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【日記/46】NHKスペシャル 大アマゾン『最後のイゾラド』

巷で少しだけ話題になっている、NHKスペシャル 大アマゾン『最後のイゾラド』を見た。「なにそれ?」と思った人は、以下の記事を読んでもらうと概要がつかめると思う。

赤ん坊を白蟻の巣に入れて燃やす!? アマゾンの先住民を撮り続けた男が語った「あの日」

端的に説明すると、アマゾン川の源流があるペルーとブラジルの国境付近に、この21世紀にして未だかつて文明社会と接触をしたことがない、イゾラドという原住民が住んでいる。そこでNHKが、ペルー政府の協力を得て、彼らを取材するというものだ。

アフリカの少数民族を取材する番組などは珍しくないが、アフリカの少数民族は今はもうかなり文明化されているケースも多く、観光客に対してお金を要求したりとか、普通に携帯電話を持ってしゃべっていたりする。もちろん、外部の人間が彼らにセンチメンタルなロマンを押し付ける権利はないので、それは全然いいのだけど、〈文明と接触したことがない〉というのは控えめにいってもなかなかすごい。番組のなかでは、イゾラドがカメラマンの服を珍しそうに見て、「脱いで! 見せて!」と引っ張ってみたりしていて、衣服を着るという習慣を持たないこの人たちの頭のなかでは、衣服とはどのようなアイテムとして認識されているのだろうか、などと思った。

最近の私は、この手のものをちょっと見すぎて(読みすぎて)いる気がする。パプアニューギニアの本とか、このNHKとは関係のないアマゾンの本も読んだし、今読んでいる本はミャンマーからインドの国境を目がけて、ヒルに全身を噛まれながら密林をゲリラとともに行軍している。こういうのを一度にたくさん摂取すると、あまりにも環境が過酷なことにだんだん感覚が麻痺してきて、風呂なんか1週間くらい入らなくても全然平気だろって気分になってくる(※気分になるだけで、毎日ちゃんと入っています)。

あとなんか、私は今までの人生で、「強烈な飢え」というのを経験したことがない。戦前戦中じゃないんだから当たり前だろと思うかもしれないが、ミャンマーのゲリラが「毎日毎日腹が減ってすごく辛かった」と昔の思い出を真剣な表情で語っていたりとか、ポル・ポト政権下のカンボジアの人が腹が減りすぎて気が狂ったとか、木の根を掻き出して食ったとか、そういう話を読むと、「ああ、これが人間だ」と思う。

私は深沢七郎の小説『楢山節考』がすごく好きなのだけど、これを読むときもやはり「ああ、これが人間だ」と思う。『楢山節考』とは要約すると姥捨の話で、主人公が自分の母親をおぶって山に捨てに行く。村は食べ物に飢えていて、食べ物を盗んだ人間を集団リンチして死ぬ目に遭わせたりする。現代人にとっては想像を絶する話だけど、「食べ物を盗む」というのはまさしく死罪に相当してもおかしくない大罪なのだ。「食べ物の恨みは怖いね〜」なんて、あれは本来、冗談めかしていうもんじゃないんだろう。

もちろん私はここで、「文明化された社会は間違っている! 人間本来の暮らしを取り戻そう!」なんてことをいうつもりはさらさらないのだが、人間という生き物が本来的にどういうものなのかってことを知れば知るほど、面白いなと思う。

まあ、「本来的」という言葉はあまり適切ではなくて、じゃあ今の文明化された社会は本来の人間のあり方とは異なるのかといわれるとそういうもんでもないのだけど、「もし私が、今とは異なる社会で生きていたとしたら、いったいどういう人間であっただろう?」なんてことを考えてみるのは、決して無駄なことではないと思う。

イゾラドの感想と気が付いたら全然ちがうことを書いてしまった。最後に無理やりまとめると、思うに、異なる文化や異なる社会と接触することは、単にこちら側の好奇心を満たすためのものではない。

異なる文化、文明、社会は、常にこちら側に問いかけてくる。「あなたは誰?」と。イゾラドも、NHK取材班に聞いていた。

「あなたは誰?」と問われると、言葉に詰まる。なぜ今私は、「これ」を正しいと思っているのか。なぜ今私は、「これ」を信じているのか。

そして、そういう地味なことをウンウン唸りながら考えるのが、私やっぱり好きだ。

※これも似た話をしている→【日記/40】入浴という概念



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