書くこと生きること

宮古毎日新聞 2021年10月26日掲載


頭の中にぽこぽこと泡のように浮かぶことなどをノートの端っこに書き始めてから、どのくらい経つだろう。これまでに出会った恩人たちの顔が胸をよぎる。

中高校生の頃、当時読んでいた少女向けのファッション雑誌編集者が憧れの職業だった。その後、東京の私大への進学が決まった。宮古高校の渡真利清太郎先生や友利昭子先生からは、ずっと書き続けなさいと激励を受け、何事も中途半端な私には大きな支えとなった。
大学卒業を目の前に、沖縄のある出版社を訪問した。採用には程遠かったが、宮古の若者文化について雑談するうちに「それ面白いね、書いてみない?」と声をかけられ、WANDERという雑誌に初めて自分の文章が掲載された。その方は同誌の編集長でありコラムニストの新城和博さんだった。

嬉しくてそのことを同級生に伝えた。将来はシナリオライターになりたいという夢を抱き、何か宮古の若者たちについて書きたいねとよく構想を出し合っていた。数年後、彼女と新城さんが繋がり、宮古の本をつくることになった。その同級生―宮国優子さんが奔走して完成した『読めば宮古!』は、同世代を中心とした書き手たちが綴る宮古の魅力が詰まった本で、拙い部分もあったが、いろいろな方に読んでいただくことができた。

昨秋亡くなった母は、養護教諭を勧奨退職後、50代になってからエッセイを書き始めた。母の人生経験が文章になったものを読むのは興味深かった。私も、新聞など公に掲載される文については、独り善がりになっていないか毎回母に目を通してもらっていた。2018年に母は『喜怒哀楽』というエッセイ集を花View出版から自費刊行した。生まれ故郷の、うるま市立図書館にも寄贈したところ、館長から連絡が入った。文中に登場する、南方で戦死した祖父(母の父)の写真についてだった。具志川市史編さんスタッフの一人として、その資料に関わったのだという。人の縁は不思議でありがたい、あらためてそう感じた。

宮古毎日新聞に掲載された「母への最後の手紙」というエッセイが絶筆となり、母は旅立った。最期の日々に献身的な介護を続けた姉と妹、悲しみをこらえ喪主を務めた父の姿を私は忘れることはないだろう。

その一か月後、さらに訃報が届いた。宮国優子さんの急死。奇しくも私の母が一命をとりとめた、くも膜下出血で帰らぬ人となった。これからまだまだ宮古のためにやりたいことが山積みだったろうと思う。

コロナ渦のなか、たくさんの人が亡くなられた。ある葬儀に出席したとき、人数制限による出席者数の少なさと、肩を抱いて寄り添い一緒に泣くことすらできない状況が切なかった。多くの方が、大切な人の死を平常時のように悼むこともできず、胸に想いを抱えたままなのではないかと想像すると、また涙が出そうになる。

特別な勉強をしたわけではない私が、たまたま地元新聞の記者に採用されて社会人一年生となり、編集の仕事も経験し、幾度かの転職を経た今でも細く長くあちこちで文章やイラストの依頼をいただけているのは、励まし後押しをしてくれた方々や家族の存在があったからだ。私もこれからは誰かを支える大人のひとりになりたい、そう振り返る秋の日である。

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