チェンソーマンについて、その2

この間はチェンソーマンについて書いた。
書いたらさらに愛着が湧いてきて、キンドルで全巻を読み直した。
そうすると、細かいところに目がいくようになる。一コマ一コマ、つまり細部に明らかに作者は意味を込めていることか分かる。
例えばアキが銃の悪魔にされて家に襲撃に来る際に、アキの服や食器が描かれるところ。これはアキが人間だったときの日常として捉えられる。そのカットインによって、日常はすでに破綻していることが明らかになる。破綻することで日常は特別さを得る。
これを作者の意図と捉えるか、登場人物の思いの表れと捉えるか。これは簡単には割り切れない。ドライな見方をすれば、作品は作者の意図を離れるわけがない。けれども、物語はすでに動き出しており、全てを作者の意図だと冷静に判断するには、読者の思い入れは強くなってしまっている。どちらかに簡単に割り切れないために、その細部は印象に残る。
作者のコントロール⇄人物のキャラクター性。
これらは補完関係にありつつ、解釈を宙吊りにするために、むしろ作品に読者を引き込む力が増す、のかもしれない。
あとは、これは細部ではないかもしれないけれど、デンジがアキを殺すシーン。デンジは実際には泣いていないが、アキは心の中でデンジが泣いていることに気付く。これはアキの心の中でもデンジの心の中でもある。
つまり、デンジには心があると証明してアキは去っていく。物語の序盤で、人の死に立ち会っても涙を流さず、さらに自分には心が無いのではないかと(一瞬だけ)悩んでいたデンジが涙を流す。ここで物語の強度はグッと増す。
ここもあえてドライな言い方をするならば、デンジが泣くことは物語において大きな意味がある。ということは、ここでデンジが泣くことは、あらかじめ作者が準備したストーリーラインの中に組み込まれていたのは間違いない。
けれど、小さなものから大きなものまで、ストーリーラインに起伏を持たせればそれで面白い作品になるのか? 
それは違う。それが予定調和やご都合主義的であれば、なおさら読者は作品から離れることになる。ここからは想像になるが、読者が引きこまれる要因はあくまでその人物のキャラクター性にある。このキャラクター性とは何だろう?
共感? 強さ? 人物の背景?
それはたぶん個性なのだと思う。この個性とは何なのか、まだ分からない。
あとはもちろん、14巻ではマキマさんが無くそうとした概念である死、戦争、飢餓といった悪魔が勢揃いしようとしている。物語としてのボルテージを上げにかかっていることが分かる。
それはともかく、とにかく第二部の主人公であるアサの魅力について語りたい。これはまだ自分の中で整理されていない。けれども、とりあえず書いてみようと思う。
さて、ではアサとは何者なのか?
アサは家族を悪魔に殺されてしまった高校生。その過去から、悪魔を憎んでおり、また、周囲に心を開けずにいる。言うならば、斜に構えた態度をとってしまっている。もちろん、それは彼女の背景を考えれば当然だと読者は感じる。彼女はクラスで飼っていた鶏の悪魔コケピーを事故で殺してしまった。そして、正義の悪魔と契約した委員長に殺される。
委員長は自分と肉体関係を持っている田中先生がアサを気に入っていることに気づいており、アサに嫉妬していた。コケピーを殺してしまったのも委員長が仕組んだものだった。死に際のアサは、もう少し自分勝手に生きればよかったと悔いる。
しかし、死んだはずのアサは戦争の悪魔に身体を乗っ取られ、委員長と田中先生を殺し、復活する。
戦争の悪魔(ヨル)は昔チェンソーマンに負け、弱体化していた。ヨルは身体を返す引き換えとして、チェンソーマンを殺すのに協力することをアサに求める。自分の所有するものを武器に変える力のあるヨルは、人間を武器に変えるようアサに提案する。
その後、自分のせいで友人ユウコが悪魔となってしまったと考えたアサは、ヨルの提案を呑む。アサは同じ高校の同級生、デンジをデートに誘い、惚れさせて武器にしようと目論む……。というのが13巻まで。
アサが唯一無二のヒロイン性を得るのはやはり14巻であると思う。
以下、アサとデンジのやりとり。
「男なんてちょっと楽しませればすぐに惚れるんだよ」
「私ってそこそこ可愛いからちょっと遊べばすぐ惚れるでしょ」
「イソギンチャクはクラゲの仲間で生えている細かい毛で魚とかエビとか動物性プランクトンを痺れさせて食べているんだって
でも何も食べなくても何年も生きることができてそこはクラゲと一緒だよね
ちゃんと世話すれば70年以上も生きた個体もあるんだって」
「世界中どこの海にも生息していてゆっくり体を動かすこともできてイソギンチャクの中に住んでる魚もいるのクマノミって魚で外敵から身を守ってもらったり食べ残しを分けてもらったりしてるんだって」
「なあイソギンチャクの話はもういいよ…ペンギン見に行きたいんだけど」(デンジ)
「駄目 ここはあと10分見る予定だから」
「え!?」(デンジ)
「あのさ…私キチンと水族館を楽しめる計画を立ててきてるの
計画外のことはしないから」
「…ハイ」(デンジ)
「イソギンチャクは熱帯の水域にいてサンゴ礁とか岩にくっついていて」
「ヒトデは…(以下略)」
「ヒトデの話はもういいよペンギン見てえよオレ」(デンジ)
「駄目 ヒトデはあと30分見る予定だから」
「30分!?」(デンジ)

