大伴實記など古文書によると、・・・

阿府志 十二
按ニ斉明天皇ノ朝大友実記ニ曰昔百済国ノ福信ト云者カ乞ニ応シテ救ヒノ人数ヲ九州及中国四国ノ軍勢 数騎百済ニ渡ル 
阿波ノ司阿波ノ真人広廣純五百ノ軍勢ヲ引率シテ彼ノ地ニ至ル・・・
(?天武天皇の和風(国風)諡号は天渟中原瀛真人天皇。阿波ノ真人だった時期があったのでは?)

阿波真人廣純は、武内宿禰の後胤、天智天皇の御宇の人。とある。

658 年、「重能」の先祖にあたる阿波真人広純(あわのまひとひろずみ)が阿波国司として着任する。その子孫の田口息継(たぐちのおきつぐ)が、808 年に阿波国司として着任し、この地に居を構えた。阿波真人広純の祖先は、蘇我氏らと肩をならべる朝臣“紀氏”であり、 さらにさかのぼれば、蘇我氏と同じ祖先である建内宿禰(たけうちのすくね)となる。

「重能」の先祖の阿波真人広純が阿波国司となっていた時代、朝鮮半島では唐と新羅が百済を攻撃した。百済と親しい日本は、百済に見方して 3 万 3 千人の大軍をおくった。その中に、阿波真人広純ひきいる 5 百人の阿波兵士もいた。しかし、日本軍は敗れ、百済もほろびた。663 年のことであった。民衆は竪穴式住居に暮らしていた時代である。

阿波風土記より

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