フエギア_

【10/25】旅と香水

不思議なことに、香りは旅の記憶をふと甦らせることがある。

スパイシーな調味料の香りは、20歳のとき、夜に台湾の屋台の間を歩いたときのことを。薔薇のポプリの香りは、青く塗りつぶした天井に星の絵がキラキラと輝いている、アッシジのサンタ・キアラ教会のことを。

レモングラスの香りはカンボジアのホテルの庭のことを思い出させるし、甘いミントの香りは、モロッコのカフェで飲んだミントティーの記憶を甦らせる。

ミントティー

レモンの香りは、シチリアのパレルモ大聖堂のことを。香炉で香りを振りまきながら、人々は神に祈りを捧げていた。そしてほのかなエスプレッソの香りは、バーリの駅にあった小さなカフェのことを思い出させる。

旅先の香りは最初、異邦人の私をあまり歓迎せずに包み込み、立ち去るときに、鼻腔に少しだけ懐かしさを残すのだ。

南米の蝶々

今年4月に訪れた南米大陸には、強い香りに誘われて集まる蝶がいるという話だった。

香水を身にまとった女性が彼らに近づくと、女性は一瞬にして、天に召されるように大量の蝶に包まれる。『百年の孤独』にある、あのレメディオスがシーツに包まれて天に昇っていくシーンは、ガルシア=マルケスが実際に目にしたそんな光景からインスパイアされたのではないか。これは『百年の孤独』の解説に書いてある話なんだけど、初めて読んだときから、私はこの解説文をなかなか忘れることができないでいる。私が南米にどこか強く香りのイメージを持っているのは、だから、きっとガルシア=マルケスのせいだと思う。

薔薇の香りが漂う夜の海から、小さな蟹が、おぞましいほどたくさん岸に上がってくる。寝ている人間を蟹が覆い、薔薇の香りは何をしても消えない。強く、しつこく、危険で、しかしどうしようもなく魅惑的な香り。これはガルシア=マルケスの作品『失われた時の海』という短編小説のエピソードなんだけど、そう、南米大陸って、私にとってはそういう「香り」のイメージなのだ。

アルゼンチン1

アルゼンチンに旅行に行くことを決めたとき、最初に頭に浮かんだのはそんな「香り」のことだった。

「香水に興味が出てきた」と話したら、友人(小池みきさん)にFUEGUIAというブエノスアイレス発のブランドをすすめられる。公式サイトを見ると、各フレグランスはアルゼンチンの歴史や文学、パタゴニアの大自然などからインスピレーションを得ているということだった。

ブエノスアイレスに店舗があるというので、4月に、実際に訪れてみた。薄暗い店内で、フラスコをひとつひとつ手に取って、気になる香りを嗅いでいった。

品切れだったり日本と異なる気候の中で決めることが困難だったりで、私も小池みきさんもブエノスアイレスの店舗で買うことはなかったが、結局は帰国後に六本木のグランドハイアットの中にある店舗にて、それぞれがお気に入りの香水を買うハメになった。

フエギア

「ボルヘスに関連のある香水を教えてください」と六本木の店でいうと、平日の昼で人がほとんどいなかったこともあってか、フエギアの「文学コレクション」の香水を店員のお姉さんがひとつひとつ丁寧に紹介してくれた。

最終的に私が手に入れたのは、フエギアの『Biblioteca de Babel』。シナモンの香りが強い香水だ。

でもいちばん惹かれたのは、香り自体よりも、ボルヘスの短編小説『バベルの図書館』からインスピレーションを得たというそのコンセプトである。図書館にある本や紙、インク、革張りの椅子の匂いをイメージしているらしい。『バベルの図書館』を私が今年の冬に読んだが、難解で人を食ったようなところがあり、読みやすい小説とは言いがたい。だけどその謎めいた雰囲気が、とても魅力的な作品だと思っている。

7月はじめ、小雨の降る湿気の多い日だった。この香りに見合う人間になろう、と思って私は紙袋を下げて店を出た。

フエギア 本体

今は夏も終わり、秋はほんの一瞬で、もう冬の足音が聞こえ始めている。

7月のはじめに買ったフエギアの『バベルの図書館』は寝香水として、以来ほぼ毎日活躍してくれている。香り自体は決して眠気を誘うようなものではなく、どちらかというと覚醒させる系だと思うけど、毎日寝る前につけているせいか、私はこのシナモンの香りを嗅ぐと眠くなってしまう。

『バベルの図書館』に見合う人間にはまだなれていないと思うけど、旅と香りの不思議な関係について私は考える。旅に出ると香りに敏感になるのは、自分の家の匂いはほとんどわからないのに、他人の家の匂いはよくわかるような、アレかもしれない。なんだかしみったれた例えになってしまった。

私が次に狙っているのは、またもフエギアの香水『 Elogio de la Sombra(闇を讃えて)』。これも、ボルヘスの詩集からイメージしたものらしい。

旅はどこか香りを誘い、香りは文学性を帯びる。私も帯びられるといいなあ、文学性。


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