見出し画像

【9/11】わたしのことを無視しないで

今日から、本屋さんに私の初書籍『寂しくもないし、孤独でもないけれど、じゃあこの心のモヤモヤは何だと言うのか 女の人生をナナメ上から見つめるブックガイド』が並ぶんでいる。それを記念して(?)9月10日から10月10日まで、黙々と雑記をアップすることにしたので、「ふむ」と思ってもらえれば幸いだ。

昨日は更新初日なので今回の書籍に込めた思いのようなものを語ったのだが、今日からは書籍とは関係あるようなないような、普通の雑記である。特に今日のやつは、なんとなく最近考えていることってだけなので、ちょっと取り止めのない内容になるかもしれないけれど。

「人間は無視されるとつらい」ということについて、最近考えている。「当たり前のこと言うんじゃねえ」って感じかもしれないけど、まあ先を急がず聞いてくれ。

きっかけはAMの連載でも扱った鷲田清一さんの『普通をだれも教えてくれない』というエッセイ。この本の中に、「人間が一番必要としているのは、自分がだれかの無視できない他人でありえている、という実感です」という言葉があるのだ(ちなみに上の8月29日更新分は、今回の書籍には未収録である)。

「無視」にもいろいろ種類というかレベルがあって、まずは小中高生がクラス内でやるような直球の「無視」。これが地味にじわじわつらいのは、経験に関係なく、だれでも想像できるはずだ。私も、小中高時代にいわゆる本格的な「いじめ」には遭わなかったものの、ふとした一言で友達を怒らせてしまい半日くらい無視されたことだったらある。もっとも、私は良く言えば鷹揚、悪く言えば鈍感なので、「ほっときゃそのうち気が済むだろ」と大きく構えて、図書室で本を読んでいたが……。

小中高生がやるような「無視」はわかりやすいけれど、大人の世界で起こる「無視」は、その姿がもっととらえにくい。

まず1つは、「関係性における無視」。これは私が勝手に考えた言葉なので適切かどうかはわからないが、広義の意味では、これにビビってない大人はいないのではないかと思う。

「あの人のSNSに私が登場していると嬉しい」って感覚は多かれ少なかれだれにでもある気がする。「○○さんと飲んだよ」「○○さんの言ってた本が面白かった」とかってSNSで報告されたときの嬉しさ、あるいは一緒に飲みに行ったのにスルーされてしまったときの寂しさってなんなのか(そういう私は、SNSで誰かとの交友関係をおおっぴらにするのが苦手なので、いつもスルーしているんだけど)。SNSというのは開かれた場なので、そこに登場させてもらえているということは、彼氏の友達に紹介してもらえたみたいな、そういう承認欲求が満たされるのだろうか。

あるいは、芸能人のゴシップ報道を見るとわかりやすいけれど、結婚前の恋人の状態のときは、彼らはとにかくマスコミの目を避ける。同じマンションに入るところはもちろん、西麻布のレストランで一緒に食事をしているところだって、撮られないように細心の注意を払う。ところが一度結婚すると、今度はテレビや雑誌やウェブメディアや、ありとあらゆるマスコミを招いて記者会見を行う。この違いはいったいなんなんだ、なんて考えたりする。芸能人ほどじゃないにしろ一般人の我々にも同じような感覚はあって、結婚すると何かが「公」になるらしい。結婚したい女性の中には、もしかしたら「わたしのことを無視しないで」「いつまでみんなから隠れなきゃいけないの?」という感覚があるかもしれない。公の関係になれること、人前で堂々と振る舞えること、無視されていないこと。こういう感覚が自己肯定感を育てることは容易に想像できる。反対に、愛人のつらさ、不倫関係のつらさは、これをそっくりそのまま反転させればこちらも想像に難くない。みんなから隠れなきゃいけない。それはきっと、なんだか自分が無視されているようなつらさがあるのだろう。

