6号線

【日記/43】「これからの」人にならなくても

「これからの時代の生き方」とか、「これからの時代はこんな人が生き残れる」とか、そういうインターネットの記事や著名人のツイートを目にすることがある。そういうとき、私はだいたい「これからの」で言及される項目に当てはまらないので、「いーですよ、こっちはこっちでやるんでっ!」などと拗ねているのだが、今回は、その拗ねたところから話を始めるとする。

私が信じているもののひとつとして、まあこれも「私が信じているもの」でしかないからそもそもそれが間違ってる、という捉え方もできるのだけど、「とにかくいろんな人がいっぱいいたほうが社会にとっていい」という思想がある。先日、Yahoo!知恵袋で話題になっていた名回答があったけれど、我々は全員が弱者だ。アマゾンの奥地や砂漠のど真ん中に何の装備もなくたった一人で放置されたら、残念だけどまずだれも生き延びられない。私もあなたも、孫正義も、ザッカーバーグも。

そんな弱者だらけの社会のなかで、何が「強み」となり何が「弱み」となるかは、時代や状況次第で簡単に変わってしまう。現在「強み」とされているものは、社会の事情から一時的に、恣意的に選択されたものに過ぎない。今は「弱み」とされている特質でも、それが「強み」に変わることはいくらでもありえるし、我々は全員が全員の「保険」なのだ。なんて書くと、「こいつまた屁理屈こねやがって」と思うかもしれないが、なんといっても私は拗ねているのだから、屁理屈こねるのは当然である。

で、まあぐだぐだいうのはこれくらいにして、ここからが本題なのだけど、私は上記のような考え方をしているので、全員が全員同じ方向を向かないほうがいい、向く方向はある程度ばらけていたほうが社会全体にとってはお得、だと思っている。具体的にいうと、モテる人もモテない人もいたほうがいいし、バリキャリもゆるふわもいたほうがいいし、働くママも専業主婦もイクメンもいたほうがいいし、プロブロガーもニートも先祖代々の稼業を継ぐ人もいたほうがいいし、ベンチャーも大企業もあったほうがいい。定住する人も旅する人もいたほうがいいし、自己肯定感が高い人も低い人もいたほうがいい。ちょっと判断が難しいのは極右とか極左とか、その他危険思想を持っている人なのだけど、何を危険思想とするかってのは難しすぎる話題なので、ここで語るのは控えておく。まあとにかく、明らかな害悪でなければ、みんな社会にとって必要だし、不必要な要素なんてない、と私は思うのだ。

「これからの」という言葉でだれかが何かを語るとき、その人は多様性を推し進めようとしているのか、あるいはひとつの方向に収束させよう、多様性を狭めよう、としているのか。前者であれば私はその言説に乗るけれど、後者の雰囲気を少しでも察すると、屁理屈をこねまくって、ヤダヤダヤダヤダ〜とじたばたしてしまうのであった。早い話が、不安を煽るような言説が好きじゃないのだ。とはいえ、この考え方でいうと「不安を煽るような言説も(明らかな危険思想、害悪ではないので)あっていい」という発想になり、それはもちろんそうで、ただ単に私が好きじゃないって話だ。あってもいいともちろん思う。

まあなんていうか、テイクイットイージーだ。モテないからって、そのモテなさに自分が納得しているんであれば、無理してモテる必要はない(モテるモテないというのは例えね)。だれかが声高に叫ぶ「これからの」人にならなくても、たぶん平気だと思う。

شكرا لك!