徹底討論!【井上寿一×本郷和人】教育勅語と天皇退位が世を賑わす平成ニッポンの現状を問う!

――日本の歴史上、天皇が表立って行動する時代は混乱期であることが多い……? 日本近代史と日本中世史、歴史学界の泰斗である2氏が、その豊富な歴史的知識をもってして問い直す、教育勅語問題、そして天皇退位がニュースとなる現代ニッポンの行く末──。

学習院大学法学部教授・井上寿一(近現代政治外交史)×東京大学史料編纂所教授・本郷和人(中世史)

明治天皇の「御真影」としてあまりにも有名な1枚。写真師の丸木利陽が撮影したものとされる。

本郷和人(以下、本) まずは井上先生に、「教育勅語」誕生の経緯と成立後の変遷を簡単にうかがいましょうか。

井上寿一(以下、井) 教科書的な基礎知識を整理すると、誕生の直接のきっかけは、1870年代半ばから始まった自由民権運動の激化でした。混乱した社会を、道徳規範によって安定させようといった目的もあったのでしょう。教育勅語が発布された1890年は、大日本帝国憲法が制定された翌年に当たり、また帝国議会が開設された年でもあります。この頃日本は、幕末に江戸幕府が欧米列強と結んだ不平等条約を改正すべく、日本が西洋的な近代国家であることを国内外に示す必要がありました。不平等条約が結ばれた原因のひとつは、当時の日本に憲法が存在しないこと。近代化の過程で「日本はアジアの国であると同時に西洋の国なんだ」「不平等条約を次々と結ばされ国力が衰退していた当時の中国清朝とは違うんだ」ということをアピールしなくてはならなかった。清朝では君主が道徳的に民衆の上に立ち、憲法も存在しませんでしたから。自由民権運動対策だけでなく、そうした理由からも日本は、帝国憲法制定を急いだのです。

 他方で、教育勅語の文案をまとめた法制官僚の井上毅は、憲法に基づいて国家が運営される「立憲主義」を厳格に運用しようとしていました。帝国憲法の下に国家を運営していくのであれば、「君主は臣民の良心に干渉してはならない」。つまり西洋近代的な立憲主義の理念から考えれば、天皇は臣民の内面や自由に干渉しないのです。したがって教育勅語も、法律、軍人勅諭、軍令のようなものにしてはいけないと考えました。このように、近代化≒西欧化と立憲主義の文脈の中で、教育勅語が生まれたのです。

本 教育勅語を復活させようとする現代の人間が「良かった面がある」なんて言うときに持ちだすのは、必ず儒教的な倫理観です。「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」といった部分ですね。でも、友人を信じようとか夫婦仲良くとかそういったヒューマニズムは、日本だけのものだけじゃなく、世界のどこにでもあって通用するもの。そもそも教育勅語には、ほかにもいろんな価値観が入っていますよね。

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