トッドと「宗教的空白」

私は一時期、エマニュエル・トッドに凝っていて、「宗教的空白」という表現も直接にはトッドの著作から借りたものです。
『シャルリとは誰か?』(文春新書、2016)の冒頭、2015年10月25日付の「日本の読者へ」において、トッドは次のように書いています。

◇◇◇
 宗教的空白と、格差の拡大と、スケープゴート探しというこの問題設定において、日本はどう位置づけられるべきでしょうか。
 もし私の変数から極端に単純化した等式を引き出すなら、宗教的空白+格差の拡大=(つまり)外国人恐怖症(に到る)、となります。これを日本に当て嵌めるならば、等式の左辺〔上〕には一致を、右辺〔下〕には謎を確認することになります。
 等式の左辺は完璧に再現されます。日本の宗教的空白は、ヨーロッパのそれと同じくらいに徹底した空白です。神道は、ローカルな共同体と農耕社会の儀礼に根ざしていましたが、大々的な都市化により組織が深い部分で解体されました。仏教は、戦後の一時期には新たな形の宗教性の発展によって活力を取り戻したものの、ここ二〇年、三〇年の推移を見ると、カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。葬儀におけるその役割までもがかなり本格的に疑問視されるようになっているのですから。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9c685d9ef8a0773b9b1d90c3465625d5

もちろん、トッドの日本社会に対する分析には、トッドが参照した資料の偏りなどから、不正確なところも多々ありますが、日本の「宗教的空白」を考える上ではヒントとなる指摘が豊富ですね。
ただ、過去はともかく、日本の将来を考える上では、日本は核武装すべきだ、といったトッドの提案は私にとっては問題外で、正直、そうした発言を聞くにつれ、私のトッド熱も冷めて行きました。

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