見出し画像

【日記/7】拝み屋に5億円盗られた辺見マリのこと

このTV低迷の時代に人気を博しているという噂を聞いて、「しくじり先生 俺みたいになるな!!」という番組を見てみた。この番組は、過去にしくじった経験のある有名人が先生として教壇に立ち、生徒に「俺みたいになるな!!」と授業をする、という構成のものである。

私は、なかでも「神回」と評判の高い辺見マリの回を見てみることにした。辺見マリとは、辺見えみりのお母さんである。

辺見マリは、神様の声を聞くことができるという拝み屋に洗脳され、13年間で5億円失ったという経験の持ち主だ。番組は、オードリー若林やハライチ澤部が場を盛り上げ、笑えて泣けて勉強にもなるという、まさしく「神回」の名にふさわしいものになっていた。

番組の詳しい内容は、実際に見るか、探すと他のサイトがわかりやすくまとめているので、そちらを参照したほうがいいだろう。「A・安心」「O・驚き」「S・嫉妬」「K・囲い込み」、「AOSK(アオスク)」と覚えろと辺見マリはいっていたが、まずはお金を取らずに客の不安や悩み事を親身になって聞き、安心させるところから、洗脳は始まるという。そして、自分の父親のことなど本来その人が知り得ないような情報をいい当てて驚きを与え、次に他の客にとても親切にしているところなどを見せて嫉妬させる。最後に、社会との繋がりを断ち切らせ、客を囲い込む。社会との繋がりがなくなった客は、正常な判断ができず洗脳状態となり、騙す側にとっての無限ATMと化す、というわけだ。具体的にいうと、この段階まで来て辺見マリは芸能人の仕事を辞めさせられた。

しかし、5億円というと莫大な金額である。芸能人ってやっぱりお金持ちなんだなあと呑気に見ていたが、そのうち辺見マリがもともと自分で持っていた貯金は2億円程度で(それでも十分すごいが)、残りは銀行や知人からの借金と、娘・えみりのギャラに手をつけたとのこと。マリは自分を最低な母親だといって番組中に涙を流していたが、ここまでエグい話をよくバラエティ番組でネタにして笑って語れるまでに心の整理をしたなあと思うと、本当に感心してしまった。

さて、私がこの「しくじり先生・辺見マリ回」から得た教訓は3つだ。

1つは、どのようにしたら我々は拝み屋のような洗脳から逃れられるのかということ。番組ではそれを「最後、マリを洗脳から解き放ったのは家族の愛の言葉だった……!」というように感動で片付けていたが、そこはもう少しシステマティックに考えたほうがいいだろう。家族の愛の言葉が無効だとはいわないが、マリが13年間、娘のえみりが泣いて頼んでも拝み屋へ貢ぐことを止められなかったことを考えると、それはやはり根本的な解決策にはならない。大切なのは、やはり「社会との繋がり」だ。洗脳の最終段階でマリが仕事を辞めさせられたこと、そして洗脳が解かれる前段階で仕事に復帰していること、それが何よりの証明である。

「社会との繋がり」が辺見マリにとっては仕事だったわけだが、おそらく複数のコミュニティや依存先を持っていたほうが、人間は精神的に安定する。いくら愛する家族がいても、人は家族だけでは不安定になってしまう。家族がいて、友人がいて、恋人がいて、仕事先の仲間とお客さんがいて、他にもいろいろな繋がりがあって、初めて人は安定するのだろう。友人のコミュニティなどは、学生時代の友人のコミュニティ、趣味のコミュニティ、仕事や価値観が似ている者同士のコミュニティなど、幅があれば幅があるほどいい。

しかし、問題なのはこの「複数のコミュニティや依存先を持つ」ということの難しさである。コミュニケーション能力的な問題はもちろんとして、複数の価値観に身を晒す、というのは本人にとってなかなか苦痛なんである。今をときめくウェブメディア業界で活躍している人間は、凝り固まった大企業の人間と話をしていても、あまり面白くないだろう。逆もまた然りである。私などは、地元で早くに結婚してお母さんをやっているような同級生と話をしてもあまり面白くないとかんじてしまうのだが、これは同じ原理だ。価値観や判断基準を拝み屋などという得体の知れないものに一本化させるのは危険だということはだれが考えてもわかるが、それ以外のもう少し身近な話になると、これはなかなか意識されにくい。いずれにしろ、複数の価値観に身を晒しても大丈夫なメンタルの強さ、自分の哲学の確立、思考の柔軟性や俯瞰する力などが、今後ますます重要になっていくだろう。拝み屋までいくとかなり話が重くなるが、膣にパワーストーンを入れるといいだとか、根拠のない似非科学や健康話などは昨今後を絶たない。

