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【日記/12】サリンジャーを好きな男

今日は、箸にも棒にもかからない、与太話的文学論を展開しようと思う。居酒屋で、隣の席の酔っ払いに無理やり聞かされた話だとでも思って、あまり真剣に取り合わないでほしい。今日、私からの唯一のお願いである。

さっそくだが、私は「サリンジャーを好きな男」が好きだ。いや、この言い方はあまり正確ではない。私が好感をいだいた男性によくよく話を聞いてみると、彼はJ・D・サリンジャーの作品を愛していることが多かった、というのが正しい言い方だ。サリンジャーを好きな男を好きになってしまうのではなく、好きになった人がサリンジャーを好きであると後から判明することが多かった、というわけである。前後関係を聞き間違えて誤解しないでほしい。

先日の日記(https://note.mu/czech/n/neb3a389cc503)
で、私は異性に関しては、いつも一目惚れか二目惚れだと書いた。つまりこれを言い換えると、「私はいつも一目か二目でサリンジャーを好きな男を見分けられる」ということになる。そういうと、なんだか特殊能力っぽくてかっこいい。今度から人にいうときはそうしよう。

私が思うに、サリンジャーを好きな男には共通して見られるある傾向がある。以前、友人と話していたとき、私はその傾向を「男性的潔癖」と名付けた。

「男性的潔癖」とは何か。サリンジャーの名作である、『The Catcher in the Rye』の、ホールデン・コールフィールドを見るとわかりやすいだろう。「結局、世の中のすべてが気に入らないのよ」と、彼は妹のフィービーにいわれてしまう。ホールデン君は、世の中はインチキで、まわりの人間はみんな俗っぽいバカだと思っている。くだらない勉強なんかしていられなくって、学校を退学処分になる。

ホールデン君は、この世界のどこかに、俗っぽいバカなんかではない「聖なるもの」があると信じている。たとえばそう、死んでしまった賢くてかわいい弟のアリーとか。だけど、現実のこの世界では、もはやそんなものは見つけられない。「聖なるもの」をどこかに置きざりにして、失いながら、人は大人になっていく。妥協点を見つけ、現実となんとか折り合いをつけながら、かつてくだらないと見下していた俗っぽいバカに、自分自身がなっていくのだ。

「つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。」

ホールデン君の純粋さや不器用さは、おそらく誰もが一度は胸に抱えたことのあるものだ。しかし、私はこれを、あえて「男性的潔癖」と名付けた。

なぜかというと、多くの場合、女の子は幼少時代から、「聖なるもの」なんてないと親や世間から教え込まれるからである。清濁併せのむのが世の中なんだと、精神的な潔癖なんてものを抱え込む前から、純粋性を去勢される。女の子のほうが、「俗っぽいバカ」に成長するスピードが早いのだ。だからときに、男の子から見た女の子は、とんでもない低脳に映る。もちろん女の子は女の子で、まだまだ成長しきれていない男の子を、低脳の坊やだと思っている。お互い様である。

ホールデン君の抱える、世の中への不満、どうにもできない自分の不器用さを、女の子は、また男の子も、大人になる過程でみんなどこかに捨てていく。俗っぽいバカに成り下がって、世の中への不満も、自分の不器用さも、まるで最初からそんなものは持っていなかったかのように振る舞うようになる。そして、「君もさあ、いいかげん大人になれよ」なんていって、ホールデン君を諭すのだ。

だけど、サリンジャーを好きな男はちょっとだけちがう。サリンジャーを好きな男は、ホールデン君を前にしても、彼を諭したりしない。サリンジャーを好きな男は、大人になった今でも、自分がかつてホールデン・コールフィールドであったことを、しっかりと覚えているからだ。純粋さや不器用さを抱えたまま、ちょっと歪なかたちで、彼は大人になった。サリンジャーを好きな男は、ホールデン君を諭したりせずに、たぶん彼の隣に無言でそっと座る。

で、私はたぶんそういう男が好きなのである。「いいかげん大人になれよ」なんて、安易にホールデン君を諭したりしない。でも、世の中に「聖なるもの」なんてないこともまた、わかっている。だから、彼はときどき、だれも見ていないところで、静かに怒ったり、また静かに泣いたりする。

サリンジャーを好きな男は、直截的にいえば、ちょっと変なやつだ。もっというと、何を考えているのかわからなくて、めちゃくちゃ扱いづらい。だけど私はなぜか、そんなサリンジャーを好きな男が、好きなのである。

サリンジャーを好きな男は、いつもちょっとだけさみしそうだ。世の中はインチキで、まわりの人間はみんな俗っぽいバカである。だけど、彼自身だって紛れもない大人であり、そのことになんとか折り合いをつけようとしている。でも、いつも上手くいかなくて、ことあるごとに失敗している。

その様子があまりにも健気なので、私はサリンジャーを好きな男が、どうしても気になってしまうのだろう。ちょっと可哀想だけど、でもおかしいので、実は影でこっそり笑ってもいる。世の中はインチキで、まわりの人間はみんな俗っぽいバカである。それはそう、確かにそうなのだ。間違ってなんかいない。

さて、私の与太話的文学論は以上だ。異論は認める。だけど、私はサリンジャーを好きな男が好きで、そして、そのサリンジャーを好きな男を生み出したJ・D・サリンジャーという作家をもまた、敬愛せずにいられないのである。

※訳文はすべて村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ(2003年:白水社)』参照

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