ロッテンマイヤー哀歌

高校生の頃に同級生の影響でニューロティカを知り、なかでも「修豚哀歌Ⅱ(I love youなんて言えねえ)」などは卒業を前に親友たちと大合唱したこともあって思い出深い一曲だ。

そういえば私はいつも誰かに惚れていた。勝手に気持ちを注ぎ込んで、人のことを大切に思って、一人で嬉しくなって。それが私の原動力でもあった。50代のはじめくらいまでは、それでよかった。

年齢はただの数字にすぎないというけれど、でもねえと最近は思う。だってneeさん、あなたいい歳じゃない、と。孫がいてもおかしくはないのだ。(もちろん、これは自分に対してだけの気持ちで、人にそんな物差しを押し付けるつもりは全くないということは申し上げておきたい)

先日、アルプスの少女ハイジ展に出かけた加藤賢崇さんがロッテンマイヤー女史の等身大スタンドの前で撮ったスナップを見て、うわ!と思った。この頭の固そうで不機嫌な表情の女性、いまの私みたい…と。

ちょうど一年ほど前から、ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏に憧れて、ひっつめ髪にし始めた頃、ほんのちょっと昇任した。年齢的にもヒラは少し辛いなとは思っていたのだけど、いざ立場が変わってみると、なかなかハードであった。なにしろ、大好きな郷土資料に囲まれて調べものに対応したりと自分のペースでやりがいのある仕事をしていたのが、いきなりカウンターから事務室の中に引っ込んで、マネージャー的な立場になってしまったのである。慣れない契約や、施設内のトラブルあれこれ、職場内から上がる不満への傾聴など、様々な対応で仕事は果てしない。ご利用者に満足してもらえているかも分からない。もとから化粧っけもあまり無いが、濃いグリーンのエプロンを着てせわしなく館内を歩き、同僚の遅刻にモヤッとし、せせこましい自分に悩む私は、高校や大学で音楽と洋服のことばかり考えて、のほほんと遊び回っていたあの少女と本当に同じ人間なのだろうかと信じられない。

子どもに読み易くリライトされた「ハイジ」の物語を読んでいた幼い頃、ロッテンマイヤーさんはダースベイダーみたいな(かのギンズバーグ女史も名前をもじって、そう揶揄されていたこともあったらしい)存在であった。でも実はいたって正論の人なのである。正しすぎて厄介な人。真面目が過ぎるのだ。だからつまんないのだ。それどころか人に圧まで与えるのだ。

ニューロティカを熱唱していた自分も、年月が経って、いつしかロッテンマイヤーさんになっていた。立場上、きちんとしていなくてはいけないと自縄自縛に陥っているのが哀しい。中立であらねばならないと、誰に対しても肩入れしなくなり、そうなると感情も平板になって、最近では音楽を聴いて感動することも少なくなってしまったし、誰かに惚れこむこともなくなってしまったのだ。ああ。感情が枯れている。哀しい。

でも嘆いてばかりいたら、もっと枯れてしまうから、私は私なりに、ニュー・ロッテンマイヤーにならねばと思う。正論だけでは人生はつまらないのだから。願わくば涼しい顔をして、心の中でいついつまでもI love youとお前を思って唄いつづけたい(と、ここのフレーズはニューロティカの歌詞を頂戴して再構成した)。そう思う。

そしてここまで書いて、ロッテンマイヤーさんが37歳と知って白目をむく54歳の私なのだった(おしまい)。

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