もちろん、関係をオープンにさえすれば万事解決とはならない。下のマンガは押見修造『血の轍』5巻にあるページだ。詳しい内容はネタバレになっちゃうので避けるが、このお母さんは、夫の義実家との関係が上手く行っていない。しかし問題は、上手くいっていないこと自体にあるのではなく、「それでも、表面上は上手くいっているかのように振舞わなければならない」ことにある。自分の感情を無視され、自分の存在が無視される。そのことが、このお母さんを蝕んでいってしまう(もっとも、マンガ内でまだ具体的なエピソードは登場していないものの、このお母さんの苦しみはどうやら夫や義実家だけに原因があるわけではなさそうだ)。

画像1

さらには、やっぱり「社会における無視」みたいなものもある。

「じぶんが傷つけた他人の顔を見たとき、逃れようもなくじぶんがそこにいるのを感ずる」。これは先の鷲田清一さんのエッセイに出てきた、谷川俊太郎と寺山修司のビデオ作品にあるセリフらしい。なんとなくだけど、昨今の社会の殺伐とした感じは、この言葉に集約されているのではないかと思ってしまう。

他人事のように書いたけれど、私もこの感覚に覚えがないわけではない。家族や恋人や友人に、ものすごくひどいことを言って傷つけたくなってしまったこと、きっとみんなあるのではないだろうか。仲が良いからこそ、よく理解しているからこそ、相手がどんな言葉でもっとも傷つくかも知っている。「わたしのことを無視しないで」を「わたしのことを愛して」に変換するとなんかわりと穏便だが、「憎んでもいいから無視しないでくれ」に変換すると、これはもっと切実だ。

鷲田清一さんも、いじめっ子には「憎むという形でもいいから、じぶんのことを意識してくれ」という思いがあるのではないかと本の中で語っている。だれかに差別的な言葉を投げかけたり、人の上に立ったように見せかけて支配したり。相手にとって、じぶんが無視できない存在になること。すべての人がそうだとは言わないが、露悪的なまでに差別的な言動をしている人って、こういう心理があるんじゃないのかなーなんて考える。

記憶に新しいところでは、先週ある女子高生が、バイトを頑張って車を購入した報告をTwitterにあげたら「JKのくせに」「顔隠すなブス」と炎上したという、もう、ほんとしょ〜〜もないことがあったけれど。

炎上させる側が100%悪くて女子高生に罪はないってことには私も異論なしなのだが、一方で、人間の「嫉妬」という感情を、あまり軽視しないほうがいいのかもしれない、なんて考えたりもする。どうしたら軽視しないことになるのかって話になると、まあまたこれがややこしくなってくるんだけど……。

「そんなことで嫉妬するなんてしょーもないやつだなあ」って言うことは簡単だし、ぶっちゃけ私もそう思う。でも、どれだけ仕事を頑張っても車が買えなかったり、あるいは頑張って車を買ったくらいではだれもこちらを見てくれなかったり。もしも私がそういう境遇にある人間だったら、この女子高生に嫉妬しちゃうかもしれないし、「みんな叩いてるからじぶんだって!」と勢いづいて炎上に加担しちゃうこと、あるかもしれない。もちろんこれは「だから叩いてもいい」という話では決してないのだけど、「どんな境遇にあったとしても、じぶんは絶対にそんなことはしない」と言い切れる人は、はたして何人いるだろうか。「いい年した大人が女子高生に嫉妬すんなよ」と笑うことは簡単だけど、それはだれかの、やり切れないつらさを無視してしまうことにもなる気がする。

こういう感覚を無視しないこと、どうやったらできるんだろうか。社会の中で何か設計できないだろうか。この世界のすべての人の感覚をやり過ごさないこと、存在を無視しないこと、そんなことははたして可能だろうか。

なんてことを考えつつ、今日はこのへんで。ちなみに「いま嫉妬で苦しんでいますナウ」という人がいたら、前に書いたこちらのコラムをよかったら読んでください。



شكرا لك!