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【日記/67】自己肯定感の定義

「自己肯定感」という言葉がある。これは一般的には、「自分には価値がある」とか、「自分は存在していてOKなんだ」とか、そういった自己を肯定している(そのままだな)感覚を指す言葉らしい。

私はなんとなく今まで、自分は自己肯定感がすごーくすごーく高いんだと思って生きてきた。しかしよくよくまわりの話を聞いてみると、いわゆる一般的にいわれる「自己肯定感」と、私の考えていた「自己肯定感」は、定義がちょっと異なっている可能性が浮上してきたのである。だとすると、私はどこで勘違いして自己肯定感高いと思って生きてきちゃったのかしら。この話題に限らず、人間の脳みその中身の話は目に見えないので難しい。自己肯定「感」って付くからには「感覚」なわけだけど、感覚の定義をすり合わせるってなかなか高度な言語能力を要求されません?

「自己肯定感A」と「自己肯定感B」

仮に、一般的にいわれている「自分には生きているだけで価値がある」「自分は存在していてOKなんだ」と思える感覚を「自己肯定感A」だとすると、私は実は自分にそういう感覚があるのかどうかよくわからない。生きている価値があるとかないとか、あまり考えたことがない。とりあえず、日本国憲法の基本的人権とか、国連の人権法とかがあるので、それを剥奪されるようなことがあれば訴えるぞ、という感覚はある。でも「自分は存在していてOKなんだ」ってきっとそういう話じゃないんだろう。

では、私が勝手に自分で思い込んでいたほうの感覚を仮に「自己肯定感B」だとすると、私はこれを、「自分が意思決定をする際に、他人を極力介在させないで済む状態」みたいな意味で使っていた。

これはどういうことかというと、逆の方面から、つまり「自分が意思決定をする際に、他人を介在させてしまう状態」から説明したほうがわかりやすいかもしれない。その点でいうとやはり、永田カビさんの『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』はとても示唆に富む内容の漫画だったと思う。

この漫画の主人公である、というか著者である永田さんは、作品内で「自分にとって親の評価が絶対だった」と独白している。「親から認められたい がんばらなくても許されたい それだけが原動力で動いていた」「『自分はどうしたいのか』がわからなかった 考えられなかった」などの言葉が、そのあとに続く。永田さんの場合ははっきり「親」と言い切っているのだけど、これが「恋人」であったり「友達」であったり、もっと大きくてもやもやした「世間」であったり、それらいくつかの複合型であったり、バリエーションはおそらくいろいろある。

永田さんは「親」に認められようと、無職からフリーターになり、実家にお金を入れようとしたりする。だけど、最後の判定を他者(親)に委ねてしまっているので、少しのことで傷付いたり、精神がグラグラしてしまう。この考え方だと、どんなに頑張っても、お母さんが「NO」といったらそれは「NO」だ。

少し方向性を変えた話をすると、ちょっと前に、ある女性誌の「だって、『幸せそう』って思われたい!」というキャッチコピーが議論を巻き起こしたことがある。こちらも、幸せの最後の判定を「世間」という他者に委ねてしまっているので、主体性のない生き方を提示しているのではないか? と話題になった。私が使った言葉でいうと、これも「自分が意思決定をする際に、他人を介在させてしまう状態」である。「自己肯定感Bが低い状態」だ。

結果と過程

しかし、そもそもなんでこんな面倒くさい話を始めたのかというと、自己肯定感の亜種? である「自己効力感」という言葉が、私の中でとても引っかかったからである。「自己効力感」とは、何か行為を前にした際に、「自分ならできる!」とか、「きっと上手くいく!」と思えるような感覚を指すらしい。

そういう言い方をされてしまうと、私は「自己効力感」なんてものはあんまり持っていない。なんというか、私は物事をかなりイーブンに考えているので、何かにつけて「上手くいく可能性もあるが上手くいかない可能性も普通にある」みたいな見方をしている。すべては五分五分であって、「自分ならできる!」なんて思っていない。「できる可能性もあるができない可能性も普通にある」と思っている。ポジティブでもネガティブでもなく、できるだけ現実に即したかたちで公平に物事を考えている(と少なくとも本人は思っている)。

とはいえ、「可能性が30%でもあるのならやってみようか」と、いつもなんだかんだいって手足を動かしてはいる気がする。しかし、行動に移したあとも依然として可能性は30%のままだ。ということはつまり70%の可能性で失敗するわけだが、そこは「ダメだったらダメだったでいーや」と思っている。失敗コミコミで動いているのである。上手くいかないのは想定内だ。

「ダメだったらダメだったでいーや」と思っていられるのは、前述した「自己肯定感B」が関係している。私は意思決定をする際に「(自分が)楽しい」「(自分が)面白い」をすごく重視しているので、結果がダメだったとしても、そこに至るまでの過程で楽しかったり面白かったりけっこういい思いをしている。だから失敗しても「まあいっか」なのだ。

もちろん私のこの考え方には欠点もあって、まず、けっこう自分に甘くなってしまう。私はいつも最後の詰めが甘いというか、自分を追い込めないというか、ヌルヌル生きてしまっているので、そこはわりと反省しているというか劣等感すら抱いている。やはり世間でそれなりの名声というか成功を収めている人は、「今は」のんびりしていても、一度は自分を追い込んだ経験があるケースが多い(気がする)。そういう過程を経ずにただヌルヌルしていていいのだろうかみたいな疑問は常にある。なめこのような人生である。

話をまとめると、私は今回、「自己肯定感A」と「自己肯定感B」を比べてどちらが正しいかという話をしているのではない。もちろん考案者なので、私にとっては「自己肯定感B」のほうが扱いやすいのだけど、これを世間一般の新定義にしようなどとは思っていない。ただなんか、他の人はこのあたりの定義どうなってるのかな? と思い書いてみた。みんなAを前提に考えているのなら、私は「自己肯定感A」はあんまりないので、今度から「自己肯定感が高い」と自称するのは誤解を招くのでやめようかななどと思う。しかし実は私のBのほうが優勢だったとか、あるいはCとかDとかEとかπとかあるのかもしれない。感覚の話は難しいのでわからない。

あと少しだけ望みとしては、「自分ならできる!」よりは「ダメだったらダメだったでいーや」のほうが考え方的に合っている人がいるかもしれないと思ったので、そういう人に参考にしてもらえたらいいなと考え書いた。私のようななめこLifeを送っている人にはオススメである。





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