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【日記/78】日記を読み返すと笑ってしまう

ここでいう「日記」とは、noteに書いているこの「日記」や、自分のはてなブログのことではなく、私が高校生のときから付けている「紙の日記」を指す。基本的にはズボラ人間の私だが、なぜか「紙の日記」に関してだけはマメで、高校生のときから紙のノートにほぼ毎日、日記を付ける習慣があるのだ。

大学院生のとき、2009年からそれはキャンパスノートからほぼ日手帳へと場所を移し、以降私はずっとほぼ日ユーザーである。2017年のほぼ日手帳で、8冊目だ。

「紙の日記」のいちばんのリスクとして、「万が一、自分が不慮の事故などで死んだとき、人目に触れさせたくない内容を親や知り合いに読まれる(かも)」というものがある。もちろん私もそれは多少懸念しているのだが、「ま、死んだらどうでもいいか。だって、私いないし」という感じで、けっこう気楽に構えている。

そんなわけで、「紙の日記」をもう10年以上書き続けていることになるのだけど、こんなしちめんどくさいことを私はなぜ続けているのか。

これには、「書くことで頭の中が整理されるんです」というインタビューとかでろくろを回しちゃう感じの意識高めの理由もなくはないのだけど、「数年後に読み返したとき、超笑える」というのが自分の中ではけっこう大きい気がする。

私は、落ち込んでいるときは日記に「落ち込んでいる」と書く。

落ち込んでいる理由はそのときによって様々だが、先日日記を読み返していたら、航空券を買うために1日で10万以上を支払っており、そのことに超落ち込んでいた。もちろん、旅行は私の最大の趣味でありライフワークなので、10万でも20万でも30万でも存分に使いたまえというのが平時の基本的なスタンスではある。しかし、根がケチで小心者の私は、3万を超える金額を一度に使うと心臓がシューーーンとなってしまうのである。だから、自分で決めた旅行で自分の好きなことのために自分で納得してお金を払っているのに、なぜかそのことにめちゃくちゃ落ち込んでおり、その日の日記には「航空券を買ったからもう私は何もできない」みたいなことが10行くらいに渡って書かれていた。しかも、誤字や句読点のミスが散見し、心の動揺をダイレクトに表す非常にわかりやすい内容になっている。

こういう日記を読み返していると、「こいつ、すげえ頭悪いんじゃないか」「なんでこんなにアホなんだ」などと私は心配になってくる。しかし同時に、その度に一人でめちゃくちゃ笑ってもいる。自分で書いた日記に自分で大ウケして笑っているんだから、究極のコスパ野郎というか、永久機関野郎である。日記を書き込んでいるときの私は決して誰かを、もちろん未来の自分を含めた誰かを、つまり他人を笑わせてやろうなどとは微塵も考えいない。常に一生懸命、大真面目、深刻だ。しかしそれが余計にバカっぽさを引き立たせ、後で読み返すとめちゃくちゃ笑ってしまうのである。

やっぱりこれはデジタルでは出せない味で、他人に見せないとはいえ非公開ブログやevernoteなどに日記を書いてしまうと、誤字や句読点のミスはきっと書きながら修正してしまうと思う。その点「紙の日記」に書く内容は一発勝負なので、誤字も句読点のミスも、字の乱れもストレートだ。だからこそ、面白い。金勘定を必死にしていることが窺えるメモとか、後で見るとバカっぽくて本当に笑える。ToDoリストとかも、たまにわけのわからない単語が混じっていて、「なんだこれ?」となったりして、笑える(私の記憶能力がないだけだろうか)。お、意識高いこと書いてんなと思った翌日の日記に「もうしまっちゃうおじさんにしまわれちゃいたい」みたいなことが書いてあって、でもその翌日にまた意識が高くなったりしているのも笑える。なんなんだこいつは。しかしそれは残念ながら、紛れもなく自分である。

0円で(正確にはほぼ日手帳代で年間2400円くらいかかってるけど)こんなに楽しませてくれるのだから、過去の私はひょっとすると究極のエンターテイナーかもしれない。「こいつ頭わりいな」などと呟きながら一人で過去の日記を読みながらふふふと笑っている様子は絶対に誰にも見られたくないが、私の中ではけっこう幸福な時間だ。

【カンボジア一人旅/8】満足でもなければ、不満足でもない日常生活の始まり

……と、ここまで書いて思い出したのが以前カンボジアを旅行したときの自分のブログなのだけど、「充実した毎日」とか「震えるくらいの幸福」なんて、そんなにたいした意味はないんじゃないかと最近思う。日常は、ただ淡々と続いていくだけで、けっこう愛おしいものだ。


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