そう、アサはズレている。男なんて簡単に惚れさせられるといいながら、つまらない話をひたすらしてしまう。
そして自分と周囲とのズレにこっそり悩んでいる。しかも、周りに認められたいともこっそり思っている。
そして、この後、ありのままの自分を認めてくれたデンジに好意を持つようになる。前に書いたように、二人はすれ違うのだけど。二人のやりとりには、正しい(正解はあると考える)アサと、間違っている(正解が分からない)デンジの対比を見ることもできる。
アサは、第一部のアキのように、普通の人なのだ。しかしよくよく考えてみればこの作品の登場人物で普通の人間はほとんどいない。ほとんどが悪魔によって不幸な目に遭ったか、悪魔そのものか、魔人か。その境遇に注目してしまうと、普通とはかけ離れている。しかし、実際には、その中身はいわゆる普通の人とは変わらない。普通ではないストーリーの中を、普通に過ごしている。この逆説に、この落差に読者は魅力を感じているんじゃないか。
ストーリー(運命)⇄キャラクター(人物)。
作者は運命に成り代わって登場人物を翻弄する。登場人物はある程度まで既に決まっているストーリーを辿っていく。しかし、その中で人物は悩んだり苦しんだり、現実から逃げたり立ち向かったりする。その普通さに読者は引きこまれる。
なぜ引きこまれるのか?
それは大なり小なり人間が生きる実人生と同じ構造をしているからだと思う。自分の周囲のことを完全にコントロールすることなどできない。自分にできることしか自分にはできない。にもかかわらず人間はもがく。ドラマとは、何かをコントロールするものが作るのではなく、そのコントロール内でもがく人間がつくるものだ。そして、だからこそドラマは、あらゆる人間に平等に開かれている。
ストーリーが必要ないと言っているんじゃない。ストーリーは物語を成立させるために必要な要素だ。けれど、そこにキャラクターが存在しない限り、物語は痩せ細ってしまう。もちろん、実人生においてドラマとは、プライベートな、あくまで個人的なものだと思う。また、そんなのいらないよ、という意見もあるかもしれない。僕はドラマが好きだ。
チェンソーマンについて、またくだらないことをつらつらと書いてしまった。たぶんもう完結するまで書かないと思う。
最後に、もう一度アサとデンジのやりとりを書いて締めくくり。お互いのキャラクターがいかに魅力を引き出し合っているか。

「み〜んなバカになってきてんな オマエは大丈夫か?」(デンジ)
「お腹すいた…」(アサ)
「魚食えばいいじゃん」
「魚食べられない…」
「ふーん…」
「デートに誘ってごめん… こんなことに巻き込んじゃって…」(以下アサ)
「意味わかんないと思うけど… アンタを武器にしようとしてたの…」
「でもこんなに追い詰められても…私はやっぱ武器にできない…」
「度胸がないから…とかじゃなくて 理念に反するからとかでもなくて… 武器にできないのは…」
「何が正しいのかなんてわかってなくて… ただ…間違わないようにしているだけだから…」
「だから… だから私はつまらない人間なんだ…」
「なに一人でブツブツ言ってんだ?」(以下デンジ)
「魚食えねえんだろ?」
「じゃん! ヒトデは試したことあるか?」

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