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【日記/24】ふしぎなおかね

最近の私は、ちょっと金銭感覚が麻痺している。

といっても、別に高級ブランドのバッグを買い漁っているわけでも、海外のリゾート地で豪遊しているわけでもない。明日から急に恵比寿のフレンチの写真をTwitterにあげたりしないし、胸の谷間を自撮りすることもない。そっちとは、逆の方向に麻痺しているのである。

毎年冬が訪れるたび、私は「白菜いっぱい食べないと死んでしまう病」という病気にかかってしまうので、今日も今日とて黙々と白菜を消費している。白菜はシンプルに食すのがいちばん美味しいので、私はスーパーで100円以下で買ってきた白菜を茹でて、ポン酢をかけて食べている。それで、私の腹はだいたい1日満たされてしまう。ちなみに、ポン酢に飽きたときはこれを作ることにした。先日の日記にも書いたのできっと「またかよ」と思っている人がいることだろう。でもこれ美味しいんだよ。


そんな食生活を送っていたら、1月の食費が1万円を下回ってしまった。このなかには、友人との飲み代は含まれていないが、自分1人だけのときの外食は含んでいる。私はもともと食にお金をかけるタイプではないが、特に努力も意識もせずただなんとなく過ごしていたら月の食費が1万円を切ってしまったので、ちょっとびっくりしてしまった。しかし、その代わり本を買うお金として1万円を余裕で超える額を使っていたので、「こいつ何食って生きてんだかわかんねえな」と思った。

私の家には昔「かさじぞう」というお伽話の絵本があって、これは心優しいじいさまが雪の降る寒い日に地蔵の頭に笠をかぶせてやって、その恩返しにと地蔵が米俵と野菜と魚などをたくさん持ってじいさまの家にやって来るというハートフルなストーリーなのだが、この絵本に描いてあった白菜の鮮烈なイメージを、すでにアラサーである私は未だに引きずっているのだ。白菜とは、地蔵が恩返しに持ってくる食材であり、私にとっては吉報というか幸福の象徴のような野菜なのである。スーパーでよく買う1/4サイズの白菜もいいが、特に1束まるごとの白菜を見ると、私は多幸感で頭のなかにいっぱいお花が咲いてしまう。

白菜を見ただけで軽くラリれるくらいの幸福感を味わえるのだから、自分はなんて安上がりな人間なのだろうと思う。私は最近、お金の価値がよくわからない。ある人のところにはどんどん集まるし、ない人のところからはどんどん去っていく。あっても幸せになれる保証はないし、なくてもあんまり死なない。というか通貨とは1つの観念であり、共同幻想のようなものである。どうしてそんなものをみんなして信じているんだろうとか考える。そして自分は、貧乏でも金持ちでもあんまりマインド変わらないんだろうな、と思った。

冬が終わって春が来て、夏になったら今度はきゅうりをいっぱい食べようと思う。2016年、秋を迎える頃には、私は頭の上にお皿が乗ったかわいい河童に変身していることだろう。


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