2つは、拝み屋やらスピリチュアル商売やら、加害者になる人間のデータをもっと集めて公表したほうがいいのでは? ということ。これは教訓というよりは、単純な私の興味でもある。現在、被害に遭わないためのHOWTO情報はわりとある気がするが、加害者に関する情報はほとんどない。どういった人間が拝み屋などという稼業を始めるのか。ネズミ講の上層部にはどのような人間がいるのか。もちろん、これはいろいろな制約(拝み屋は違法になると思うが占い師は合法だと思う、ただその線引きがすごく難しそう)が絡んで難しいのかもしれない。

番組内で興味深かったのは、洗脳中、拝み屋と共同生活を営んでいた辺見マリが、スパゲッティナポリタンをおかずに白米を食べさせられたというエピソードである。笑い話ではない。拝み屋は、マリにこうした炭水化物×炭水化物の食事を、よく与えたという。もちろん、このような食生活を送っていたマリは激太りした。

洗脳やマインドコントロールに詳しい、立正大学心理学部の西田公昭教授によると、拝み屋になるような人間は、大きなコンプレックスを抱えていることが多いという。拝み屋は、美しいマリの容姿を変えたくて、このような食生活を送らせて太らせ、優越感を得たかったのではないかと西田教授はコメントしていた。こういった、加害者のプロファイリングはかなり興味深い。被害に遭わないための方法を知ることも大切だが、敵を知ることも身を守るための一助となるだろう。いや、単純に面白いので、専門家の方々はもっと頑張ってデータを収集して公開して欲しい。

最後に、3つ目は、「人に語ることの効用」である。辺見マリは、今回の番組出演にあたって、かなり心の整理をしなければならなかったと思うし、それなりの覚悟を持って収録に臨んだだろう。そして結果、視聴者に深い教訓と笑いを与えるという、質の高いバラエティ番組を作り上げることに成功した。私はスタッフではないので、もちろん推測でしかないが、辺見マリはとてもいい表情で授業をしていたように見えた。

「俺みたいになれ」という類のアドバイスをするのは容易い。が、「俺みたいになるな!!」という形で有益なアドバイスをするのは、実は難しい。「俺みたいになるな!!」は失敗談であり、恥部だからである。自分にとっての恥部を、他人に役に立つように、笑いも交えて語るというのは、高度な物語化能力が要求される。

世の中にはネバーエンディングストーリーなんていうものも存在するが、それは例外として、多くの場合「物語」には着地点がある。起承転結の「結」にあたる部分である。終わっていない物語を、人に語ることはできない。漫画の連載は? などというツッコミが入るかもしれないが、あれも一応「終わり」を目指して進んでいるという点では同じである。

人に自分の体験したことを上手に語るには、それがその人にとって「終わって」いるか、もしくは「終わりを目指して」いる必要がある。辺見マリが、「終わって」いたから番組に出演できたのか、それとも番組に出演するために「終わらせた」のか、どちらなのかはわからない。前者でも十分すごいことだとだが、もし後者、他者に語るために物語を終わらせたのだとしたら、「人に語ることの効用」の凄まじさに、私はただただ感嘆するばかりである。

同じことは、ダークツーリズムを目的とした世界の観光施設にもいえる。カンボジアにとって、ポル・ポトによる虐殺の歴史は国にとっての恥部である。しかし、凄惨な死の現場であったトゥール・スレンを博物館とし、今も人骨が出るというキリング・フィールドとともに観光地化することで、おそらくカンボジアの人々は、あの悲しい歴史を自らの手によって「終わらせた」のだ。現場を観光地にすることによって、初めて事件は歴史になることができる。世界のダークツーリズムの施設は、歴史が語る「俺みたいになるな!!」の集積なのである。

だから、もしあなたのなかに何かしらの「恥部」があるのだとしたら、それを人に語れるようになるといい。ただ語るだけでもいいのだけど、できればより面白く、できればよりドラマチックに、できればより他人にとって有益になる形で。もしその「恥部」が語れないのだとしたら、それはまだあなたのなかで終わっていない、ということだ。良い意味でも悪い意味でも。

今日の日記は日記といいつつ、日記とはいい難い長さとボリュームの話になってしまった。今年はブロガーらしくブログかnoteのどっちかを毎日更新することにチャレンジしてみようかななんて思っているのだけど、こんなペースで続くのだろうか。みなさんも洗脳には十分気を付けてください。


شكرا لك!