書き残すということ

ものすごく今、書くということ、残すということについてもやもやとした感情に襲われていて、これをなんとか整理しておきたいという気持ちになりました。
たぶん非常にわけのわからない内容になりますが、ご容赦ください。

感情的になったきっかけは、今朝X(Twitter)でリポストされてきて読んだ文章でした。先日急逝したバンドのカリスマ的なボーカルの人物との、若い頃の邂逅を綴った追悼記事で、猫をきっかけとしたやりとりや描かれた情景が美しく心を掴まれました。よく見ると筆者は以前私がやはり感激した記事を書いた方で、こういう不思議な出会いを引き寄せる人っているのだなあと感心して、自分の過去ツイートなども出して紹介したのでした。

ところが、その記事が多くの方の目に留まり時間が経つにつれて、書かれているディテールは創作ではないかという意見が出てきました。(私はそれについて誰かを責めたり肩を持つつもりはありませんし、創作か事実かとあれこれ言う立場でもありません。しかし、亡くなられたばかりでファンの方々の胸の痛みも癒えぬうちに、追悼と冠してこうした記事を出したことは果たしてよかったのか、と疑問になってきましたし、古いご友人やファンが違和感を覚え、更なる憂鬱を抱えることにならないか心配しています)

中には「感動したのに」と残念がる声もありました。比較になることではないかもしれませんが、1980年代末に話題になった『一杯のかけそば』という本を思い出しました。実話を基にした胸を打つ物語として日本中で読まれたのですが、実は創作だと噂され、その他の事情もあっていつしかブームは下火になりました。
私はいま、自分のポストを削除すべきかまだ迷っています。美しい文章だと感じ、それに触発されてあれこれ自分のことまで書いてしまったため、しれっと消したり、感動した気持ちはどうなると憤るのは私自身にとっては何か違うようにも思うのです。

話はまた飛躍しますが、以前、宮古島にあるハンセン病療養所の資料を読んでいたとき、ある方の仰った「年表には園の都合のわるいことは載っていなかったりするからね」という言葉にハッとしました。私たちは、意図的に取り除かれたり書き換えられた歴史を頼りに学んでいることが多いのだと。

ひとつの出来事も語る人によってフィルターが異なるので、幾通りにも違うふうに伝わっていきます。私は、人がそれぞれに経験してきたことを語ったり書いたりするのは自分自身を知ることであり、そこから新しいコミュニケーションが生まれ人生が豊かになっていくはずだと今まで楽観的に考えてきました。でも、なんだか今回の件でその楽観論が揺らぐような気持ちです。

やっぱりこのとりとめのない気持ちはまとめきれません。
ただ、私は自分の出会ってきた方々について書くとき、知らず知らず演出することなく、それぞれの言動をできるだけそのまま書くこと、話を広げすぎないこと、迷惑だろうと思うことについては触れぬことを、これまで以上に心がけようと思います。それからご存命の方にはできるだけ確かめること(いちばん読んでいただいた思い出話は、ご本人に確かめられていないのが心残りです)。

余談ですが、大学時代の思い出話を書いて様々な方とやりとりできた中で、私がいちばん、ああ通じたなあと実感したのは、「人生こんなふうにちょっと情けないときってあるよね」というようなご感想をいただいたときでした。その、憧れに届かない哀しみや、じたばたする可笑しさみたいなものも、生きている中では避けて通れないし受け入れていくしかないのですよね。
キラキラと多幸感のあることを私は自分については書けません。でも、出会った素敵な人たちについて書くのはとても好きです。先日、「人の魅力を文章にするのに向いてる」と励みになる言葉をいただきました。
私はこれからも、そんなふうに少しずつ書いていきながら、ときどき立ち止まって、他の方の大切な物語にも耳を傾けていきたいです。

追記:この項で書くかどうか迷いましたが、片岡大右さんの著書『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』について、読了してから長いこと感想を書けずにいましたので、書いておきます。90年代の雑誌の中で、あの方の語ったこととして掲載された、見るに堪えない言葉や、その発言に対して向けられた憎悪について、なんとなく知ってはいたものの、本の中で改めて読むのは、なかなかの苦行でした。でも、人の関心や攻撃のターゲットがひょいひょいと移り替わり、いつしかあの事件の記憶もなんとなく薄れてゆく中で、あの本の中にしっかりと経過を書き残しておいたことは意味があったと思います。
と同時に、あの炎上した記事の中に出てきた親子や、拡散によって心のつぶれる思いでいた、心身にハンディのある家族を持つ私の友人のような方々が、どうか穏やかに過ごしていらっしゃるようにと、思い出すたびに祈るような気持ちでいます。

最後に、櫻井敦司さんという稀有な存在へ私も心から哀悼の意を捧げます。


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